鮎と戯れて・・・魚族に感謝

東北地方を中心とした短い夏のあまり多くない鮎釣りの記録。家族に感謝して。近くの広瀬川の環境等にも拘るも、オフは時事問題も

修学旅行の最後は、鶴ヶ城(若松城)

2012-11-20 16:42:50 | お知らせ

   せんだい豊齢学園の今年度の会津若松方面への修学旅行の報告もきょうでお仕舞です。 例によって長いことお付き合いくださりましてありがとうございます。

 私にとって、鶴ヶ城に登城するのは、小学6年の修学旅行以来のことです。50年以上も前のことになります。 それだけに感慨無量です。 小学校の時は、まだ米価という制度が残っていましたから、近所の米屋に米穀通帳というものがあり、米は貴重なものでしたので、修学旅行のときも各自精米を持参するという時代でした。 旅館に献上する?わけです。 中学校の東照宮や江の島への修学旅行のときも米持参でしたね。 今からはとても考えられないことです。

 

 鶴ヶ城は城主がかなり変わっています。 葦名盛氏、伊達政宗、蒲生氏郷、加藤嘉明、保科正之、最後は松平容保となります。 伊達政宗が1年だけ城主でしたが、これは葦名氏を打ち破ったためで、そのため正直言って会津の人たちからは伊達政宗や仙台人は嫌われています。 これは私には辛いことですね。

 

 今回の女性のガイドボランティアの人は、とっても勉強していて面白かったのですが、はっきりと「伊達政宗は憎い敵」です、といわれてしまいました。 小学校のときは言われなかったと思います。というか全く覚えてはいませんが、正直なところ。 小学校の児童相手には憎い敵とか言うことはないでしょう。 というかその頃はガイドボランティアはいなかったですね。

             

 伊達政宗は、ということは仙台人もですが、相馬地方の人たちにとってもよくは思われていません。歴史のことですので、過去のことはどうしようもありませんが、わたしはどちらに対してもこれっぽっちも嫌な感情は持っていません。

 

 それより、会津はみちのくの盟主とさえ思っています。 尊敬の、尊崇の対象にこそなれ、敵対するなんて感情はまったくありません。 みちのくの誇り、象徴です、かっての阿弖流為(アテルイ)のように。

       

 鶴ヶ城は1874年に取り壊されています。 1965年に天守閣が再建され、2004年に内部を新しくして、2011年には天守閣の屋根瓦を赤瓦に葺き替えています。

 最後は天守閣からの会津若松市街です。 盆地なんだなあということがはっきり分かります。

 

          

 

       

 少しは会津地方の景色を楽しめたでしょうか。 小学校の時は、野口英世の生家、飯盛山(会津白虎隊のお墓)にも行きましたが、今回は行けませんでした。 今度個人的に行くことにしましょう。 そのときは天寧寺にも行って、近藤勇のお墓にも線香をあげてきましょう。 

 会津はみちのくの誇り、わが心の礎です。


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