津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

訃報・森山恒雄先生

2010-01-19 10:00:57 | 熊本
 熊本大学名誉教授・森山恒雄先生が亡くなられた。享年77歳。
今日の新聞は加藤清正・小西行長の研究者として先生を紹介しているが、その実績は
これに止まるものではない。先生の示唆は深く我々の共感する所である。
ご冥福をお祈り申上げる。
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細川家家臣・柏原氏

2010-01-18 20:29:25 | 歴史
                             八つ銕線紋

 柏原家初代・新兵衛は家禄弐百石、二代目新左衛門は忠利代十七歳で児小姓で召し出され千石、光尚・綱利代「寵臣」と云われ三千五百石、その子要人は別禄千石で召し出され父・新左衛門隠居に際してその知行三千石を加えられて四千五百石となり、大々身に出頭した。「肥後先哲偉蹟」の編者・武藤巌男は隠すことなく「寵臣」と断じている。綱利代家老松井興長は綱利や生母に対して痛烈な諫言をしている。その中で「側に寵臣を置き」と批判しているが、さて柏原氏はどうであったのか、武藤氏の言を借りるとその一人と考えられたのか・・? 家老職を勤めるなどの名家である。

 要人の弟・弥九郎家も五百石で共に明治に至った。
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24,838

2010-01-18 11:40:44 | 徒然
 あまり数に執着している訳ではないので、サイトのカウンターははずしてしまったが、ブログの方はご丁寧にいろいろデーターを報告してくれる。思い出したように眺めるのだが、ブログ設置から今日まで2,004日(8年6月余)経っていた。第一回の書き込みは2004/7/24日である。サイト自体の立ち上げは2003/8/22日で11ヶ月ほどの差があるのだが、この時期のブログはHDの不具合で「過去ログ」として整備できないままデーターを失ってしまった。その他にも途中でいろいろトラブルがあり、貴重なデーターを失った。サイト立ち上げから9年5ヶ月経過しようとしている。今年の夏には密かにサイト開設10周年の「自祝」をしようと思っている。永い事が良いというわけではないが、単なる歴史狂い爺がおこがましくもここまで来れたのは、まさしく皆様のお陰だとただただ感謝である。時折心臓が悲鳴を上げると、いつまで続けられるのかと不安もよぎるが、所詮は道楽で「気楽に行こう」とB型発想に成る。明日は我が誕生日で御年68歳になる。24,834日生きてきたが、あと幾つ数字を重ねられるのか・・・

              http://thyme.ir.isas.ac.jp/mak/profile/birthday.html

 ブログが途切れた時悪友が「生きとるか・・?」と連絡してきた。そうなるとブログは私の命の証明にも成りそうでいささか心臓に悪い。或る日突然ポッコリ逝きたいと思っているのだが・・・。
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延元様玄也公御一代之御儀覚書 - 7 (了)

2010-01-18 08:27:36 | 歴史
一、寛永元年 忠利様御代二番目之大坂御普請御座候此時より延元様少々被成御煩なり然とも
   為御養生御登り被成御栄■も能御座候よし御普請を御勤可被成との儀にて大坂へ被成御登
   候されとも御栄■■と無御座候に付御上京被成相國寺之脇寺を御借被成御養生被成候通仙
   院炉庵御■被差上其後大醫衆被成御■用候延元様も従公義被近御咹御上京被成様々御療
   治に御座候得とも終に御快気無御座同年八月十三日に御遠行被成候御年五十三相國寺門
   前にて御葬り被成候相國寺之■長老引導奉号永源院殿道号ハ鉄山玄也大居士相國寺守家
   林光院に御願御石塔に今有之
      林光院者御先祖より之御寺にて玄也様御一門
      中様も御住持被成候儀も御座候由申候左様之故に御座
      候哉林光院住持替り申候時もの延元様御代に
      成候而も被伺之後住定申候肥後へ御越被遊候以後
      之儀も■申し候由ニ御座候
一、孝子  延元様高野山普賢院にも御位牌安置に罷成月々之御茶湯怠慢無御座様子御追善被
   成候真光寺御位牌御石塔御座候を承應之比肥後へ御引取被成安國寺江被成安置候事

       以上
     寛文十ニ年九月日
                              「雑撰録・巻弐拾七所載」
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延元様玄也公御一代之御儀覚書 - 6

2010-01-17 12:29:00 | 歴史
一、其後延元様御組御断被仰上候趣者私儀不調法に御座候て組の裁判仕候儀致迷惑候間私組を
   長岡右馬助ニ御願可被下候私儀も右馬助組に罷在り談合指引者可仕との儀に御座候無御断り
   如何可有之御座哉と及ニ■儀申候得とも 忠興様何事も御頼被成間敷と被仰候上者御六ヶ敷
   儀御裁判被成訳にても御頼みにて無御座と御中被成御組被差上延元様を右馬助殿組に被成御
   座候叓
一、忠興様御念比に御座候得共延元様ハ何とそ被思召候御内存も御座候哉御一代 忠興様御す■
   被成在故君臣の御中不可然よし御座候さ連とも 忠興様御儀■にても■■も不被仰御宗教は結
   構成儀にて御座候よしの事
      光尚様御代正保二年之比延元様八代之御仕置に被成御座候節球磨川之上だんと申所へ
      川狩に御出被成り候刻八代之御侍衆も御同道にて御座候衣笠平兵衛殿被申出候者肥後
      へ御入国之後 三齋様京吉田より初而八代へ被遊御入城候刻小倉道中被成候時門司被
      寄御船古城御■見被成右之備共被仰出此城を預置候大名に被成りあの水の手を本丸へ
      取込候程之身体に可被仰付と被思召時分を御伺被成り候得共生得実風仁ニ而終に左様
      に被仰付時節も無御志も■成候由御意候旨御物語にて御座候事
一、同五年大坂始之御普請延元様も御登り被成御普請共御勤労被遊候大頭衆長岡佐渡殿有吉頼
   母殿長岡右馬助殿牧左馬允殿尤延元殿を右馬助殿組に被成御入御登被成候此御普請之刻
   忠興様数ヶ条之御掟出申候内九州衆之内若喧嘩出入なと御座候刻は御一門中之儀者不及申
   嶋津殿加藤肥後殿なとハ見頃可申又関東衆と九州衆喧嘩御座候ハゝ黒田甲斐守殿御中惣敷
   候共筑前江見頃可申旨被仰渡由に御座候然處に或とき加藤肥後殿家中と黒田甲斐守殿衆と
   於御普請場喧嘩仕出■動いたし候節延元様ハ御小屋に被成御座候時分にて右之様子被成御
   聞弓鑓之兵具御持せ被成大勢被召連早速御普請場へ御出肥後殿方に被成御座候何も杖棒に
   て御座候処延元様武具を御持せ御出被成候に付様子相見へ申候其刻
   公義御普請奉行衆も桜の御門に御座候而延元様御出被成候を御見届喧嘩之時荷擔ハ公儀御
   法度候処誰之衆にて御座候哉と被仰候得共延元様一段御尤に奉存候何之家中衆にて哉御法
   度を被背候と御鑓横(ママ)に被成御下知被遊ハ振に御もて犯し無別条御普請場へ御通り被成
   候されとも喧嘩無事に相陳申候其後御普請奉行衆より佐渡殿頼母殿御呼被成今日於御普請
   場喧嘩之刻肥後殿衆と相見へケ様之客躰之仁 公儀御法度之儀を被相背候其後石之上に被
   上枝をつかれ候て威儀事ニ敷様子にて被居候何と申仁にて候哉と御尋に付御両人御迷惑被
   成佐渡殿被申候ハ長岡勘解由と申 越中守不■ものにて門司之城に召置申候惣して気張に
   御座候て 越中守申付候儀も気に相不申候得ハ不承候様成る生得之者に御座候何とも迷惑
   仕候由被仰分候得者御奉行衆も如何様勘解由殿にて可有之と存候常之仁体とハ見へ不申候
   由被仰何之相替儀も無御座其分にて御座候由申候叓
     此喧嘩之刻延元様見事成御作法ニ付而肥後殿
     家中衆致■■延元様を称美仕頼母敷存其後何事
     も御家中と申合を一味之ことくに御座候由其刻
     木村宗賀も先代飯田覚兵衛致供大坂に罷在
     肥後殿家中之取沙汰承り候よしに御座候
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本年初・図書館浴

2010-01-16 23:17:57 | 歴史
 膝痛からの運動不足と、お正月の「食っちゃ寝」状態で4キロほど体重が増えた。今日は二時過ぎから今年初めての図書館浴、出掛けに妻に「歩いて行ったら」と声を懸けられる。往復1時間半程ちょっと足に自信がない。しからばチャリンコにしようと、左膝を気にしながら出かける。

   ・花畑御屋敷、二の丸御屋敷の間取り圖
   ・江戸期の瓦師の系図、刻印
   ・某氏日記のデジカメ撮影
   ・某家先祖附の確認
   ・某町史から干拓の歴史

 ばたばたしていると閉館の案内が始まり、一部コピーを残して15分前に退館。我が家から図書館までは「行きはよいよい、帰りは恐い」だらだら坂が続いている。行きは下り坂で膝にもそう負担は掛からなかったが、帰りはもろにきた。大汗をかきながら約30分、右足でこいで帰る。途中100メートルほどついに押して帰る羽目になった。シャワーを浴びてゆったりすると膝が痛み出した。まずい事になった。67爺(1/19には68爺)もいろいろと多忙で、うろうろしなければならないのだ。さて明日が問題である。
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延元様玄也公御一代之御儀覚書 - 5

2010-01-16 10:08:19 | 歴史
一、何時分の儀にて御座候哉他国之取遣之儀長岡佐渡殿と延元様へ被仰付御勤被成候刻筑前より
   科人小倉へ走り参居申候其節者黒田甲斐殿と御中悪敷最中にて御■ハ得共大犯人にて御座候
   哉付届ヶ御座候而彼者被召捕筑前へ被遣候延元様より坂井半右衛門佐渡殿より元橋彦之丞と
   申鉄炮両人にて走者を召連れ筑前黒崎之城主井上周防へ相渡申候周防家老大橋彦右衛門と申
   者罷出挨拶仕候其時彦右衛門申分豊前は小国にて御家中手狭御座候ニ付可様之科人も早々被
   召捕被遣候筑前ハ領内廣く御座候得者重て走り者参り候とも知レ不申儀も可有之なとゝ申につき
   坂井半右衛門返答仕り者被仰分合点不参候國之廣狭に有之より申間敷候今程天下一統之御代
   にて江戸よりの御仕置き政敷御座候に付遠國彼崎迄も一國之等とくに罷越候越中守儀者江戸の
   御仕置を堅相守申候ニ付き科人なと領分に居申候を無穿鑿に仕儀にて無御座候何様甲斐守様御
   仕置ハ緩せに御座候と相見へ申候奉公人ハ不知儀に候得者向後如何様之儀にて國を立退申候
   共御國者■國之能キ高野山と存頼母殿存候と申候得ハ彦右衛門赤面仕由に御座候両人罷帰候
   段 忠興様御耳先様之様子御聞可成候御意ニも(本ノママ付ク)両人御城へ登り申候 忠興様障子越
   に御聞被成候直に半右衛門段ニ之次第具に申上候得者無残所返答仕候物をよく申候由御褒美被
   成候由御座候事
      大崎彦左衛門と申者は関ヶ原陳之刻石垣原にて
      大友家吉弘嘉兵衛首を申侍に候由ニ御座候
一、同四年正月おたあ様為御代延元様江戸へ御仕立被成おたあ様御下り被成去暮か翌年平野九郎
   右衛門殿へ御祝言相調申由ニ御座候叓
一、同年之秋 忠興様御下向被成候而 北之丸様 (忠興末子・松井寄之生母、真下元重姉・・娘とも) を延元様之
   御内室様に可被遣と被仰出候得とも延元様御同心無御座候御内證にて■々御意見等御座候得共
   切腹被仰付候共此儀御請被成間敷との儀に御座候其時分 忠興様ハ内記様と申中津に被成御座
   候延元様と御挨拶御座候に付内記様と申中津より夜通しに小倉江被成御越直ニ延元様へ被遊遊
   御出種々様々に御扱御意見被遊貴殿切腹相被致者我等介錯可致候其段に成候儀ハ無是非思召
   候間如何様に候ても此儀御同心可被成候無左候ハゝ中津へ御滞不被成候間御感激にて被成御
   意候に付て無■御請被仰上 忠利様も御満足被成被遊御帰候左候而其■■翌年御祝言御座候
   叓 北之丸様後に号永樹院殿  
一、延元様一比大備之頭被仰付御裁判被成候中に 忠興様御在国之時分■前と御出入御座候而御
   城江御家老中御備頭中其外歴々被召集御評儀御座候節御老中御出候 御座敷へ延元様も御は
   いり被成様にと御意ニ御座候得者延元様一切御請不被成御様對にて其間江も御入不被成候就夫
   被成御意候者惣而勘解由ハ我等申候儀者栄に不相と相見申候心安不被存何ともすまぬ人にて候
   向後何事も不頼候と御意に御座候由之事
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延元様玄也公御一代之御儀覚書 - 4

2010-01-15 13:15:25 | 歴史
一、門司在城之間 忠興様忠利様江戸御往来被遊候時分ハ毎度門司隼人にて御門出御國入之御
   振舞御嘉儀に被成り御道具■と被成御拝領刻も御座候叓
一、同十一年江戸御城を御築被成候に付右御仕置のため御奉行延元様も御上り伊豆細代に久しく
   被成御詰候叓
一、同十六年八月御子息三五郎様御早世被成候号真光院殿門司ニ真光寺と申候御寺被成御建立
   候事
一、同十七年九月御内室様御病死被成候号大湯院殿 冨小路左衛門佐殿と申候公家之御娘延元様御母公二
    而御座候事

一、同十七八年之比嶋津兵庫頭殿 義弘小倉江御越被成候刻延元様江も儀と御使者にて時■等被     
   遊候事
一、元和元年五月大阪御陣之節 忠興様 権現様之御味方を被成御手廻り迄にて被成御立御上り
   忠興様は惣御人数を被召連陸路を御越被成候刻延元様江小倉之御留守居被仰付候間門司に
   は延元様を被召置小倉へ被成御出候得との御意に付延元様被仰上候ハ小倉江罷出候得との
   儀ハ随御意可申候御留守居之儀者迷惑仕候此段ハ幾重にも御断被仰上候其外之儀者何事に
   ても可畏入候御留守居被成御免候様にと強手被仰上候に付如御重成申候所之御断 忠興様
   御意に不参故に御座候や延元様江豊前一國之山奉行被仰付御さはきニ成候其後御國中取遣
   之舛之料をも被遊候様にと被仰出候舛之料は何と■異風なる御料被成度と御這之由に御座候
   いまに豊前より能小舛御座候に菱之下に一文字の焼印御座候ハ延元様御判にて御座候叓
一、此時節天下一國一城之御仕置に付門司之御城も割申候に付延元様も小倉へ御引越被成候叓
【武蔵・小次郎決闘の顛末】
一、延元様門司に被成御座候時或年宮本武蔵玄信豊前へ罷越二刀兵法之師を仕候其比小次郎と
   申者岩流之兵法を仕り是も師を仕候双方の弟子共兵流之勝■(芍カ) を申立武蔵小次郎兵法の
   仕置を仕候に相究豊前と長門之間■ク島に出合 後岩流嶋と云ふ 双方共に弟子壱人も不参筈に
   相定仕合を仕候処小次郎被打殺申候小次郎方ハ如兼弟子壱人も不参候武蔵方ハ弟子共数人
   参隠居申候其後に小次郎蘇生いたし候共彼弟子とも参合後にも打殺申候此段小倉へ相聞小次
   郎弟子共致一味是■とも武蔵を打果申と大勢彼島へ参申候依之武蔵難遁門司に遁参延元様
   を偏に奉頼候ニ付き御請合被成刻城中に被召置候に付武蔵無恙運を開申候其後武蔵を豊後へ
   被送遣候石井三之丞と申馬乗に鉄炮之者共御附被成道を致警固無別条豊後へ送厘武蔵親無
   一と申者に相渡申由御座候事     これがあるから何とも武蔵が好きに成れません。
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ミステリアスな人・佐分利越人(越知越人)

2010-01-15 09:48:59 | 歴史
 佐分利越人について、1/7「猫の恋」、1/8「うらやまし猫の恋 越人と芭蕉」を書いた。1/8にネットで注文した本が今朝手元に届いたが、大変面白い本で多いに満足している。満足しているのだが、著者吉田美和子氏の手により登場する越人さんは、熊本で見受けられる資料の佐分利越人さんと同一人物なのかと首を傾げている。俳人・越人は越知十蔵と名乗っていたらしい。師の芭蕉は尾張十蔵とよんでいたようだ。著者はのっけから越人を次のように紹介する。

   越人の遠祖はいずかたの人であったのか不明である。戦乱に吹き飛ばされた失業
   武士の末裔であったか、名古屋には古くから越人の父は肥後熊本で千石の禄を食
   んでいた佐分利勘左衛門という武家が浪人して町人になったもの、という誤伝が
   流布していたという。

 熊本における資料によると、佐分利越人は細川藩士・嶋又左衛門の三男で佐分利彦右衛門(兵太夫)の養子となった。養父兵太夫が何の故あってか禄を召し放され、越人(佐分利七兵衛)は伯父である旗本嶋角左衛門の領地(名古屋)に身をよせている。染物屋を営み芭蕉の弟子と成ったとされるが、このことについては一致している。熊本では有名な「佐分利流槍術」の師範などということはまったく陰も無い。一貫して芭蕉の弟子・越人である。

 師松尾芭蕉は「庭竈集」で「尾張十蔵、越人と号す。越路の人なればなり。」と紹介している。
越人自身の一文「問ず語」で「私は越路の者に候間、名も越人と申候。壮年に及ぶ比より故郷を出流浪仕り・・・」と記している。佐分利氏や実方の嶋氏と越路に何かのつながりがないかと調べたが、何も見当たらない。熊本の資料では越人は元禄十五年に亡くなり、坪井の流長院にお墓がある。
 吉田氏の著によると、越人は享保ニ十一年頃亡くなったとされ、名古屋にお墓がある。24年の差が生じている。ここでご紹介したものはごく一部分であるが、こうなると同一人物ではないのではないかという想いが強くなってくる。「肥後先哲偉蹟--佐分利越人」を座右に置き、この本の頁を追うと、まさしくミステリアスな世界に引き込まれて興味は一段と深まっていく。
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延元様玄也公御一代之御儀覚書 - 3

2010-01-14 17:12:33 | 歴史
一、同(慶長五年)九月十五日関ヶ原御合戦惣而関ヶ原大合戦にて競を味方に申候に付
   鑓相申候と早速敵双軍仕候止打(本ママ)に成申候故御高名も無御座候由薩摩の落武
   者川上四郎兵衛と申候侍 延元様生取に被成候得共御助薩摩へ被遣候其後豊前へ
   御國替以後川上処より使者差越御高恩の御禮を被申す波平中脇差種ヶ嶋の小筒一
   挺進上申候其時分まてハ種ヶ嶋の筒中々他国へ出し不申候多分嶋津殿より被進た
   るものにて可有御座よしに御座候事 此波平の脇差細川若狭守様へ去冬■■御■物に被進候
一、同年忠興様岐阜関ヶ原の依御軍忠豊前国被成御拝領同六年豊前へ御入國被遊候
   豊後之内に六万石忠興様御領分御座候此所関ヶ原一乱に亡所仕候ニ付延元様と長
   岡佐渡守殿御両人其後御仕置として御先手御越被成所々之儀被仰付其後より直に
   小倉江御越被成候事
       此時其後阿伎と申所にて伊藤十兵衛所に御宿被成
       其節御約束被成候に付十兵衛儀門司へ罷越
       延元様被御奉公申上候重兵衛儀ハ伊東源之丞親に
       て御座候
一、忠興様豊前御入國被遊門司之御城延元様被成御預に付門司へ御居城被成候与力
   両人御附被成候三百石沼田藤七殿・二百石荒木善兵衛にて御座候大阪御陳以後
   一國一城に被仰時分元和元年之比まて十四五年之間門司に被成御座候御在城之
   間御城内外所々古来之縄張等被御替延元様思召候侭に依被仰付候毎年御■請絶
   不申被■(畫カ)情候御普請により小倉より御鉄炮頭衆役人等参り候御城申候刻もす
   きと坪之手相不申候由申候事
一、関ヶ原御陳以後慶長六七年之比諸大名之證人并陪臣■々之證人をも江戸江被召
   上依て西國筋江ハ■戸兵庫殿江戸より被差下西國方御吟味被成候事付 忠興様を
   (本ママ)門司へ被成御越兵庫殿被遊御馳走候此時於門司御城兵庫殿を延元様被成り
   御振舞候 忠興様御相伴被遊候由ニ御■候御家中より證人被遊上者延元様・長岡
   佐渡殿・有吉内膳殿・長岡肥後守本名飯河卅四人之證人被差上候に究申候然處に内
   膳殿ハ病死被成肥後殿ハ子細御座候而切■被仰候に付延元様・佐度殿御両處之
   御證人まて被差上候事
一、同七八年之間延元様為證人御息女おたあ様江戸へ御登せ被成候段 権現様三拾
   人御扶持方被仰付け候御代々不相変天下陪臣の證人被成御赦免候迄御扶持方被
   為拝領之事
      此時諸国より男子之證人被差上候には五拾人扶持
      女子之證人には三拾人扶持方御定法に究り申候
      長岡佐渡殿よりは松井与次郎殿被差登候付五拾人
      扶持被為拝領候 忠利様御代に肥後へ被成御入國
      候以後有吉頼母殿・長岡監物殿證人被差上是も定
      詰に御座候得共 権現様以後證人にハ
      公義之御扶持方不被定候叓
  
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江戸という幻影

2010-01-14 12:43:07 | 書籍・読書
 渡辺京二氏の名著(1999年度和辻哲郎文化賞)「逝きし世の面影」を漸く読了した。幕末期の日本人の逞しくて豊かな人間像が、外国人が書き残した膨大な資料を読み解き、紹介しながら説得力の有る筆致で書き上げられている。500数十頁にいたる量で一期にとは行かなかったが、誠に爽やかな読了感である。

 次は時代を少し遡る「江戸という幻影」をどうしても読みたくて、「日本の古本屋」さんで検索、幸い一件ヒット早速購入の手続きをとった。書評などを見ても大いに期待ができる。

 渡辺京二氏は熊本在住、県人の誇りだとも言うべき人だと思っているが、著作が多く全てを読み終えるには相当の時間を要する。何とか頑張ろうと思っている。
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桜の井戸

2010-01-14 10:47:56 | 熊本
 昨今明治神宮の清正井戸が注目を集めている。東京第一のパワースポットとか喧伝され、携帯の待ち受け画面に取り込もうと五時間待ちの行列が出来たというからびっくりものだ。加藤清正の屋敷跡であり清正が掘ったと伝えられるが、清冽な水が湧き出ている様が受けているのであろう。
        www.meijijingu.or.jp/midokoro/3.html      

 清正の井戸といえばもう一つ、旧加藤家邸(彦根藩井伊家上屋敷)に「桜の井戸」というものがある。ぐぐってみると、熊本城内にある井戸とつくりがよく似た立派な井戸である。加藤家時代からのものだろう。
        www.asahi-net.or.jp/~jt7t-enmt/teien/ido.html

 熊本にも「桜の井戸」がある。現在の地番で言うと熊本市上通り5丁目は、かっては「桜井町」といった。藩政時代このあたりは中級武士の屋敷が立ち並んでいた。長安寺(現在・手取神社)の近くの閑静な場所で、某マンションが建っているが、ここのエントランス前の広場に「桜の井戸」が残されていて、これも加藤清正の遺構だと伝えられている。桜の井戸があることから桜井町と名付けられた。その遺構は大理石でオブジェ化されて残され、行き交う人たちに安らぎを与えている。こちらはパワースポットとは参らぬが、それでもデジカメに納める人も見受けられる。隠れた名所である。
        blog.goo.ne.jp/honzouin/e/1ce6be62d87ef30a12e28627f0eb7d9b
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積雪5センチ・・大雪です

2010-01-13 10:44:20 | 熊本
 今朝の熊本は一面の銀世界に成りました。積雪5センチ、南国熊本では大雪の部類でしょう。妻に言わせると、長男が幼稚園のころ以来とか言いますから、30数年振りという事でしょうか。十時過ぎからお日様が出て、家々の屋根の雪が輝いて素晴らしい美しさです。私の部屋の窓からの景色ですが、この景色もあと数時間の命でしょうか。
公式発表では7センチだと言っています。今晩も降りそうな気配です。
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延元様玄也公御一代之御儀覚書 - 2

2010-01-13 09:39:22 | 歴史
一、延元様丹後ニ御座候時分ハ御牢人にて被成御座 忠興様と御従兄にて御座候に付
   御威強く御育被成り候由ニ御座候事
一、文禄元年より高麗陳同六月 忠興様朝鮮得御渡梅被成候に付 延元様を被成御供
   高麗江御渡海永井惣右衛門・冨田少助御供に罷越候 延元様廿一歳之御時なり
一、慶長五年上景勝於會津謀叛之時節 権現様會津へ御出陳と申候刻 忠興様之被
   成御供延元様を御立被成候然共に石田治部少輔関ヶ原表江出張不付會津江は御出
   馬無御座候 権現様関ヶ原へ御向被成候同八月廿三日濃州岐阜之城御攻被成候城
   主岐阜中納言秀信公秀信公ハ信長公の嫡孫城之助信忠公之長子也御先手 忠興様福嶋左馬
   太夫殿・加藤左馬助殿此御三人芝野にて被成御免候所に瑞龍寺ニ而延元様鑓を御
   合被成 延元様ハ瑞龍寺之砦へ上下拾二三人にて御上り被成候所に上より勇々敷
   武者上下六拾程にて真黒に成鑓を可しと訇り坂を下り申候処に延元様中々鑓を可参
   と被仰坂之中程にて鑓を御合セ暫く御突合被成彼武者を御突被刎候処に下の谷へこ
   ろび落申候刻谷へ御下り首を御取可被成と被仰候とも深キ谷にて御座候其上合戦半
   にて御座候に付其分に被成此武者者樫江左近と申候中納言殿内にて番頭瑞龍寺之
   大持分にて御座候よし 延元様廿九歳の御時なり御家来之者互に太刀打せり合御座
   候内に敵の大持討死仕候ニ付き敵散々に成申候此時敵方の袖しるし赤根に白き輪違
   付申候を拾三本其外鉄炮等分捕仕候刻吉例の家紋■に被成是より武名の御紋輪違
   を御用ひ成候由長升惣右衛門・冨田少助手にあひ両人共手負申候永升三助と申者も
   其場へ参りかせき申候御手廻りの者三人御供仕参骨折申候者とも御帰陳之上御取立
   被成御加恩被下後々迄御奉公仕候三人ハ永井三左衛門・田邊市之丞・中村源右衛門
一、右之三御大将芝野二御座候所へ 延元様被成御越候細川玄蕃殿興元 延元様之御鑓
   を御持ち候手御出小兵衛骨折申候鑓を可被成御■候サゝラノ如く成申候よし被仰候処 
   左衛門太夫殿正則左馬助殿嘉明如何にも見届申候無比類働のよし御褒美に御座候ハ其
   時 忠興様御意候者沼田小兵衛と申吾等不遁者にて御座候拙者小身ゆへ■成仕合ニ
   申付置申候一■御褒美可被成候間■分性を出し候様にと御直に被成御意候由御座候
      弥十郎儀岐阜中納言殿へ御奉公申岐阜以籠城仕候
      中納言殿下城に成候時分侍四拾九人之内にて後座候
      延元様鑓を被成候相手瑞勝寺大持分之儀も林斎
      能存知候而語申候由御座候林斎又御家に参り御奉
      公仕候
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ジェットストリームはどうなる?

2010-01-12 13:51:55 | 徒然
 日本航空がいよいよいけない。社員諸子もOB・OGも先行き不安いっぱいであろうが、潰れてしまっては元も子もない。そろそろ年貢の納め時かもしれない。
飛行機が飛ばなくなる飛行場も出てきて、飛行場を持つ県や市の担当者もさぞかし頭が痛い事であろう。熊本でも地元新聞社が旗振り役で、箱物をつくり「日航ホテル」を引っ張ってきたが、これとて頭が痛かろう。
皆さん・・がんばれ!!

 私の心配はただ一つ、「ジェットストリームはどうなる?」という一点のみである。突然消えることもあるまいが、こういう状況だとこれとて危ない。「笑点」なみの長寿番組だが、ただただ長生きして欲しいと願わずにはいられない。
                 http://www.tfm.co.jp/jetstream/

          遠い地平線が消えて、ふかぶかとした夜の闇に心を休める時、
          はるか雲海の上を 音もなく流れ去る気流は、たゆみない宇宙
          の営みを告げています。
          満点の星をいただく、はてしない光の海をゆたかに流れゆく風
          に心を開けば、きらめく星座の物語も聞こえてくる、夜の静寂
          (しじま)の、なんと饒舌なことでしょうか。
          光と影の境に消えていった はるかな地平線も瞼に浮かんでま
          いります。

 城達也がなんといっても最高でしたけど、いまの大沢たかおもなかなか良いですよ。
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