私にとって20数年ぶりのキャンプは、当時とはキャンプ用品などがずいぶんと違っていて興味深かった。最新のキャンプ事情をやぶにらみしてみた…。
※ 私たちが設営したメッシュ付きのタープテント(左側)と寝室用のテント(右側)の二つのテントです。
息子のキャンプ用品はけっして最先端を走っているものではなく、最近のキャンプではごく一般的なものだと思われた。
それでも私たちが楽しんでいたころと、決定的に違うのは寝室機能を備えたテントの他に、寛いだり、食事をしたりするスペースとしてメッシュ付きのタープテントを備えることが一般的となっていることである。このメッシュ付きタープテントの登場によって、天候に関係なくキャンプを楽しむことができるようになったと思われる。
※ 初日の朱鞠内湖の表情です。
私がキャンプを楽しんでいた時代、私のテントもその当時は先端を行っていたものと自負していた。フライシートはもちろんのこと、寝室機能を備えた部分と、雨などを避けて食事などができるスペースを一つのテントで備えたものだった。しかし、別々のテントを設営する現代のキャンプには広さではとてもかなわない。
※ 二日目の朝、曇り空の中の朱鞠内湖です。
ところで私たちのテントの横に、アメリカの先住民族のティピーテントに似た三角形のテントが立っていた。息子によると、最近流行の兆しを見せているワンポールテントだそうだ。設営時間の短さが魅力だとか。多摩ナンバーの男性が独りキャンプを楽しんでいた。
※ 私たちのテントの横には流行りつつあるワンポールテントが立っていました。
次に進化を感じたのが、キャンピングマットである。ホームセンターなどで販売しているフロアマットを敷くのは知っていたが、その上に敷いていたのがウレタンマットにエアを注入することができる優れものだった。私の場合は、山にも使えるエアマットを現在車中泊用に使っているが、まったく寝心地が違う。直ぐにでも購入したいと思った優れものである。
凝っている向きは、地面と接しない組み立て式のキャンピングベッドを使用する人が増えているとも聞いた。
※ 幌加内町に入ると俄然そば畑が目立ちました。最盛期はもう少し先のようでした。
三つめは照明器具である。私の頃は、ガス照明が一般的だった。操作がけっこう面倒だったが、今は乾電池製のものが主流のようだ。しかも明るい。私も車中泊用には乾電池製の照明器具を使用しているが、重量や容積を気にしなければ、乾電池製が断然優れているようだ。
その他でも細々したところで、さまざまな部分で進化していたが、快適なキャンプをするためにと、どこまで利便性を追求すべきか考えるべきところもあるのかもしれない。
例えば、発電機を持ち込んで電化製品をあれこれと使ってのキャンプなどは本来の楽しみ方かどうか、疑問も感ずるところである。
自然に抱かれて、不便さを楽しむのもキャンプの楽しみではないのか、と思うからである。
※ 帰路、北竜町のひまわり畑にも寄ってみましたが、こちらも最盛期はもう少し先のようでした。
それにしても、二つのテントや多くのキャンプ用品を撤収するために、結構時間がかかったが、これも現在のキャンプの一つの側面なのだろう…。
満点の星空ならぬ、漆黒の闇の中に赤く燃え盛るたき火を囲み、酒を酌み交わしながら二人の男はいつ果てるともなく語り合った。聞こえるのはたき火が爆ぜる音だけ、静かに佇む朱鞠内湖を前にして至福のひと時を過ごした男二人だった。
行ってきました! 朱鞠内湖!
札幌市内から片道200キロ超! 遠かったぁ!(もっとも、運転は全て息子任せだったが…)
遠かったけれど、行った価値を十分感ずることができた朱鞠内湖畔のキャンプだった。
幌加内町が発行するパンフレットに「北欧の湖畔にいるような錯覚をもたらす…」と表現されているが、まさに森と湖の絶妙のマッチングがそう言わせたのだと思う。
ちょうど湖ではカヌーを楽しむ人を見かけたが、カヌーがとても似合う湖である。
そんな湖の湖畔に展開するキャンプサイトも素晴らしかった。湖と森に包まれるような形でキャンプサイトが展開していた。
その一角に私たちはテントを設営したのだが、平日とあって張られているテントの数も数えるほど…。私たちは他をまったく気にすることなく、キャンプを楽しむことができた。
テントを設営した後、ボーッと湖を眺めたり、貸しボートで湖に漕ぎ出したりした後、夕食は多くのキャンパーがそうするようにBBQを楽しんだ。夕食が終えるころには、夜のとばりが降り始めた。
すると、BBQコンロはたき火台に早変わりである。用意してきた薪を放り込み小さなキャンプファイヤーだ。
私たちはたき火を眺めながら、酒を酌み交わし、あれやこれやと話し合った。家族のこと、趣味のこと、将来のこと、etc.…。暑くなく、寒くなく、風もなく、静かな夜が更けてゆく。それはそれは至福の夜だった。
いつ果てるともない、二人の静かな会話は続いたが、はっ、と思って時計を見ると、時計の針はまもなく10時を指すところだった。
すっかり酔いもまわり、瞼も重くなってきた二人はたき火を始末し、テントに潜り込み、ぐっすりと寝込んだのだった。
※ ボート上から見た私たちのテントです。左側にある二つのテントが私たちのテントです。左側は食事などをするタープテント、右側が睡眠をとるテントです。
それは私が記憶するかぎり、20数年ぶりのテントでの夜だった…。
朱鞠内湖畔に夜のとばりが降りようとしています。
今、午後7時30分を回ったところです。
静かな静かな朱鞠内湖畔です。
マイナスイオンいっぱいに包まれて、最高の気分です。
これから焚き火を囲んで、息子と長い夜を語らいます。
写真はキャンプサイトから見た朱鞠内湖です。
ワープロミスではない。子父キャンプで間違いない。息子から「男同士のキャンプをしよう!」と提案があった。思いもかけない提案だったが、「それは面白いかも!」と即座に「OK!」の返事をし、今日これから朱鞠内湖に向かうことになった。
過日、息子から「7月19日~21日に夏休みをとる予定。本当は○○(娘の名)が夏休み期間に取りたかったけど、仕事の都合上そこくらいしか取れず。なので、キャンプでも行く?」というメールが入った。
何の前ぶれもなかったので、メールだけからは良く分からないところもあったので、私は「キャンプなんてしばらくしていないな~。家族全員で?それとも男同士で?」というメールを送った。すると、「平日だから男だけ」と返信があった。
私はすぐさま「いいとも!!」と回答し、男同士のキャンプが決定したのだ。
私はどちらかというとアウトドア志向派なので、いくつになっても「キャンプをしたいなぁ」という気持ちを抱いていたが、妻はまるっきりインドア派なので、息子が小さなうちこそ毎年のように家族キャンプをしていたが、それ以降はとんと縁がない。
私と息子は家族キャンプ以外にも、春早い時期から秋遅くまで年間に何度も二人だけでキャンプ出かけていた。
しかし、息子が成長すると家族キャンプも男同士のキャンプもぷっつりと遠ざかってしまっていた。
息子の家族はキャンプが好きのようで、このところ毎年のようにキャンプに出掛けているようだ。今年など5月末に早くもキャンプに行ったと聞いて少々驚いたほどだった。
そんな中での息子からの提案である。
行先は息子に任せた。すると、キャンパーにとって憧れ?(あるいは聖地?)らしい「朱鞠内湖」という提案があった。最近のキャンプ事情にまったく疎い私は息子に任せるしかなかった。しかし、けっこう遠いなぁ~。
しかも、アクティビティとしては朱鞠内湖での釣りくらいしかないようだが、私は全く釣りをしたことがなく、興味もない。
のんびりと湖を眺める以外何も思い当たらない。まあ、男同士でBBQでもやりながら、酒を飲みかわし、来し方を語り、行く末を語り合いますか?
これから朱鞠内湖を目ざして出発します。
7月12日(水)午後、札幌大学公開講座「地域創生入門」の第13講が開講された。この会は北海道文化財団理事長の磯田憲一氏が「君の居場所はここにあるからね ~「君の椅子」の12年~ 」と題して話された。
※ 熱い想いを語る磯田憲一氏です。
磯田氏は多彩な顔を持つ方である。元北海道副知事にして、現在の肩書である北海道文化財団理事長、北海道農業企業化研究所理事長、NPO法人アルテピアッツァ美唄代表、旭川大学大学院経済学研究科客員教授などなどである。
その磯田氏が旭川大学において磯田ゼミの学生と取り組んだのが「君の椅子」プロジェクトである。「君の椅子」誕生のストーリーは次のようなことだそうだ。
磯田ゼミのある学生が秋田県の大曲花火大会を観て感動して帰ってきたことが発端ということだ。花火の話から、北海道の小さな町では子どもが誕生した時に花火を上げて祝う地域があることが話題になったという。それは小さな命の誕生を地域挙げてお祝いするという心温まる話としてゼミの学生たちは受け止めたようだ。
親が我が子の人権・人格を殺めるような世情になったことに心を痛めた磯田氏と学生たちは、自分たちにできることを1年間かけて検討しあったという。その結果、地域産業である旭川家具を活かして作る「君の椅子」を誕生した子どもに贈るという「君の椅子」プロジェクトだった。
※ 実際に贈った椅子を前に語る磯田氏です。
小さな椅子を贈るとはいっても一脚数万円する椅子(デザインなどによって違いますが3~4万円するそうです)を大学生が贈れるはずがありません。
磯田ゼミでは、この話を旭川地方の自治体に呼び掛けたところ、いち早く東川町が手を挙げて、このプロジェクトは動き出したという。
この取り組みは東川町で子どもを産んだお母さんたちから大好評で迎えられ、翌年から心待ちするお母さんたちの声が役場に次々と届いたそうだ。
そして周辺の自治体にもその輪が広がり、現在では東川町、剣淵町 、 愛別町、 東神楽町 、中川町、そして長野県の売木(うるぎ)村と6町村が参加しているそうだ。
また、2011年3月11日に被災した岩手、宮城、福島の三県で3月11日に生まれた98名(実際には104名誕生しているそうだが)に1年後に「希望の君の椅子」を贈呈したそうだ。このことはマスコミでも大きく取り上げられた。
※ 東日本大震災発生時に誕生した子どもたちに贈った椅子の裏書きです。
磯田氏は言う。ゼロ歳児に贈る椅子に、敢えて「君の椅子」と名付けたところに意味があると…。それは例えゼロ歳児ではあっても、一人の人間としてその存在を慈しみたいという思いが込められているという。
磯田氏たちの想いに賛同する有名デザイナーや、名もなき旭川家具の職人たちなど多くの協力者が現れたという。
そして今、磯田氏たちの想いは、静かに、そして確かな広がりを見せているという。
磯田氏はけっして功を焦らないという。「時を味方に付けよう」、「時を重ねて熟成するが故に価値が出てくる」ことを信じていると…。
※ 椅子のデザインは毎年違うそうです。歴代の椅子を集めた写真をウェブ上から拝借しました。
講義の冒頭で磯田氏は、「経済的には一周遅れの北海道であるが、生き方においてモデルとなる北海道になろう」と話された。
磯田氏たちの実践は、まさに素晴らしい生き方のモデルを全国に発信してくれた好例であると思う。
講座関係のレポはなかなか直ぐには取り掛かれない。講義を受講してから、私の中で整理するまでに時間が必要なケースが多いのだ。特に北大関係の講座は私の中で咀嚼するまでに時間が取られる。本講座も実は7月6日(木)に受講したものである。
北大公開講座「『非常識』が照らし出す私たちの未来」 第2講は、北大獣医学研究院の坪田敏男教授が「クマに学ぶ ~草食を選んだ肉食獣~」と題して務められた。
クマはもともと肉食獣であったことは誰もが想像がつくのではないか?事実、クマの歯列を見ると現在も鋭い犬歯が健在である。
しかし、いつの頃からか(坪田教授でもその時期は特定できないようだ)クマは草も食べるようになったという。これは、ヒグマもツキノワグマにも言えることだそうだ。
特にヒグマについていうならば、従来はシカやサケ、あるいは昆虫などの動物性の食物が中心の生活だったものが、北海道が開発され、サケ漁が行われたり、クマ自身によるシカの捕獲が難しくなったりする中、それに代わるものとして植物が彼らの食生活の中心となっていったようだ。
ツキノワグマの年間に食するものを見てみると、春季にはブナの種子、ブナの新芽、あるいは草本類、秋季にはブナの種子、クリの種子、果実類などをその年の植物の出来によって食しているということだ。(講師の坪田教授は岐阜大学在任期間が長く、ツキノワグマの研究にも長く携わっていた)
※ ヒグマの写真をウェブ上から拝借しました。
ところがクマはもともとが草食性でないため、草食の場合はその消化率が良くないそうだ。草食性の牛やシカが約70%の消化率に対して、ジャイアントパンダの場合18%ということだ。それでも、クマは少しでもその消化率を上げるために奥歯が草を噛み潰しやすいように平らな歯を獲得するという進化を遂げているそうだ。
北海道に生息するヒグマは完全な草食性ではなく、遡上するサケを捕まえたり、シカの死骸も食したりすることから、雑食性ということが言えるが、ツキノワグマの場合は草食の割合が相当高くなっているということだ。
続いて、クマの冬眠については良く知られるところだが、出産・哺育も冬眠中に行っているという。なぜ冬眠中に出産するという不思議な習性について、その正確な理由は未だ謎らしいが、坪田氏によると生まれたコグマを天敵であるオオカミから護るためではないか、ということだった。出産・哺育する母グマの冬眠は浅いのではないか、とも坪田氏は言及した。
※ こちらはツキノワグマです。
最後にクマたちが近年人里に出没するようになったが、その要因を次のように指摘した。
①自然環境、とくに森林の構造変化 ②堅果および液果類の豊凶 ③自然災害、とくに台風の影響 ④ナラ菌によるナラ枯れ ⑤里域の管理不足 ⑥分布域と個体数変化 ⑦新世代クマの出現 ⑧保護管理(担い手)の不足 以上はツキノワグマを念頭においた傾向のようだが、ヒグマについても同じようなことが言えそうだ。
ツキノワグマに比して、ヒグマの出没、被害はまだ少ない現状だが、同じような注意、対策が必要であろう。
私たち人間に直接危害を与える危険性のあるクマだが、彼らの生育環境の変化が、食性や生態の変化を呼び、さらには人間との接点を近くしているという現状のようだ。
この現状に対して、私たち人間は彼らの生育環境をこれ以上変えることが無いよう、彼らの生育環境を護るという視点から対策を講じていくことが必要になっているということなのかもしれない。
道内各地に住む友人たちが年に一度、札幌に集まる時期がまたやってきた。今年の幹事役になっている私はあれこれと企画を練っているが、その一つに懇親会の後に〆として札幌ラーメンを食するという計画を立てた。
※ 狸小路4丁目に面して特徴ある店の看板が目印です。
いろいろ情報を集める中から白羽の矢を立てのが「炎の味噌ラーメン」を標榜する「札幌炎神」である。
この歳になるとコクのある札幌味噌ラーメンはけっこうつらいところがあるので、朝食を抜きにして、自転車を駆って狸小路4丁目にある店に、開店時(午前11時)に駆け付けた。
行列店と聞いていたが、開店時ではそんなこともなくスムーズに入店することができた。
入店して直ぐに券売機でチケットを購入するシステムになっている。私は迷いなくこの店イチオシの「芳醇味噌ラーメン」(800円)を選んだ。
※ 券売機のところに掲示されているメニュー表です。
※ こちらが券売機です。
店内はなかなか凝っている。全体では58席もあるということだが、私は入って直ぐのカウンター席に案内された。そのカウンター席の壁には、書家の本田蒼風が「炎神」と大書された見事の書が掲示されていた。椅子は背もたれの付いたおよそラーメン店と思われないようなしっかりした椅子が用意されていた。
※ 椅子をよく見てください。背もたれが付いた本格的に椅子です。
※ 書家・本田蒼風の書「炎神」の字が大書されていた。
やや時間があって「芳醇味噌ラーメン」が出てきた。
まず見た目の盛り付けが美しかった。と同時に、スープの白さが際立っていた。それは三種の味噌をブレンドしていることと、大吟醸の酒粕を使用していることが白さを演出しているのかもしれなかった。
そのスープを一口含むと、文字どおり芳醇な香りが口の中いっぱいに広がった。
※ これがこの店の一番人気の「芳醇味噌ラーメン」です。
※ スープの白さが際立ちます。
※ 麺はややカンスイが強いですが、スープによく合っていました。
麺はカンスイがやや強いかな?と思われたが中太縮れ麺がスープによく絡んで合っているように思えた。
トッピングは角切りのチャーシュー、シナチク、キクラゲ、タマネギが配され、最後に細切りの鷹の爪(唐辛子)がアクセントとなって載っていた。それは見た目にも美しい仕上がりになっていた。
芳醇なコクを感じさせながらも、けっしてしつこくなく、私にしては珍しく一気に食してしまった。
私が在店していた30分余りの間に、若い人中心の客が次々と入店して、店はうわさ通り混み始めた。
この店なら、来札する友人たちに自信をもって案内できそうだ。
【札幌炎神(えんじん) データー】
札幌市中央区南二条西4-4 狸小路四丁目商店街
電 話 050-5868-4307
営業時間 ≪月~金曜日≫ 11:00 ~ 16:00
17:00 ~ 23:00
≪土・日・祝日≫11:00 ~ 23:00
定休日 無休
座 席 58席 (カウンター席、テーブル席)
駐車場 無
入店日 ‘17/07/13
7月9日(日)、北海道博物館主催のちゃれんがワークショップ「石器をつくる」に参加した。昨年の「土器をつくる」に続いての参加である。
参加者の多くは小学生を伴った家族連れだった。一般人には「今さら石器づくりなんて…」という思いがあるのだろうか?意外に参加者が少なかった。 そのことが私を少し不安にさせた。
※ ワークショップの開会式で講師の話を聞く参加者たちです。
講師は、湧別川流域史研究会の会長である本吉春雄氏と、博物館の学芸員の方二人が担当された。
私が最初に「あれっ?」と思ったのは、説明が非常に簡単だったことだった。
初めは原石である黒曜石を別の石で叩いて剥片を取ることだった。その際に叩く方向によって黒曜石の割れる角度が変わるということの説明を受けたのだが、その説明がとても雑駁な説明に聞こえたのだ。
主たる参加者である小学生にくどくど説明してもはじまらない。その実際を見てもらい真似してもらう、という主催者の考えだったのだろう。腿のところにフェルトを敷いた上に黒曜石を置き、別の石で打撃して剥片を取る実演を何回か見せてくれた後、「さあ、やってみましょう」と突き放された。
※ 遠軽から来られたメイン講師の本吉春雄氏です。
与えられた黒曜石のどの面を叩けば良いのか、判然としないまま、見よう見まねで叩き始めた。一応アドバイスに従う形でいろいろ角度を変えて叩くのだが、なかなか思うような形の剥片を得ることができない。どれも小さな剥片に砕けるばかりだった。
私が得た剥片では矢じりのような形を成型することは無理だったが、なんとかスクレイパーのようなものに成型できそうなので妥協することにした。
そして、講師の本吉氏が叩き出した矢じり型に成型できそうな剥片をいただいて午後の成型に備えることにした。
※ 私が叩き出した剥片ですが、満足できるものは一つもありません。
午後、今度は石の代わりに鹿の角を使っての成型に移った。
ここでも説明はほとんどなく、すぐに実演に移った。鹿の角は石ほど固くはないために午前中に粗く叩き出した剥片に細かな造作が可能だということだ。
ここでもなかなか思うように成型ができない。
※ 右膝のところに鹿皮(受講生はフェルト)を載せ、細かな細工をする本吉氏です。
※ 受講生はそれぞれなんとか思いの形にしようと奮闘中です。
なんとかごまかしながら、矢じり型のものと、スクレイパー型のものができたことでヨシとした。しかし、出来具合はまったく満足できるものではなかった。
※ 本吉氏からいただいた剥片を成型したものですが、片面だけを見ると矢じり型に見えなくもないですが、裏面が厚くて使い物になりません。
※ なんとか使い物になりそうなのが、スクレイパー型の石器です。
こうした造作が、一度や二度の体験で思うようにできると考えること自体、旧石器人に対して失礼なことなのかもしれない。おそらく彼らは幾多の試行錯誤を繰り返しながら、獣を獲ったり、木や骨を削ったりするなど実用に適するものを作りだしたのだから…。
それにしてもどこか消化不良の気分が拭えないまま終えてしまった「石器づくり」だった。
少し時間が経ってしまったが、7月3日(月)より北大公開講座・全学企画という公開講座がスタートし、受講している。この講座は総合大学である北大の全学部が関わって一つのテーマでさまざまな分野から論ずる公開講座である。
今年のテーマは「『非常識』が照らし出す私たちの未来」と題するものである。
その第1回講座が7月3日(月)夜開講され、触媒化学研究所の福岡淳教授が「触媒で不可能を可能にする」と題して講義された。
福岡教授は、ご自身が取り組む二つの研究について紹介された。それは…、
◇触媒で野菜・果物の保存期間を延ばす
◇触媒でバイオマス(木や草)からプラスチック・燃料を作る
という二つの研究である。前者の方はすでに実用化され、後者は現在実用化しつつあるということだった。
触媒とは、「少量で化学反応を促進する物質」であるというところから講義は始まった。
そして、身の回りに触媒を反応を応用して実用化されているものとして、石油精製や石油化学の製品づくりに、燃料電池の生成に、自動車排ガスの浄化に、と様々なところで私たちの生活を支えていることが説明された。身近なところでは、汗のにおいを分解するゼオライトの生成にも応用されているという。
さて、福岡教授の第一の研究である「触媒で野菜・果物の保存期間を延ばす」研究であるが、野菜や果物の劣化を促す成分のエチレンの酸化を防ぐことが課題だったという。
ここからの科学的説明は私にはチンプンカンプンだったが、ともかく福岡教授は白金を触媒とする(それを「プラチナ触媒」と称した)ことで、エチレンを二酸化炭素と水に分解することに成功し、野菜や果物の保存期間を飛躍的に伸ばすことに成功したという。
このことに注目した日立電機では自社の冷蔵庫に導入し、現在市販されているそうだ。
そして、もう一つ研究が「触媒でバイオマス(木や草)からプラスチック・燃料を作る」という、今や地球温暖化対策や気候変動問題に対応する方策として画期的な研究の実用化を目ざす研究である。
この研究の内容についても、私にはほとんどが理解不能だったのだが、研究内容を整理すると、木や草などをセルロースに分解されたものをプラスチックや燃料に合成する技術についてはある程度達成されているということである。(事実、ブラジルではサトウキビからバイオエタノールを生産化し実用されている)
ところが、木や草などをセルロースに分解するためのコストがかかりすぎ、世界的には実用の段階となっていないのが現状であるらしい。
福岡教授の研究は、このバイオマスをセルロースに分解するコストを飛躍的に低減させることを世界の研究者と争っているということだ。
ここで福岡教授は、それまでの常識ではありえないと思われていた活性炭を触媒とする方法を発見したという。(このあたりは私の理解の怪しいところであるが…)そして福岡氏は低価格で高活性な炭素触媒を開発し、バイオマスからセルロースに分解するコストを1/6に低減する新法を開発したということだ。
私の理解が不十分なところはあるが、ともかく福島教授は画期的な方法を開発したようである。現時点では論文は未発表とのことであるが、とても夢のあるお話を伺った思いである。
実用化までには、まだ幾多のハードルがあるのかと思われるが、化石燃料の枯渇が言われ、地球温暖化が叫ばれる今、福岡教授の研究が実を結ばれることを心から期待したい思いである。