タイトルは「芥川賞を読む」ではなく、「芥川賞を読めなかった」の方が正しい。本日の拙ブログは屈辱と憤怒の記である。今季文学賞受賞作品「貝に続く場所にて」を読み通すことができなくて、私は今その屈辱と憤怒に包まれている。
文学とは自らの作品を他者に読んでもらうことが第一の目的ではないのか。ところがこの作品ときたら、一般人に読んでもらうことなどどうでもよくて、ただただ芥川賞狙いで書いたのでは?としか私には思えないものだった。この作品をお読みになっていない方に、その出だしを書き写してみる。
人気(ひとけ)のない駅舎の陰に立って、私は半ば顔の消えた来訪者を待ち続けていた。記憶を浚(さら)って顔の像を何とか結び合わせても、それはすぐに氷のように崩れてゆく。それでも、すぐに断片を集めて輪郭の内側に押し込んで、つぎはぎの肖像を作り出す。その反復は、疼(うず)く歯を舌で探る行為と似た臆病な感覚に似ていた。
私はこの書き出しの数行を目にしただけで、なんだか嫌な予感がした。するとその後もこの作者独特の言い回しの雨(あめ)霰(あられ)である。とてもストーリーに入っていくことができなかった。その言い回しの2~3を拾ってみると…、
ゲッティンゲンは時間の縫い目が目立たない街である。ひとつの時間から別の時間へ、重ねられた記憶の中をすいすいと進んでゆくことができる。
さらには、次のような言い回しのところもあった。
私たちは多面体の結晶を手の中で転がすようにして、他人の証言的な言葉を集めて覗き込み、この出来事を消化しようとしていたのかもしれない。
こうした断片的な紹介は、かえって拙ブログを読んでいただいている方を戸惑わせることになってしまうかもしれないが、私はこの作品を通読しようとしてもどうも「お前のような一般人は作品の中に入ってきてくれるな」的オーラが漂っていたように感じ、とうとう途中で投げ出してしまった。
ところがこの作品について、芥川賞選考委員会の選者からの評は概ね好評だったのだ。先に紹介した「彼岸花の咲く島」より高い評価を受けているのである。これまでの芥川賞受賞作品には同じような傾向は見られたが、この「貝に続く場所にて」はその傾向がより顕著であったように思った。その点では作者のねらいはズバリということなのかもしれない。しかし、そんな選者の中にも私の味方はいた!作家・山田詠美氏は次のように言う。
(前略)しかし、作者が「文学的」と信じている言い回しが読んでいて照れ笑いを誘う。〈意味の解けた物の塊の映像が別に浮かび上がり、歯痛を真似て疼き出した〉とか。うぷぷ……全然、意味わかんないよ!(後略)
私は拍手喝采した。私だけの独りよがりではなかったことに安堵した。一般に純文学と云われる分野は、私のように文学的な素養の無い者には難解に映る。それでも一億数千万人の日本人の中には一定数の読者が存在しているということなのだろう。しかし、作者の石沢麻衣氏がこれからも同じような文章を紡いでいくとしたらはたして作家として成り立っていけるのかと思ったりしたが、門外漢のいらぬ心配か???
※ なお、8月16日の投稿「芥川賞を読む」で本年度下半期の芥川賞と記したが、上半期の間違いだった。訂正しておきます。
まだ、今年の2作品とも読んでいませんが、
近年の芥川賞は「何言いたいの・・・?」
と思う作品が多いのです。
もちろん、私の理解不足ですが。
図書館行けず、借りれないと思っていたけれど、読むのを止めます。
ありがとうございました。
コメントをいただき、とても心強く思っています。あるいは私一人が感じていることかな?という不安がありましたので「同感」と言っていただきとても安心しました。ありがとうございます!