雪深く、ひたすら寒く、米も獲れない「無高大名」と揶揄されたうえ、身の丈に合わない政策を押し付けられて…。なのに領地は二度も没収されるし、幕末には先祖代々の故郷が戦場なってしまうなど、小藩の悲哀を味わった松前藩の興亡を学んだ。
12月13日(火)午後、札幌大学において「札幌大学・森林総合研究所合同公開講座」という催しに参加した。
この講座は、主催する両者の研究者がそれぞれ研究の一端を市民に公開するという講座である。
今回、札幌大学は札幌大女子短期大学の横島公司助教が「幕末維新期の松前藩と箱館戦争」と題して、森林総合研究所は森林育成グループの津山幾太郎主任研究員が「気候変化と植物の分布」と題して、それぞれ講義した。
はじめに講義した津山氏の講義も興味深かったが、地球温暖化が植物の分布を変化させるということについては、ある程度私の中に予備知識もあり、予想していたことでもあったので、ここでのレポは割愛する。
続いて、横島氏が講義した松前藩の話は私にとってかなり興味深い内容であった。というのも、道内唯一の藩でありながら、その実態についてあまり知識がなかったからだ。
※ 講義された札幌大女子短期大学の横島公司助教です。
松前家の起源は1400年代に遡るという。14世紀ころから和人が蝦夷島の南部に集住し始めたのが始まりとされる。その中から、藩祖として武田信広が登場し、周りを平定していったそうだ。
そして1600年代の秀吉による小田原征伐に参陣し、大名として認められたという。
また、関ケ原の戦いにも東軍として参加したことで、江戸時代まで生き残ることになり、その頃、「松前」と改名もしたようだという。
大名とは認められたものの、石高によって藩の格が定められていた江戸時代にあって、米の収穫が皆無の藩は松前藩以外にはなく、「無高大名」と呼ばれ格下扱いだったようだ。
さらに、先住民族であったアイヌ民族が度々蜂起して松前藩に反抗するために「北方は不安定」と幕府に思われていた節があったそうだ。
そうした中で1829年、第9代藩主・松前章広の息子として松前崇広が誕生する。崇広は名君の誉れ高く第12代藩主に就くと次々と藩政を改革し、幕府にも注目される存在となった。そして異例中の異例の出来事として崇広は1863年、幕府老中(陸海軍総奉行兼任)に抜擢されたという。歴史に疎い私であるが、松前藩から老中に就いた藩主がいたとは初耳だった。
※ 第12代松前藩主にして、江戸幕府老中を務めた松前崇広の姿です。
崇広は懸命に職を務めようとしたが、時代が悪かった。1854年にはペリーの来航などもあり、世情が騒然としていた。世の中は佐幕派と討幕派に分かれ「血で血を洗う権力闘争」の真っただ中だった。幕府は長州征伐を仕掛けるものの失敗に終わり、1865年その責任を問われ罷免された。その職に留まったのはわずか2年という短さだった。失意の崇広は翌1866年熱病にて死去したという。
崇広亡き後の松前藩は、藩内の権力闘争に明け暮れ藩が再びまとまることはなかった。
そんな中、1868年10月榎本武楊率いる旧幕府軍が函館五稜郭に「蝦夷共和国」を樹立した。そして松前藩に降伏を迫るも、松前藩はこれを拒否する。そのため土方歳三を隊長とする「蝦夷共和国」軍は松前城を攻め、1868年11月5日これを陥落し、ここに松前藩は消滅に至った。
※ ご存じ土方歳三の写真です。この写真は必要なかった?
常に小藩の悲哀を味わい続けた松前藩であるが、例え一時とはいえ藩主・崇広が江戸幕府の老中の任を担ったという事実は「もう少し知られてよいのでは…」と講師の横島氏は語ったが、私もそう思いながら興味深く伺った講義だった。
12月13日(火)午後、札幌大学において「札幌大学・森林総合研究所合同公開講座」という催しに参加した。
この講座は、主催する両者の研究者がそれぞれ研究の一端を市民に公開するという講座である。
今回、札幌大学は札幌大女子短期大学の横島公司助教が「幕末維新期の松前藩と箱館戦争」と題して、森林総合研究所は森林育成グループの津山幾太郎主任研究員が「気候変化と植物の分布」と題して、それぞれ講義した。
はじめに講義した津山氏の講義も興味深かったが、地球温暖化が植物の分布を変化させるということについては、ある程度私の中に予備知識もあり、予想していたことでもあったので、ここでのレポは割愛する。
続いて、横島氏が講義した松前藩の話は私にとってかなり興味深い内容であった。というのも、道内唯一の藩でありながら、その実態についてあまり知識がなかったからだ。
※ 講義された札幌大女子短期大学の横島公司助教です。
松前家の起源は1400年代に遡るという。14世紀ころから和人が蝦夷島の南部に集住し始めたのが始まりとされる。その中から、藩祖として武田信広が登場し、周りを平定していったそうだ。
そして1600年代の秀吉による小田原征伐に参陣し、大名として認められたという。
また、関ケ原の戦いにも東軍として参加したことで、江戸時代まで生き残ることになり、その頃、「松前」と改名もしたようだという。
大名とは認められたものの、石高によって藩の格が定められていた江戸時代にあって、米の収穫が皆無の藩は松前藩以外にはなく、「無高大名」と呼ばれ格下扱いだったようだ。
さらに、先住民族であったアイヌ民族が度々蜂起して松前藩に反抗するために「北方は不安定」と幕府に思われていた節があったそうだ。
そうした中で1829年、第9代藩主・松前章広の息子として松前崇広が誕生する。崇広は名君の誉れ高く第12代藩主に就くと次々と藩政を改革し、幕府にも注目される存在となった。そして異例中の異例の出来事として崇広は1863年、幕府老中(陸海軍総奉行兼任)に抜擢されたという。歴史に疎い私であるが、松前藩から老中に就いた藩主がいたとは初耳だった。
※ 第12代松前藩主にして、江戸幕府老中を務めた松前崇広の姿です。
崇広は懸命に職を務めようとしたが、時代が悪かった。1854年にはペリーの来航などもあり、世情が騒然としていた。世の中は佐幕派と討幕派に分かれ「血で血を洗う権力闘争」の真っただ中だった。幕府は長州征伐を仕掛けるものの失敗に終わり、1865年その責任を問われ罷免された。その職に留まったのはわずか2年という短さだった。失意の崇広は翌1866年熱病にて死去したという。
崇広亡き後の松前藩は、藩内の権力闘争に明け暮れ藩が再びまとまることはなかった。
そんな中、1868年10月榎本武楊率いる旧幕府軍が函館五稜郭に「蝦夷共和国」を樹立した。そして松前藩に降伏を迫るも、松前藩はこれを拒否する。そのため土方歳三を隊長とする「蝦夷共和国」軍は松前城を攻め、1868年11月5日これを陥落し、ここに松前藩は消滅に至った。
※ ご存じ土方歳三の写真です。この写真は必要なかった?
常に小藩の悲哀を味わい続けた松前藩であるが、例え一時とはいえ藩主・崇広が江戸幕府の老中の任を担ったという事実は「もう少し知られてよいのでは…」と講師の横島氏は語ったが、私もそう思いながら興味深く伺った講義だった。