幕末の蝦夷地を6度も旅し、“旅の巨人”と称され、「北海道の名付け親」ともいわれている松浦武四郎の特別展が北海道博物館で開催されている。その特別展の見どころを北海道博物館のナビゲーターが解説してくれた。
7月14日(土)午後、北海道博物館においてミュージアムカレッジが開講され参加した。この日のテーマは「特別展 ここが見どころ!」と題して、同博物館の三浦泰之学芸員が担当した。
三浦学芸員は特に北海道史に詳しい方で、私たちが開催している野外講座の「さっぽろの古を訪ねて」の最初の講義も担当していただいた方である。
特別展の正式名称は「幕末維新を生きた旅の巨人 松浦武四郎-見る、集める、伝える-」であるが、これは担当の三浦氏が考えたということだ。特に、「見る、集める、伝える」という副題にこだわったということだが、その言葉はまさに松浦武四郎の人生そのものだと三浦氏は語った。
松浦武四郎は、幕末の未開の蝦夷地を6度にもわたって見て歩いた。
さらに、武四郎は蒐集家として、旅した先で貴重なものをたくさん集めたようである。
そして、膨大な書である。旅した地を緻密に著わした地図、克明な記録を膨大に残したという。
意外な事実を知った。武四郎の身長は147cmという小柄な方だったという。そんな小さな体で一日60キロから70キロのペースで蝦夷地の荒野を歩き回ったという。どこにそのようなエネルギーを秘めていたのだろうか?
武四郎は16才のときに家出し、17才から日本各地を放浪し始めた。21才の時に大病を患ったために出家したそうだが、26才になって北方情勢の危機的状況を耳にしたことがキッカケとなって蝦夷地踏査を志し、還俗して蝦夷地を目ざしたという。
そして28才~32才(1845~1849)の5年間に3度も蝦夷地を探検した。この時は一介の志士として、松前藩の役人や足軽、あるいは商人や番人、アイヌ民族の世話を受けながら踏査したという。
そして、39才~41才(1856~1858)にかけてさらに3度、今度は幕府の「御雇」として踏査し、都合6度にわたって蝦夷地の隅々まで踏査した。
その後、幕府に辞職願を出して、6度の踏査で見聞したことを「石狩日誌」、「十勝日誌」、「東西蝦夷山地理取調図」など、およそ45件(一説によると151冊という説もある)にのぼる著書を著わしたそうだ。
明治維新後、1868(慶応4)年に明治政府に取り立てられて、北海道開拓に関わるさまざまな官位を拝命し、その間に「北海道」の名の元となる「北加伊道」という名称を提案するなど北海道の開拓に尽くしたが、1870(明治3)年自らの意思で退職した。
それからは悠々自適の生活で、全国各地へも旅したようだが1888(明治21)年71才にして東京神田五軒町の自宅で亡くなったそうだ。
講座では、武四郎の残した各種の書物から、武四郎が蝦夷地の踏査だけではなく、政治家・商人・学者・文人などと幅広い交友関係を持っていたことも紹介された。
講座後、さっそく展覧会場に足を運んだのだが、その資料の多さは私の予想を大きく上回るものだった。この日はミュージアムカレッジを含めて、3つの講座を受講した後で、いささか疲れていたので、他日を期し早々に会場を後にしてしまった。
後日、展覧会についてもレポしてみたい。