津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

梅北の乱

2010-01-26 10:01:58 | 歴史
    肥後人にして誰が肥後を奪はるゝを屑(イサギヨシ)とせん  武人百話より

加藤清正肥後に封ぜらる。會々(タマタマ)征韓の事起り、清正其先鋒となりて出發しゝかば、
薩摩の梅北宮内之を好機として肥後に入り、諸軍に徇(トナ)へて清正に叛せしめんと力む。
清正の臣堺善左衛門は此時留守して熊本城に在り。邀(ムカ)へ戦はんとしゝも糧乏しく剰
(アマツサ)へ人心稍離れしかば、佯(イツワリ)て梅北に降り城を開きて其兵を迎へ入る。梅北意
気揚々として入城しゝが、堺又梅北に向つて言ふよう、今日は是主従の禮を執るべき始な
れば、其賀儀として酒盃を賜はらんと、大に宴を張りて山海の珍味を陳ね、數十の美姫を
侍らせ、観楽を盡せり。堺梅北の隙を窺ふこと數度、思へらく今日我を殺さざれば、他日彼
れ必ず我を殺さん。生死の分るゝ所目前にありと、宴酣(タケナワ)なる比ひ一刀を閃し、躍りか
ゝりて梅北を刺殺しゝかば、一座大に駭(オドロ)き、堺を取り闉(カコ)めり。堺目を瞋(イカ)らし大
に罵つて言ふ。汝等狂顛するか、梅北は何者ぞ、本国の賊魁ならずや、而も之に属する者
は即ち属黨なり。荀(イヤシク)も肥後人にして誰が肥後を奪はるゝを屑(イサギヨシ)とせん。疾く
心を翻し、我と同心協力して此國賊を討たば、清正は必ず服従の罪を宥め、却て其功を賞
せん。否ざれば太閤忽ち汝等の三族を梟せんと。諸士其猛威と正理とに服し、唯々して之
に従へり。堺乃ち梅北の残黨を討ち遂に全く肥後を清む。清正其功を賞し、二百石を十倍
して二千石となせり。

        m.weblio.jp/c/梅北の乱
        www5f.biglobe.ne.jp/~sans-culotte/topics163.html
        castle.jpn.org/higo/sashiki/index.html
        ja.wikipedia.org/wiki/島津歳久
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水道橋喧嘩聞書 ・・ 2 (了)

2010-01-25 14:13:47 | 歴史
一、此方様御人数之内手負之者本田惣兵衛・池田武平太・嶋田宇蔵
   右之者共まてニ而此ハ無■候
一、向方与力衆一人駕ニ而帰申候同心中一人外ニ十人餘内壱人ハ即死之由
   是ハ 是方様江相勤居候定詰足軽酒井様御屋敷江縁有て右屋
   敷江参■■申候外ニ御両人之御人数ハ其場を早く引取候故ニ■■等
   之沙汰無之候
一、御留守居両人中根様酒井様江被差上越候白少助・井上加左衛門罷
   越シ嘉左衛門大木惣馬殿江申候ハ御内済ニ相成候ヘハ夫々ニ者及申間敷候へ共
   公邊ニ聞達ニ相成候へハ直に御月番様江罷越可申候間麻上下着用
   可仕由ニ而中根様江者白杉少助酒井様江者井上嘉左衛門麻上下着
   参候処御内済ニ相成候由右騒動水戸様御屋敷江早速相知達候付騎
   馬二人其場へ為見届被差出候処向方之御人数之中より右両人を馬

   より引下し散々打申し候由 此方様御人数之中と心得違候哉と沙汰
   ■候由
一、志水新丞中根様御屋敷江罷越候様ニと有之節少しも蹈不申し中根様御
   行列に追々極ニ相並行列を立御屋敷江罷越候お彼方 ■■振り
   勢を取切所存に候成御役人なとより色々申し候へ共新丞一向に謟ひ不申
   御付け而■■ニ相成候事
一、右打合最中野上梶平を向方御人数大勢ニ而引立■に致候梶平
   申候ハ 越中守家来ニおて一人も迯候様の比興者無之左様に被成候ニ
   ハ及申間敷と申し候へハ向方より其方儀ハ如何様之格合ニ候哉と尋
   申し候ニ付 越中守歩小姓ニ而候段申し候へハ然らハ士格之人ニ而ハ候間差返候
   と申して囲を出引取申候
一、釘本藤兵衛途中ニ而外様足軽小ニ逢申候ニ付其場の様子相尋候処小
   申候ハ銘々相應し働仕 御家■引ケニハ相成候程之儀無之候と申候由
一、志水新丞中根様御屋敷江罷越候付組の面々小屋へ帰申候処小申候ハ組
   之頭を壱人捨置各引取申儀難心得着手ニハ不似合事ニ候間此方
   一人ニ而も罷越可申と大ニ憤り申候ニ付左様の訳筋ニてハ無之と各宥申し由
   新丞中根様御屋敷ニ而 此方様御人数之内刀を抜候者有之
   よし被申候ニ付新丞申候ハ決而一人も刀を抜候者無之候刀を抜候程之儀
   に候へハ渡し差図致不残刀を抜せ申儀ニ御座候左様之儀ハ無御座候段
   申候由
一、此方様御人数之内一人刀を抜候者有之候ニ付此方より直に刀を取
   辻番所江参刀鞘抜致候間御預置候間抜候刀二てハ無御座候段申候て
   預置申候由各刀を抜たがり申候へ共新丞堅く制申候由右承り候分
   荒増書付置候事
                了 

これだけでは相手方を含め事件の解決へ向けての説明がなく、当事者である志水新之丞の「志水新之丞覚書」を読まなければ
事件の全容が見えてこない。相当量の文書であり急々にとはいかないが、いつの日か改めてご紹介したい。
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清正の髭

2010-01-25 08:10:54 | 徒然
 歳をとると不精がこうじて数日不精ひげ状態になることがある。PHILIPSのシェバーを使っているが、
これも持ち主同様齢を重ねどうやら買い替え時期のようだ。
理髪店に行くと「歳をとってこそ身嗜みを大切にしてくださいネ」とお小言を食う。いっそ伸ばしてみよ
うかとも思うが、これとて後が面倒だ。

 江戸時代侍は髭はご法度となった。明治に入ると天皇を始めとしてお歴々は、競うが如く髭をたてる。
威厳はまずはご面相からというところだろうか。

 加藤清正公の髭は有名なところだが、これにはそれなりの理由があったようだ。

「加藤清正の言に我等面に生候むだ髯剃り落しさっぱり致しなば気味能かるべしとは、朝夕存ぜざる
 にあらざれど、若き時分此髯面に頬當を致し甲の緒をしめたる時の快さ、只今以て忘れ難し。如何に
 治まりたる代なりとて是亦剃り兼ぬるなりとあり」
        (武人百話より)

 明治のお歴々の言い訳を拝聴したいものだ。
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雑兵物語

2010-01-24 18:26:22 | 書籍・読書
 國學院大学デジタルライブラリー「兵法・武道関係」を御覧いただくと、古文書「雑兵物語」を見ることができる。口絵が美しく楽しい。
           http://k-aiser.kokugakuin.ac.jp/digital/menus/index14.html

 天草嶋原一揆に於いて幕府軍の指揮をとった、松平信綱の第五子・信興(高崎城主)の筆と伝えられるが、当時の書としては大変めずらしく口語文で書かれている。その口語文を紹介している「口語法別記」という著作が松平信興の作である事から、「雑兵物語」も信興の作であろうとされているらしい。「口語法別記」も、国立国会図書館の近代デジタルライブラリーで見ることができる。
           http://kindai.ndl.go.jp/

 天草嶋原一揆以後戦いのない平和な時代が訪れた。しかし本当の戦の有り様を後世に伝えようと書き残されたものとされる。どの地方の言葉なのか窺い知る事も出来ないが、雑兵達の話し言葉での記述が、臨場感に溢れて生き生きと伝わってくる。

 私は「かもよしひさ氏」の著作本を所蔵しているが、イラストレターでもある氏の楽しいイラストがあって抜群である。先のブログで黒鍬衆に触れたが、いざ戦となっても即出陣とは行かないの様々な仕事が存在する。雑兵達の実にこまやかな配慮がないと、とても勝ち戦につながらない事がよく分かる。
この本を座右に置いて、國學院大学デジタルライブラリーで古文書の雰囲気に触れている。
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風説秘話 ・・ 1

2010-01-24 17:00:42 | 歴史
一、中西格助若年之時高橋に在宅せしか是ハ父極て壮健ニて
   毎朝七比より格助を起して熊本二鎗之稽古ニ出さしむ餘時
   刻早き故格助ハいつも祇園山の北邊に高夜を明し出たると
   なり又或時格助高瀬に行帰りに留降暗夜故烑灯を借て来
   し候者父甚タ気ニ不入汝ハ烑灯を借りて来りしや乍骨折
   一寸返て来るへしとて九ッ比より押返て又高瀬ニ遣したるとそ

一、寛政中岩越佐十郎山崎天神丁ニ屋敷を求め普請シ
   たる時嫡子何某如何儀趣意にや佐十郎か若黨ニ切懸シ
   を佐十郎留故討損し若黨ハ正光寺江迯込而立願に至り
   佐十郎彼寺江行向 此時嫡子ハ家ニ止不行届子細不分明 坊主ニ断討捨んとしたれと
   坊主寺法の候間此所を御用捨被下門前ニて御勝手次第可被成
   と云佐十郎不聞入是非仏前近所ニて打捨けり坊主殊
   之外噴り段々理屈を連て寺法立候様にと云かといかゝ成候ん
   不詳

一、寛政年中寺本順次母僕ニ用事云付レニ如何成訳候僕大ニ悪口
   す順次一間より聞付立出て叱し候ハ猶順次ニ對し悪口を言募ル
   程に直ニ斬付ぬ其所臺所なりしか立上り戸の外迄迯行を
   追詰二ノ太刀ニ首打落シ留を刺たる也

一、上月八右衛門養子俊五不行跡ニ付御暇願在中へ引込居し候
   猶ニ行跡不宣謡乱■■せし候ハゝ八右衛門手打したり此時人の
   云たるそ御目見相済たるものハ子弟といへとも容易ニ手討ハ
   成間敷然共俊五者御暇被下たる者故此論にあらず
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黒鍬衆

2010-01-24 10:46:26 | 歴史
 細川藩江戸中屋敷「白銀邸」の近くに、黒鍬衆が住まいした一画があったらしい。
「港区江戸古地図めぐり」というサイトによると、「 魚籃坂下交差点を桜田通りに左折すると右手一帯」とあった。本当かどうかは知らないが、後には隠密仕事をしたとか言うが、本来は戦場で「工兵隊」の役目を果たした人たちだ。その魁は細川家にある。綿考輯録を読むと、天正十八年松井康之が、「荊棘が生い茂り、堀溝多く、石高くして難儀なりしに」、鍬を数多持ち込んで云々とある。そして、「此時より陳具に多くの鍬を持せられ候後ニ家康公も御感にて畝鍬之衆を御定被成候由」とある。ウィキペヂア等を読んでも、ここまで触れられては居ない。「熊本城下の地名」の「黒鍬町」を読んでも出てこない。後のことはさることながら、本来の黒鍬は松井家が発祥である。
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ケ輪

2010-01-24 09:44:47 | 徒然
 熊本における藩主の居館「花畑御屋敷」図を眺めていたら、あることに気付いた。
「縁側」を「縁ヶ輪」と表記している。また敷地の周囲の長さの表記にも、東ヶ輪(東側)
○○間とある。はじめて見る表記でちょっと驚いている。
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小角豆

2010-01-23 18:48:34 | 徒然
     代々惣庄屋を勤められたY家のご子孫TYさんのご実家では、今も畑で「ささげ」を栽培されているという。
      写真を数枚お送りいただいた。大きなさやが見えるが、これがささげである。私は実物を見たことがない。
                                         1月24日追記


 今日は「史談会」の一月例会、S講師のいつもながらの適切な説明を受けながら某文書を読む。
そんな中に農作物で「小角豆」と出てきたが、これが何なのか判らぬまま終了。

 駐車場に車を置いて帰宅途中、塀際にある椿の大きな花がぼとりと音を立てて落ちた。
「縁起悪いよなー」と思いながら歩を進めている内に、突然「小角豆」の正体を思い出した。
ささげのことだと・・。祖母が元気な頃お祝いの赤飯(おこわ)を炊くのに、随分気を払っていた。
小豆がはじけるとまずいというのだ。小豆がはじけると切腹を連想させるからなのだそうだ。
ささげがあるといいんだけどねー」と祖母が云ったのを思い出した。
ささげは皮が厚いのか割れないらしい。

 間違いないだろうと家に着くなりぐぐって見ると・・・・大正解。

 「椿の花」が落ちるのは打ち首、赤飯のはじけた小豆は切腹を連想させるからというのは、いささか
考えすぎだと思うが、明治生まれの祖母にとっては常識(?)だったのか。
モッコスな私は以前住んでいた家には肥後椿を植えていた。しかしそれは祖母が亡くなった後では
有るが・・・

 あまり面白い話ではない・・ごめんなさい。
コメント (1)
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水道橋喧嘩聞書 ・・ 1

2010-01-23 08:16:45 | 歴史
 「水道橋喧嘩」とは、江戸小石川紺屋町から出火の時、水戸家御屋敷へ御物頭志水新之丞の指揮で御人数を差し出した際、
帰途酒井内記殿火消しの者が細川家の行列を横断しようとした為、そのままつきぬけようとしたとして双方の乱闘となった事件
である。この事件については当時の指揮者・志水新之丞の覚書も残されている。事件の大まかな顛末を知るためこの「覚書」を
ご紹介する。


寛政元年丙六月晦日六時比より小石川紺屋町出火ニテ水戸宰相様御屋敷壱番之御人数
被差出候二番之御人数も相残居候得共四時に火鎮候付二番之御人数ハ不申差出置に龍
口神田御屋敷に各引取申候/差出候一番之御人数大概

        壱騎御物頭            志水新丞
        同 副士              余田喜内
        御纏支配梯子支配歩御小姓  永島仁大夫
        水之手支配歩御小姓       野上梶平
        右同                 平野伴右衛門
        人配外様足軽           本田惣平
        十人程               外様足軽
        七人程               御長柄之者
      右之外御手木之者百人者有之候
右之通之差出於水戸様御屋敷御酒支度左之通
   士席江吸もの豆腐かつふ 酒■■豆腐長芋炙■ ソ酒
   歩段以下江 奴豆腐 ソ酒 粥(カユ)
右之通被下火鎮候上各引取申節水道橋辻番所前ニ十人火消衆
之内五千石酒井内記様 与力衆同心衆以下 六千石中村内膳様同 四千百石堀田主膳様同
右三人之衆人数三百人程休被居候所江
此方様御人数其傍二行に相並引取申を酒井内記様の火消之者
一人 此方様之御行列を切申二付此方様より右之者越突除
申候へハ又々御行列を遮申候間不得止事直二内拂候ニ付酒井様御

人数大勢にて手鳶口を以打懸り申候依之双方相宛申候心得ニて本田
惣平走り懸り候を酒井様御人数之内より惣平領を鳶口二而打破り
其外所々手負せ候付 此方様御人数十人程一同に鳶口を以
取懸り数々打合申候然る処堀田主膳様中根内膳様御人数も一同ニ打
懸り 此方様御人数を中ニ取込メ鳶口二而打懸り石瓦を以投
懸或は鑓抔投突致候付 此方様御人数防兼殊に其場所ハ藤窪
之前ニ而向方ハ地高ニ有之見下ケニ打懸り候故 此方様御人数危
相見申候処諸先ニ離居候 此方様御人数多勢之中を割通其処ニ
集候故■初之御人数大に力を得双方入乱れ■合申候此時
火消場御目付衆より取鎮候様人々差出候を 此方様之御人数
之内より鳶口を額江打込引■んといたし候を■より右之鳶口を

放候へハ鳶口折レ頭に鳶口を負なから逃去り候勿論 此方様
御人数も必死に相成談合候故終に向方之御人数を追立堀溝様■
せり付申候向方より投打致し候鳶口なと堀溝江蹈込鑓なと■く
放打■申候然ル處嶋田宇兵衛儀ハ 外様足軽 大勢之内ニ取込まれ大勢
をあいてニ仕■し散々打合申候処鳶口を打折重手も手数多負
候て■に出候間志水新丞馬上より■■人に取られてハ不相成之間
取返候様呼申す間各此所江走懸り大勢之中江乗込■を乗廻
候へハ向方之御人数明除申し其邊ニ与力衆床机ニ懸り被居候て壱人
懸寄り余田喜内乗居候鐙に手を懸蹈込を取■馬より引落さ
んと致され候を池田武平太鳶口ニ而右之与力衆を散々ニ■伏候
付半死半生ニ而引退被申候此節同心衆も一人手負被申候由扨騒

動最初其場より口江注進ニ及候付神田よりも早速懸付弥大勢
ニ成申候然連者向方御人数御引揚無■候ニ付永島仁大夫再三御人数
并組々之若手三十人餘被差越候各早縄ニ而たすきを取鳶口手
に持息を切て馳出申候此面々参着候節羽双方は人数引拂申候
池田武平太・嶋田宇蔵相滞居申候向方よりも五六人残居候手井上加
左衛門辻番所ニ罷上り夫々持付申候右両人も引取申候双方御人数引
拂申し候節中根内膳様より志水新丞江御屋敷江罷出候様との儀ニ
付新之丞■ニ内膳様御屋敷江罷越申し候処右之一件内済ニ可仕間被仰
談之由新丞江御料理御酒等被出候由

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冨士山八合目に砲台 ?

2010-01-22 18:41:10 | 歴史
 水前寺成趣園の古今伝授間は現在改修中で、鉄骨で補強するなど大変な工事になっているらしい。今年は幽齋公歿後400年、一日も早く新たな化粧をした古今伝授の間にお目に掛りたいものだ。お座敷から湧水の清らかな池の向こうに、冨士山の姿が見える。回遊式庭園である水前寺成趣園は、東海道五十三次を模して作られている。

 明治十年西郷軍と対峙した政府軍は、なんとこの冨士山の八合目から上をカットして、ここに砲台を設置したという。(不届き者めが)東の方向にある健軍神社方面に、西郷軍が出没する事への対抗策であったらしい。二人の旅団長と側近の将校達は、ある人の提案で名園として名高いこの庭園を見物しようと出かけてきたところ、冨士山はこのような状態だし、園内の建物は官軍のてに依り放火され無残な有様であったという。一行はただただ苦笑するのみであったという。この二人とは第1旅団の野津鎮雄少将・第2旅団の三好重臣少将のことである。
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小松惣馬

2010-01-22 09:23:58 | 歴史
 薩摩の篤姫が薩摩街道を経て、肥後領内に入るのは嘉永六(1853)年八月下旬のことである。(半田隆夫著:薩摩から江戸へ・篤姫の辿った道)大河ドラマでは海路を辿っているが、これは事実に反している。
この時期小松帯刀は、まだ養家小松家に入ってはいない。小松清猷が琉球で客死するのは安政二年(1855)、嶋津斉彬の命により急遽小松家の養子となった。

 現在読んでいる「佐田右平日記」に、何故か小松清猷に関する記事があった。小松惣馬という名前で紹介されているが、相馬が本当らしい。
        ja.wikipedia.org/wiki/小松清猷

 薩藩小松惣馬并田中清右衛門深筆ノ写し前条横田宅ニ而一覧いたし候事
 小松氏ハ平重盛ノ後胤二テ惣髪ヲ柴紐ニ而結ひ衣服も守常ノ体ニ而無之内右深筆ハ
 書ニ優ルヘキヤト存し書銘ハ槙齋トアリ
 朱印 小松清猷    君翼     関防印 槙齋 トアリ
   (小松清猷は右に小松・左に清猷と二列書、君翼は右に君・左に翼と二列書である。
    槙齋は縦書きである。・・・・・・・・・・・・・・・田中氏に付いては略す)

 小松帯刀も後年惣髪だったそうだが、岳父惣馬も惣髪であったというのも面白い。
この年ペリー艦隊の来航を以って幕末とする。奇しくも小松帯刀の岳父・小松清猷の記事が見えるのは大変象徴的である。
 
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大寒や・・・

2010-01-21 23:00:57 | 徒然
 昨日は大寒、「大寒」という季語でどのような俳句があるだろうかと思ってぐぐってみたら、名句に遭遇した。西東三鬼の句である。

        大寒や転びて諸手つく悲しさ

 大寒の寒さの中で前のめりに転んで両手をついて呆然としたのだろう。うまいなーと惚れ惚れしてしまう。
私も去年の五月、真っ暗闇の駐車場で車止めに足を引っ掛けて、見事に転んだ。左膝をしたたか打って後遺症に悩まされている。何とも惨めで、誰も見ていないのにキョロキョロしてあたりを見まわしたことを覚えている。もう少し若かったら転ばなかったかもしれない、年のせいだとショックを受けたものだ。・・・・こんな句を作ってみたいものだ。

 昨日の大寒は20度を越える暖かさだった。今日は余りよい天気ではなかったが、それでも随分暖かくて、靴下なしで過した。あちこちで梅の花が咲いたことを報じている。そろそろ鴬の初鳴きが聞えそうだ。

‥…─*・‥…─*・‥…─*・‥…─*・‥…─*・‥…─*・‥…─*・‥…─* ・‥…─*・‥…─*
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追廻田畑

2010-01-21 17:44:04 | 熊本
 熊本の夜を象徴する栄通りや銀杏通り一帯は、かっては追廻田畑といっていた。私の若い頃は夜な夜な此の界隈で飲みまわっていた。ギターを爪弾く友人と「霧にむせぶ下追廻田端町」という、恐ろしい歌をつくっておだを上げていた。当時はいわゆるムード歌謡が盛んな時代である。

 細川藩主の住まい「花畑御屋敷」の東側にあたるこの一帯は、加藤清正が付け替えを行った旧白川の跡地だとされる。現在の下通りに建ち並んだ侍屋敷と「花畑御屋敷」の間は低い湿地帯だったようで「田畑」と呼ばれたのであろう。ものの本によると終戦後の瓦礫の山で埋め立てられ、現在のような町並みが出来たのだそうだ。「追廻田畑」の追廻とは「花畑御屋敷」から西の方に数百メートルの追廻馬場が有った事による。

 あることを調べようと「花畑御屋敷」の図面を眺めているが、ちょうど南の端が栄通りと並行している事が判る。「花畑御屋敷」は弐万四千七百余坪有ったとされるが、その広さに改めて驚かされる。名残を留めている花畑公園は南西の隅の一角100メートル四方ほどで大きな楠木などが往時を偲ばせている。全体の面積の約1/80ほどの広さである。北東の角から南の方向に路面電車が走る幹線道路が突き抜け、東側は歓楽街、西側は公共施設などのビル街となった。屋敷絵図をみながらゼンリン地図とみくらべていると、ちょん髷姿の侍・町人が路面電車が走る此の大きな道やビル郡、そして夜のネオン街を楽しんでいるように錯覚する。

 40年ほども前の事だから、さすがに「霧にむせぶ下追廻田端町」は歌詞・メロディーともにど忘れしている。
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旧・中村一氏家臣

2010-01-20 11:41:40 | 歴史
 2007/09/04「旧主を考える-4」で「中村一氏・一忠」を取り上げた。
中村一氏の嫡男・一忠は十八万石米子城主、慶長十四年22歳で歿し無嗣断絶した。弟・正吉、正重の流れが熊本にある。正吉流は三家、肥後金春流中村家もその一家である。正重は甚左衛門と称したが、幽齋公田邊籠城のおり城中を抜け出て禁裏へのお使いを果たした勇者として知られる。のち沢村を名乗るように仰出があり息弥一の代に改姓、二男家、三男家、同分家、四男家の四家がある。
家臣としては藪氏、金子氏を取り上げご紹介したが、松村氏、服部氏も旧中村家家臣であったことを知った。共に藪氏(内匠)を頼り豊前へ来、内匠の歿後松村氏は三齋に、服部氏は忠利に召出されている。

 ■松村氏に於いては、八代・英記が能吏として有名である。
   松村大観 名は昌直、名は仲簾、英記と称し、大観と号す。食禄二百五十石、郡代、勘
          定所目付、作事頭、川尻町奉行及び奉行職を勤む。又学を勉め武を修む。
          尚刀鍛を好み、武相薩南に遊びて其精徴を定む。刀剣或問の著あり。
          天保五年十一月十三日没す、享年七十。墓は島崎霊樹庵。

 ■服部氏に於いては、七代・多門が挙げられよう。
   服部水哉 名は幸徳、初め武右衛門のち太門と称し、致仕して水哉と称す。
          藩に仕へ食禄六百石、高瀬及び川尻町奉行、鉄炮頭、奉行職
          等を勤む。程朱の学を尊信し其節度厳然たり。
          天保六年四月廿一日没す。享年六十九。墓は高田原西岸寺。

 宝暦の改革後のほとんど同時期、寛政から天保年間に活躍した人である。
   
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細川家家臣・高瀬氏

2010-01-19 10:17:22 | 歴史
 高瀬氏は加藤家臣であったが加藤家没落に伴い浪人、初代善平が忠利公肥後入国に際して召し出された。五代目に文平なるひとがあり、能吏として知られる。
   高瀬遊山 名は勝正、通称文平、晩に遊山と称す。藩に仕へ食禄百石、御付目付、郡代、
        御側取次組脇、用人等を勤む。頗る才気ありて一世に秀でたる人なりしが、後
        譴を蒙りて禄を褫はる。天保五年正月没す。享年八十七。墓は本妙寺中龍淵院。
不破新右衛門昌命の二子、生母は松野七蔵(重賢公代監察)の妹、四代楯之助に請われて養子となった。重賢・治年・齊茲三代に仕え後年中着座・用人等勤め役高を含め千石を領したが譴を蒙りその禄を召し上げられた。宝暦の改革以降、大奉行・堀平太左衛門亡き後の力関係が、譴言で能吏の失脚を狙うという不愉快な事件となって現れている。嫡男・寛太郎も優秀な人物であったらしいが禄を放たれ、文平の跡は二男・丹次郎が家督した。

   【御知行被召上候 寛政十二年十二月廿二日 高百石 高瀬文平・丹次郎】

 ここに記されている丹次郎の書き込みは、寛太郎の間違いであろう。

 文平は「肥藩落穂集」を著し、高瀬武昭が「銀台拾遺」を表した。
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