津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■小川研次氏論考「時枝平太夫」(ニ)九州平定

2021-03-08 13:16:10 | 小川研次氏論考

二、九州平定
島津氏は九州を丸ごと飲み込む勢いだった。絶体絶命を目前にしたかつての九州の雄大友宗麟は豊臣秀吉に救援を求める。
天正十四年(一五八六)四月六日、宗麟は大阪で秀吉と謁見した。
関白秀吉は停戦命令や九州国分けの和解案を既に拒否していた島津氏征伐を決心する。
征伐隊の軍監(軍奉行)になった黒田孝高(官兵衛)は、中国や四国勢の兵を九州に送り込むことにした。毛利輝元、吉川元春、小早川隆景らの中国軍を主力とした。
まず、毛利勢は赤間関(下関)に集結した。
当時、下関にいたイエズス会士ルイス・フロイスの『日本史』と貝原益軒の『黒田家譜 第一巻』(一六七一~一七〇四編纂)を比較して状況を時系列に見てみよう。(『改訂黒田家譜』『日本史』11第六〇章、第六一章)

興味深いのは、黒田官兵衛は敬虔なキリシタンにも関わらず、『黒田家譜』には切支丹の「き」や耶蘇教の「や」も全く記載されていない。元禄元年(一六八八)に完成して光之・綱政に献上したが、改修を命ぜられた。益軒は忠実に書いていたかもしれないが、いずれにしても抹消されたことだろう。むしろ、官兵衛の側にいた「目撃者」フロイスの方が史実を反映していると考える。
フロイスは下関に四、五ヶ月滞在しており、名著『日本史』第一部を完成させている。

「副管区長(コエリョ)師は当(一五)八六年九月一六日に臼杵を出発し、山口の市(まち)から一日半の旅程にある長門国下関に向かった。(中略) 副管区長がかの海峡(関門海峡)に着くと、ちょうど時を同じくして、関白の命令によって毛利麾下(きか)の九カ国のすべての重立った殿や貴人たちが海峡を渡り、薩摩の国主と戦い、敵が本年武力をもって征服した諸国を奪回しようと集結し始めていた。」(『日本史』以下(日))

日本イエズス会副管区長ガスパル・コエリョが旧暦天正十四年(一五八六)八月四日に豊後の臼杵を出て、下関に着いていたことになる。

『黒田家譜』によると、「孝高(官兵衛)を軍奉行として、豊前へ指し下さる。豊前国は上方より九州への渡口なれば也。(中略) 七、八月は海上風波あらき時なれば、陸中を下るべしと仰せ付けられ、七月二十五日京都を立て山陽道にかかり、十餘日を経て豊前の小倉に着。(中略) 吉川駿河守元春、小早川左衛門佐隆景を豊前へ差下さる。此両人は八月十日に芸州を発して豊前へ向かう。輝元は同十六日に居城芸州広島を立て、数日を経て豊前の国門司の関に着陣し」とあるが、官兵衛は八月の十日前後に小倉に着いたことになる。また、元春と隆景は十日に芸州、輝元は十六日に豊前国を目指して広島を出発し、数日後には豊前に到着。しかし、京都からの途中、官兵衛は吉田郡山城(広島県安芸高田市)、山口、下関に寄っていることが、『日本史』により明らかになる。

「それから数日かが経つて、副管区長師は、新しい山口の司祭館の地所を見たり、自分を待っている古くからのキリシタンに会って彼らを慰めようとして、下関から山口に赴いた。その様な折に、関白殿の側近で小寺官兵衛殿と称する貴人が、都地方から陸路来訪した。」(日)

「彼(官兵衛)は国主(毛利)輝元が居住する政庁の所在地吉田の市(まち)に到着する時、ただちに輝元と単刀直入、司祭に与えるべき地所の事で話をし、その交渉を終えて山口に向かった。そして山口の市(まち)において副管区長と面会した。」(日)

「古くからのキリシタン」は、山口で布教の種を撒いたフランシスコ・ザビエルの信徒である。
官兵衛は山口に入る前に、吉田郡山城の毛利輝元と会い、作戦会議や教会について話し合った。そして、コエリョとフロイスは山口で官兵衛と再び会うことになる。『黒田家譜』では、官兵衛は小倉にいる時期である。
同年三月、大阪城にてコエリョとフロイスは秀吉に謁見していた。その時、官兵衛も同席していた。(1586年10月17日付「フロイス書簡」)

天正十三年(一五八五)九月から小早川隆景は伊予国の統治を始めた。鎮継は天正十三年十月に隆景を頼ったとされることから、伊予にいたと考えられる。

フロイスによる記録はないが、山口にいた官兵衛は上関から下関まで海路を利用したのではないか。

鎮継の家臣であった宇佐宮社人庄野半大夫正直を祖とする子孫らの由緒書「庄野先祖之覚 貞享元年記」(一六八四年五月成立)から一部引用する。(『福岡藩士庄野家の由緒』福田千鶴)

「時枝平大夫鎮継と申時枝城之城主、豊後大友宗麟義統之旗下、後ハ中不和故、豊後より十三年攻申由、終不落、内々是を無念ニ存ル折節、如水公中津に御打入ニ付、此由承、御迎ニ上ノ関迄被出、尤、如水公も九州打入、豊前時枝之城主聞及候間、何とそ手ニ入、九州をしつめ度と思召砌、上ノ関ニて始て御目見仕上、則君臣之契約と伝承、」

天正十三年(一五八五)は鎮継が親大友氏の中島統次に時枝城を陥落させられた年である。無念に思っていた時に官兵衛が中津(豊前国)へ入ることを聞き及び、上関まで迎えに行ったとあるが、この時が両者の初見であったという。
鎮継の人生に多大な影響を与える官兵衛との出会いである。

伊予にいた隆景の指示であろう。官兵衛の豊前攻略に重要な情報をもたらすのは鎮継をおいて他にはいない。二人は意気投合したに違いない。
鎮継は官兵衛の戦略に従い豊前に渡り、宇佐郡衆らと折衝したと思われる。

隆景手配の船は、もちろん日本最大の海賊といわれた能島村上水軍であろう。この時、官兵衛とともにコエリョらも同船していたのかも知れない。
村上水軍は司祭らが安全に瀬戸内海を航行するために、家紋の入った旗を提供していた。(1586年10月17日付「フロイス書簡」)


能島村上の拠点であった上関は水軍戦略上、重要な基地であり、官兵衛がそれを知るために利用したともいえる。

「コエリョ師が山口から下関に戻った後数日を経て、国主輝元の叔父小早川(隆景)殿と、その主席家老が下関に到着した。司祭が小早川殿を訪問したい旨を表明する時、官兵衛殿も自ら進んで司祭に同行した。」(日)

ここから、コエリョと官兵衛は隆景の下関到着前に既にいたことになる。

十月十日付の秀吉書状に官兵衛からの「九月二十八日と十月二日の書状」が秀吉の元に届いたのが十日であったとあり、そこには「輝元・元春・隆景が関戸(下関)に到着したら、長野が従ずる意思表示し、山田、廣津、中八屋、時枝、宮成も恭順し、それぞれの城を自由に使用することを申し出ている」とある。(『黒田家文書』『黒田家譜』以下(黒)) そもそも長野氏、宇佐郡衆の時枝、宮成は親毛利氏であった。

時代不詳としながらも「宇都宮衆知行表」(『豊前長野氏史話』)というものが伝わっているが、この頃の城主を知る上で参考になるので引用する。

「馬嶽城 二万石 長野三郎左衛門」「山田城 一万石 山田右近太夫元房」
「広津城 二千石 広津角兵弘種」「隅田城 二千七百石 中八屋藤左衛門宗種」「時枝城 二千石 時枝図書六郎兵衛」

後述するが、敵方となる「香春城 三千九百石 高橋九郎元種」「潤津城(宇留津城) 三千八百石 初、潤津日向守 加来孫兵衛元邦」とある。この石高から二つの城が重要な軍事拠点であったことが分かる。

『豊前志』に「潤津日向守高衡居る、後、加来新外記の子、孫兵衛元邦居る。」とあり、天正七年(一五七九)としている。(『賀来考』賀来秀三) つまり、「知行書」はそれ以降と考えられ、時枝城の時枝図書六郎兵衛は天正十三年(一五八五)の鎮継が芸州に走っていた時の城主(城代)であろうか。

「豊前の国士多く降参しける中にも、馬が岳の城主長野三郎左衛門、時枝の城主時枝平大夫、宇佐の城主宮成吉右衛門など、早々孝高の手に属しける。」(黒)

この三武将は官兵衛と共に豊前において重要な働きをすることになる。

「山口の国主輝元も約三千の兵を率いてそこから一里の所に到着し、ある僧院に投宿した。副管区長コエリョ師は、先に山口で地所を下付されたことで礼を述べに赴いたが、この訪問にあたっては、官兵衛殿が特に司祭に同行した。」(日)

コエリョが官兵衛と共に、輝元を訪ねている。下関から一里とは、長府辺りの毛利家所縁の菩提寺であったのだろう。長福院(功山寺)か。

「この選定された地所(下関)には、上の方に一つ丘があって見晴らしがよく、もっとも好都合だったので、そこに教会を建てることが決まった。だがそのためにますその丘を地均しする必要があった。しかし、町民は異教とばかりであったから、我らにはそうするだけの能力がなかった。時に官兵衛殿は、四日後軍勢を率いて下関を出立せねばならなかったし、軍事の事で準備に多忙を極めていたにもかかわらず、その話が伝わると、彼は己のことを差し置いて、鉄砲隊の指揮官と家来の兵士たちを遣わして丘の地均しをさせた。」(日)

下関の教会建立に関する記述だが、戦争の準備真っ只中に官兵衛がキリシタンの世話をしていることに驚きだが、誇張癖のあるフロイスだけに致し方ない。(巡察使ヴァリニャーノ評『日本史』1) 確かに官兵衛はキリシタン希望者を小倉から下関へ送り、司祭による洗礼を受けさせていた。中にはのちに細川家に仕える能島村上水軍の村上景広もいた。(『日本史』11)
さて、「四日後」だが、起点日が不明である。推測だが、上述の経過から九月二十九日と思われる。
十月十四日付秀吉書状に「右馬頭三日渡海、小倉城取巻に依」(黒)とあり、十月三日に右馬頭輝元が下関から小倉に入ったことが判明している。

「官兵衛殿は、下関から二里距たった所にある小倉という、敵の城を包囲するために同所(下関)を出発した。彼は通常、戦場においては日本人で説教ができる修道士を一、二名手元に留め、」(日)ていた。

この日本人修道士の一人はジョアン・デ ・トーレスである。のちに小倉で司祭グレゴリオ・デ ・セスペデスと共に活動することとなる。
フロイスは下関に留まったが、修道士ジョアンは官兵衛に従った。このことにより、イエズス会士は今後の戦争の状況を知り得ることが可能になった。官兵衛は輝元と共に小倉に入った。

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■細川小倉藩(510)寛永七年・日帳(八月廿五日~廿六日)

2021-03-08 06:57:24 | 細川小倉藩

     日帳(寛永七年八月)廿五日~廿六日

         |                        
         |   廿五日  賀来二郎兵衛
         |
連歌ヲ本丸ニテ興 |一、今日御本丸にて、御連歌御座候事
行ス       |
         |一、須崎久左衛門尉、知行所へ見廻申度之由にて、登城候、御次而を以可申上由、申渡候事、
曲者ヲ取逃シタル |一、岩田彦十郎もの曲事有之ニ付、めし取ニやとへ遣候処ニ、大由断を仕り、取にかし候ゆへ、とり
小性小者ヲ中国へ |  ニ参小性壱人・小者一人、中国へ払被申由、皆川治ア被申候、いつものことく仕くれ候へと、被
追放ス      |  申候、吉田縫殿所へ其段申遣候也、
町奉行へ通知ス  |
         |一、明後廿七日ニ、備前へ被遣歩之御小性ハ、入江三丞与ノ尾藤勘丞と申者也、
         |一、明後廿七日ニ、江戸へ被遣御鉄炮衆両人、内壱人ハ西沢文右衛門与中村五郎兵衛、一人黒部吉
         |    (与脱)
         |  兵衛上野半兵衛と申者也、
         |一、明後廿七日ニ、備前・江戸両所へ被遣御使、見達奉違候、明日被遣候也、
         |   (重元)
         |一、井門亀右衛門与岩成勘兵衛と申者、江戸ゟ此中罷下候、道中之様子直ニ被成 御尋候処、能申
歩小性ニ引上シ者 |  上候旨被成 御意、今度江戸御供ノ歩之御小性ニ被成御加候間、人不足ノ与ニ可入旨ニ付、相尋
ノ組入      |  候ヘハ、真下喜左衛門与ニ一人附則有之由申ニ付、真下与ニ入候由、生源寺市兵衛幷喜左衛門与
         |  わキ松岡角大夫申候也、
         |                            (宰相)(池田忠雄)               (成利)                          
忠利書状池田忠雄 |一、明日、備前へ御使ニ被参かちノ御小性尾藤勘丞ニ備前之相宰様へ之御文箱壱つ、荒尾内匠・荒
等宛       |   (崇就)
         |  尾志摩方へ之御書箱壱つ、相渡申候事、
使者歩小性ヘノ心 |一、右、尾藤勘丞ニ申渡候ハ、備前にて両人之御家老衆へ 御書箱持参被仕候とても、内へ御はいり
得        |  被内間敷候通、堅申渡候、

         |                        
         |   廿六日  奥村少兵衛
         |
         |一、今日、大坂へ罷上候御船頭野間惣兵衛ニ、寺嶋主水方へ加々山主馬ゟ、御用之儀被申上文箱相渡
         |  申候、中ニ 御書ともゝ有之由也、
         |一、金守形右衛門尉、今日江戸ゟ被罷戻候、
         |一、今日、江戸へ被遣御鉄炮衆、西沢文右衛門与中村五郎兵衛・黒部吉兵衛与大野半兵衛ニ、江戸御
         |
         |  留守居衆へ被遣御書箱壱つ相渡申候、又、京にて、坂崎清左衛門方へ被遣 御書箱壱つ渡申候事、
         |八月二日、三日之双場、小判五十六両八分
江戸米ノ相場   |一、江戸上米、石ニ付、三十めノ内外、金一両ニ弐石、
         |  一、中米ハ石ニ付、廿七、八匁、小判ニ弐石一斗五升、
         |  一、下米ハ石ニ付、廿三、四匁、同二石三斗、
  大豆ノ相場  |  一、大つハ石ニ付、廿め、
         |  右之分仕候由、金守形右衛門被申候也、
幕府横目ヘノ音信 |一、豊後御横目衆へ為御音信、御小袖三つ入之箱壱つ宛被進之候、御使者ニハ宇野七右衛門以被遣候、
物        |  七右衛門所まて、御長柄衆両人ニ持せ、かちノ御小性原久介ニ持せ奉行ニ申付、遣候也、
         |                              〃〃
細工奉行ニ上田忠 |一、今日より、万事御細工奉行ニ上田忠蔵被 仰付候間、忠蔵被申付次第、御細工可仕旨、御細工ノ早
蔵任命      |  田才介ニ申渡候事、
         |  右之段々、黒木作右衛門尉ニ申渡候、

  

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■Congratulations! 新阿蘇大橋開通

2021-03-07 12:43:48 | 熊本

 熊本大地震からそろそろ5年、甚大な被害の中で阿蘇大橋の崩落は特筆すべきものの五指にあたるだろう。
この事故と共に国道57線・JR豊肥線も多大な被害を受けたが、こちらはバイパスも含め、ようやく去年開通を見た。
しかし、この阿蘇大橋の崩落は、南阿蘇方面へ抜ける大動脈であったから、南阿蘇の方々の交通の不便さは深刻であった。
その阿蘇大橋に「新」と冠して、「新阿蘇大橋」としてようやく完成し、午後3時の開通となる。
盛んにメディアが紹介している施設に「ヨ・ミュール」という展望所が話題を呼んでいる。
「よく見える」を熊本では「よう見ゆる」というが、やや安直なネーミングだが、意外と評判になるのではないか。
阿蘇外輪の切れ目から、熊本方面が一望でき、市内の夜景や金峯山の後ろには、長崎の普賢岳も望めるというから、若い方たちが大いにやってくるに違いない。全国区になる可能性もある。

コロナのワクチン接種が始まり、コロナの終息も待ち望まれる中、GOTOトラベルなどが復活すれば、阿蘇観光も息を吹き返すことだろう。
地震・コロナと大打撃を受けたが、歓びの声に包まれる春が訪れた気がしている。
全国の皆さん「おいでまっせ熊本」、「ヨ・ミュール」へどうぞ・・・

 

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■細川小倉藩(509)寛永七年・日帳(八月廿ニ日~廿四日)

2021-03-07 09:56:28 | 展覧会

     日帳(寛永七年八月)廿ニ日~廿四日

         |                        
         |   廿二日  奥村少兵衛
         |
舟大工中津ヨリ帰 |一、中津へ被遣候当町之舟大工、御舟作事仕廻申由ニ而、御留守居衆ゟ之状を持、罷帰候、十五人参
ル        |  候内、上之大工今四人、中津ニ逗留仕居申候由也、
         |一、大坂ゟ之状、八月十八日ノ巳ノ上刻ニ、大坂出船仕由候而、急ノ御用状持下申候、
         |                           (黒原、規矩郡)(直正)
忠利書状木下延俊 |一、木下右衛門様へ 御書箱壱つ、次飛脚にて持せ被遣候、くろ原まて、寺本与葉山清左衛門尉ニ持
宛        |  せ遣候也
         |   (一成)
道家一成室肥後へ |一、道家帯刀内儀、肥後へ御暇申、見廻ニ被罷越、昨日戻被申候之由、帯刀登城ニ而被申候事、
ノ見廻ヨリ帰ル  |
         |       (不破平太夫)     (角兵衛)
張付奉行     |一、張付奉行、ふわ与才津七太夫・湯浅与土方猪兵衛と申候、右ノ奉行ハ江戸へ参、こしらへニ付、
         |  かわり候由申候也、
具足櫃作製奉行  |一、御具足ひつノ奉行ニ、横田権佐与八坂権右衛門・吉村加介と申者也、
         |      (大里、規矩郡)
忠利茶屋ノ番人ニ |一、内裏之御茶やニ被召置候坊主ニ、たれニ成共宿をかし候へと、当春 殿様 御越之時、被 仰出
         |       (勝茂)
宿貸ヲ許ス    |  ニ付、今度鍋嶋様御息女御通りニ付、被成御宿、銀子弐枚被下候、御かけにて忝奉存由にて、
         |  御礼に被出候を、小崎與次兵衛同道にて登城候、御本丸へ上り可被申由、申渡候事、
竹西堂船中賄奉行 |一、竹西堂之上り船中賄奉行ニ上り申友田二郎兵衛与田中久太夫ニ、竹西堂ゟかたひら壱つ、もめん
ニ賞与      |  たひ弐足被下候由申候、
         |  (吉兵衛)
竹西堂ヨリ賞与  |一、竹内与今池作兵衛・谷忠兵衛与相良茂左衛門尉、此両人も右久太夫同前ニ、三人参候へ共、かた
         |  ひらハ不被下、木綿たひ三足宛被下由申候也

         |                        
         |   廿三日  加来二郎兵衛
         |
         |         (加々山可政)
大坂京へ鮭ヲ求ム |一、鮭を下候へと、主馬ゟ大坂・京へ申上せ候由、被申候也、
         |           (規矩郡)
忠利石ヲ見分ス  |一、今日、石火成御覧ニ、足立へ被成御座候也、
         |  (細川光尚) (三淵宗由)
三淵宗由鉄炮伝書 |一、御六様へ、長岡藤十郎殿ゟ鉄炮之書物之由にて、ちいさきはこ壱つ御上候、明日ノ便ニ上候へと、
ヲ光尚へ上ク   |  被仰越候、得其意申由申候而、北村伝兵衛ニ渡候也、
三斎迎船ノ水夫ニ |一、三斎様御迎舟之水夫、飯米ニ渡申惣米無之ニ付、御舟出不罷成候ニ付、中神與兵衛をよひ、い
渡スベキ飯米ニ惣 |  かゝ被成候哉、出船延引候而ハ、さたのかきりにて候、急度可被相渡通、申渡候処、調禍申様無
米ナク出船不能  |  御座候ニ付、銀子にて相渡可申と候て申候処、かねをうけ取候而ハ、俄ニ可仕様無之と申候由被
         |                 〃〃
飯米三十石ヲ取替 |  申候、いかほとの儀ニ候哉と、相尋申候処、米三拾石斗之由被申候間、それほとの儀ハ御米をと
ウ        |  りかへ可申候、何角候て延引仕、立御耳候は、御機嫌いかゝニ候間、此分ニ申付候、是を以来ノ
以来ノ例トセズ  |                             大分ノ事ニ候ハヽ、上方ノ双場ニ仕、うり可申候へ共、
         |  引懸ニ被仕間敷候、御家中ノ御為いかゝと存、取かへ申候、〇其上、ふかしからさる儀ニ付、如
         |  此候、急度御蔵ゟ被請取、渡可被申通、申渡候事、
         |                                  私等共ゟ
         |一、かちノ御小性喜多村伝兵衛、明日江戸へ被参候ニ、江戸御留守居衆へ、〇之状弐通、佐藤安右衛
         |  門・井関久馬方へ之状壱通、京都衆へ之状とも相渡候也、

         |                        
         |   廿四日  奥村少兵衛
         |
三斎ノ迎船出帆  |一、三斎様御迎ニ、爰元ゟ被成御上候御舟とも、今日出船仕候、鏡善右衛門も灘御召舟ニ乗、今日出
         |  船仕候事、
         |            (遠藤)(大羽)(兵太夫)
         |一、江戸ゟ、竹内吉兵衛・安斎・理介・佐分利与篠原小左衛門尉、今日罷下申候、江戸を十四日ノ晩
         |  ニ立、廿日ノ朝ノ五つ時ニ着申候由申候事、
          

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■小川研次氏論考「時枝平太夫」(一)宇佐郡衆

2021-03-07 07:02:32 | 小川研次氏論考

 大分県宇佐市下時枝に「時枝城」があり、その城主が時枝平太夫( 鎮継)である。
鎮継と名乗るから大友氏ゆかりの名前かと思うと、反大友の急先鋒ともいうべき人物である。
細川氏を勉強する私からすると、黒田蔵人という人物が頭に浮かぶ。平太夫の二男だとされる。
平太夫は黒田氏に仕えたが、息蔵人は細川家に仕えた。細川家の猛烈な誘いが効を奏した。
蔵人の妻は黒田如水を有岡城から助け出した、加藤重徳の長女である。しかし蔵人は再婚している。継室は細川忠興によって誅伐された長岡肥後の室であった女性である。
今般、小倉葡萄酒研究会の小川研次氏から、30数頁にわたる論考をお贈りいただいた。
小川氏には過去にもいくつかの論考をお贈りいただいているが、今回も御許しを得て10~15回ほどに分けてご紹介申し上げる。
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            時枝平太夫(ときえだへいだゆう)             
                                                                                                                                         小倉藩葡萄酒研究会 小川研次
一、宇佐郡衆
弘治三年(一五五七)四月三日、西国の名門大内氏を継いだ大内義長は毛利元就軍に包囲され、長門の長福院(現・功山寺)にて自死した。義長は豊後国主大友義鎮(よししげ・宗麟)の実弟であった。
同日、大友氏は豊前国の宇佐郡衆に「御両家」の忠節を賞している。「御両家」は大内家、大友家を指す。書状には郡衆旗頭の佐田隆居(たかおき)を筆頭に十五名の名が並んでいる。その一人に「時枝亀徳」(かめのり)の名があるが、「鎮継」(しげつぐ)である。(「佐田文書」『熊本県史料』)
これは、前年の弘治二年(一五五六)、大友氏に降った宇佐郡衆の忠節を確認すると共に、毛利氏への備えでもある。群衆の「宇佐郡三十六士」にも「時枝平太夫鎮継」の名もある。(『大宇佐郡史論』)
ところが、翌年の弘治四年(一五五八)の「大友氏発給宇佐郡衆宛文書」から忽然と「鎮継」の名が消える。代わりに「時枝隆令」(たかよし)の名が上がる。(『戦国期の豊前国における宇佐郡衆在地領主について』) 
また、同年十二月一日の「吉岡長増奉書案文」に「時枝兵部少輔」の名があるが、隆令のことである。(「到津文書」『大分県史料』(24))
このことは「鎮継」から「隆令」に代が変わったことを意味する。

さて、時枝家だが、時枝左馬助惟光(これみつ)を祖とし、山城国八幡の慶安寺の子であったが、宇佐の弥勒寺の寺務役として、宇佐郡時枝村に住し、平太夫鎮継に至る。(『大宇佐郡史論』)(「両豊記」『大分郷土史料集成、戦記篇』)
当時、宇佐宮と弥勒寺は同地にあった。
「寺務社務両人事、車左右輪の如し、神事法会以相対候」(「小山田文書」『大分県史料』第一部(7)) つまり、社官家と僧官家は一枚岩だったのである。

天文十一年(一五四二)に宇佐宮大宮司補任となった宮成公建の次子「隆令」が時枝家を相続したのである。時枝系図では「宗安―鎮継―隆令」となっている。(「時枝重明系図」『宇佐神宮史』) 

隆令が相続したのは、上述のように弘治四年(一五五八)と推定され、鎮継の年齢は十代であっただろう。

宇佐宮大宮司家と弥勒寺は反大友氏であった。それは宇佐宮大宮司家(含弥勒寺)と大友氏の寺社奉行であった奈田八幡大宮司の奈田鑑基(なだあきもと)との確執である。永禄四年(一五六一)七月、宇佐宮大宮司の到津公澄の館を焼討ちや謀殺するなど、宇佐宮への政治的介入を強めていた。娘を大友義鎮に嫁がせ(奈田夫人)、息子は田原家に養子に出すなど(田原親賢・ちかかた)、大友家で権勢を強め、更に宇佐宮へ圧力をかけた。社官衆の反発は必至であった。

天正七年(一五七九)四月三十日、宇佐宮は奈田鑑基の非道を「所行希代之悪逆也」として大友氏に訴えた。「弥勒寺寺務時枝屋敷分并四十町」も押領されとあるが、大宮司家と共に時枝隆令は宇佐宮境内の弥勒寺領内に居住していた。(「小山田文書」『大分県史料』第一部(7)) 
一方、鎮継は糸口村の時枝城(宇佐市下時枝)にいた。

このような状況から、危機感を持つ宇佐宮は、幼少の頃から武勇の才を持つ鎮継に将来の武将として期待をし、僧官家であった時枝家は「隆令」に相続させ、武人として生きることを決意させたのではなかろうか。
やがて反大友氏の首領となった鎮継は毛利氏と通じ、親大友氏の赤尾氏や中島氏へ攻撃をかけることになる。

天正六年(一五七八)、大友宗麟は日向国で薩摩国主島津義久と対峙する。世に言う耳川の戦いである。しかし、総大将田原親賢の統率力の無さで敗北を喫することになる。
この戦をきっかけに大友氏は勢力を落としていくことになる。

筑前の秋月種実(たねざね)、筑紫広門(つくしひろかど)、原田親種(ちかたね)らは、肥前の龍造寺隆信と組み反大友氏の狼煙を上げた。また、時枝鎮継は土井城主佐野親重とともに、親大友氏の赤尾氏を滅したのちに、中島統次(むねつぐ)を攻めることにした。時は天正七年(一五七九)九月二十日である。この時、統次の実兄吉直が討たれたが、互いの損傷から引き分けとなり、和解となった。しかし、翌年に鎮継は和解を反古し、中島城を攻めた。この時は大友氏の援護の可能性から引き返したのである。(『大宇佐郡史論』)
この背景には、国東の田原本家の田原親宏(ちかひろ)・親貫(ちかつら、娘婿)父子が大友氏に反旗を翻したことに起因すると考えられる。急逝した父の遺志を継いだ親貫は天正七年(一五七九)十二月、国東水軍を率いて府内を目指したが、荒天のために引き返している。
やがて、鞍懸城(くらかけじょう・豊後高田)に籠り、大友宗麟嫡子の義統(よしむね)に反意を公然とした。また、南部衆の田北紹鉄(じょうてつ)も親貫と通じ、熊牟礼城(速見郡庄内)に籠城してしまった。この二人の反旗は大友氏への最大の危機となった。この時に鎮継は宿敵中島氏に仕掛けたのだ。
義統の指示には動かなかった大友氏重臣らは、父宗麟(義鎮)が前線に出陣することで従うことになった。天正八年(一五八〇)四月、まず田北の熊牟礼城が落とされ、十月九日、大友軍の総攻撃により鞍懸城はついに陥落した。(『九州のキリシタン大名』)

敗走した親貫は宇佐郡の善光寺村に身を寄せていたが、時枝氏から殺されたと伝わる。反大友氏の親貫を殺すだろうか。典拠は『大友家文書録』であることから、創作の感が拭えない。むしろ、鞍懸城での自刃説の方が妥当と考える。(『大分県史料』33 第二部補遣5)

天正八年(一五八〇)七月九日、「時枝鎮継、䦰(くじ)を下し、向後ハ香春表」に到着するようにと萩原鎮次に催促している。(「萩原文書」『宇佐神宮史』) 
同年七月十五日、大友義統は宇佐郡に長嶺與一郎入道を出陣するために、佐田鎮綱(しげつな)の協力を要請している。鎮綱は隆居の嫡子である。
この年の宇佐郡は敵味方共に一触即発の緊迫状態にあった。

天正十年(一五八二)十二月二十四日、鎮継は豊前善光寺(宇佐市下時枝)に燈料として田畠一町を寄進する。「願主時枝武蔵守仲原鎮継」は「天下泰平」「武運長久」「息災延命」など祈願をし、親大友氏の宇佐郡衆の駆逐を誓う。(『大宇佐郡史論』)

天正十二年(一五八四)正月五日、宇佐宮大宮司の宮成公基が嫡子松千代丸に大宮司の職を譲った。実は、この公基は時枝家を相続した「隆令」の男子であった。(「宮成文書」) 宇佐宮も武装化していたが、還俗して武将となり、鎮継と共に戦う決意表明でもあったのだろう。のちに黒田家に属し、宮成吉右衛門(黒田吉右衛門政本)と称する。

翌年の天正十三年(一五八五)十月二日、時枝城は中島統次により陥落される。この時、鎮継は小早川隆景を頼りに芸州(安芸国)へ逃れた。(「両豊記」)


  宇佐神宮境内の弥勒寺跡 

 

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■能力に過ぎた事ではありますが?

2021-03-06 16:56:00 | 徒然

 木山往還の正確な位置を確認しようと思っていたが、現代の地図ではなかなか理解できない部分があったが、先にご紹介いただいた 今昔マップon the web 熊本市 のおかげで、ほぼ正確な位置を知ることができる。
今昔マップに使われている一番古い地図は1900年で「明治33年」だから、この地図に従い木山往還をたどると、一部は開発された土地の中に消えているものがあり、一方私が理解していた古い道が実はこの当時存在しなかったりと、眼からうろこのたとえの通りである。
木山往還を輪行でたどられた方のサイトなども見えるが、これが100%正しいかというと些か疑問にも感じる。

「豊前街道‐薩摩街道」や「日向往還」などは、薩摩街道・豊前街道旧街道地図肥後日向往還旧街道地図といった、ルートを示す素晴らしいサイトがある。
これに倣ってルート図を何とか作ってみたいと考えているのだが、79爺様にはとても手が出ない。
人様のお知恵を借りてでも作り上げたいものだと一念発起している。

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■細川小倉藩(509)寛永七年・日帳(八月十九日~廿一日)

2021-03-06 06:48:36 | 細川小倉藩

     日帳(寛永七年八月)十九日~廿一日

         |                        
         |   十九日  加来二郎兵衛
         |
         |一、今日、江戸へ被遣御飛脚二人、内一人ハ国友半右衛門与竹嶋角丞、一人ハ竹内吉兵衛与牧野角左
         |  衛門也、但、中ノ遣銀遣、 御書相渡候覚、
         |  一、三斎様へ之御文箱一つ、一、町三右衛門・松野織アへ被遣 御文箱壱つ、一、戸田左門様へ被進御
         |    文箱壱つ、
         |  (忠広)
森忠広室歿スニツ |一、森右近様御上様御遠行ニ付、美作様へ御状被進候、御内慶安へ御状相渡、慶安所へ候ても、内へ
キ弔状      |  はいるましき由被 仰候、御使者ハ歩之御小性永屋二郎介ニ御文箱壱つ幷慶安へ被遣御状壱つ相
ソノ渡方     |     (森忠政)
         |  渡候、作州様はや江戸へ被成御下候ハヽ、慶安ニ渡、江戸へ可下と被申候ハヽ、一段能候、慶安
         |  も御供にて、江戸へ被参候ハヽ、御年寄衆へ渡可申候、但、江戸へ可相届候御状、此方之御使者
         |  ニ江戸持下候へとさへ不申候ハヽ、可渡置候、さもなく候ハヽ、江戸へ持下ルにて可有之と、
         |  (飯田)
         |  才兵衛被申候也、
         |   (青脱ヵ)
佐田青山ノ松茸  |一、佐田山ゟ、松茸百五十本持来候、休心を以上ル、
惣奉行日ノ印   |一、江戸へ之御飛脚、中之遣銀を相渡候処ニ、松ノ丸衆朝上り不仕ゆへ、我々日ノ印を仕、遣候、但、
         |  松ノ丸衆ハ急ノ目録仕立ニ付、朝上りハ不仕由、被申候也、
         |                                         (更紗)
長崎ヨリ唐木綿等 |一、長崎ゟ、飛脚罷上候、唐もめん二包持上候、  一、天河もめん嶋二たん、 一、白キかあさもめ
来ル       |  ん一たん   一、うろこ木綿十たん也、
         |一、江戸ゟ御荒仕子罷下候ニ、江戸御留守居衆ゟノ状持下申候、御裏様衆も下り申由也、

         |                    
         |   廿日  奥村少兵衛
         |
忠利責馬     |一、今日は、北之御丸ゟ、御馬場へ御馬せめニ被成御出候事、
鉄炮足軽某道中ノ |一、井門亀右衛門与
岩成勘兵衛と申者、此比、江戸ゟ罷下候ニ付、 御前へ被 召出、道中之様子被
状報告ニ忠利ヘノ |  成御尋候処、御請能申上候ニ付而、歩之御小性ニ被 召加候、左候而、今度江戸御供可仕旨、被
応答宜キニツキ歩 |  仰出候事、
小性ニ引上ゲラル |

         |
         |       (ママ)                        
         |   廿一日
         |                                      (有吉英貴)(三淵重政)
長崎へ書状    |一、小谷忠二郎与作右衛門・新左衛門、永崎へ遣、我々状一つ、式ア殿ゟノ文箱壱つ、頼母殿・右馬
         |
         |  助殿ゟノ御状弐つ渡、遣申候事、
         |一、杉新右衛門尉、今日江戸ゟ被罷下候事、
         |
竹西堂船頭ニ賞与 |一、圭長老・竹西堂を、南喜右衛門舟ニ而、被成御上候ニ付、竹西堂ゟ、喜右衛門ニかたひら壱つ被
         |  下候由申候事、
忠利松井興長邸ニ |一、式ア殿へ御こほ殿御身廻ニ被成御座、直ニ御鷹野ニ被成御出候事、
こほヲ見舞ウ   |
鷹狩ス      |
       

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■木山往還・第二部

2021-03-05 15:30:23 | 熊本

 昼食後13:05出発、まずは今日の出発点に向かう。健軍自衛隊正門前の道路を、約500m南下、右に折れると道なりに歩けば、健軍神社前の道路に至る。
道を間違えることはないが、昨日同様up.downがすさまじく爺様はすぐに足に来てしまった。
都合4.5キロ、1時間20分歩いたが、終盤はふくらはぎが攣り、時々止まっては足を休めながらの昼散歩と相成った。

 
 スタート地点・自衛隊前の大通りから、ヤマハ音楽教室・健軍店の角を曲がり直進

       
       反対側を見ると、木山往還は県営団地に中に消えています。

                                    
               上り下りの激しい道です                   

                       
                       右手にお御堂があり、その先の右角が花立往還入り口

  
 このお御堂の左手が花立往還の分岐点

       
        最後の上り坂
      

                     
              右側から登ってきて、健軍神社前の通りに出ました。正面の木立が見える処が健軍神社

                    
             

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■すぐれもの・・

2021-03-05 12:55:54 | 地図散歩

    朝散歩もせず、木山往還の起点から砂取四つ角迄のルートを、ゼンリンの地図で確認する作業に没頭していた。
改めて確認すると「こんなところを?」とそのルートに驚かされた。
どうしても現代の感覚で道を考えてしまうが、当然のことながらJR豊肥線の高架マウンドなどなかったわけで、JRの線路そのものを頭の中で消去しないとなかなか理解できない。
そのJRのマウンドから東の部分になると、幼いころの私の活動範囲になるのだが、この木山往還が何処を走っていたかとなると、堀之内団地周辺の七曲りのどこを走っていたのかを確認することはなかなかできない。

処が昨日のブログに、ある方がgoogleの「やさしいデジタル地図」の存在をお教えいただいた。
         今昔マップon the web 熊本市
現況の地図と古い地図を左右に同時表示しているから、例えば1900年の地図を利用すれば、往時に近い状況が見て取れ、大変参考になり有難い。
また年代を追うと、主要な道路がいつの頃どのようにつながれていくのかもよく理解できた。
堀之内の七曲りから、砂取四つ角へ出るルートもほぼ理解できた。

よくぞ、お教えいただいたと感謝申し上げる。そして安心して昼散歩、昨日の御約束の木山往還の残りを歩きます。

                                         

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■細川小倉藩(508)寛永七年・日帳(八月十六日~十八日)

2021-03-05 06:53:53 | 細川小倉藩

     日帳(寛永七年八月)十六日~十八日

         |                        
         |   十六日  奥村少兵衛
         |
百姓成敗サル   |一、今日、築城郡本庄村之次郎助、御成敗被成候事、
         |                                (粟野) (加藤) (豊岡)
小倉家中規矩田川 |一、小倉御侍衆、規矩・田川両郡にて、竹木かい被申候分ニ、今迄ハ、伝介・新兵衛・甚丞加判被仕候、
郡内竹木買入ニ惣 |  余郡ハ左様無之由候、きく・田川迄左様ニ候て不入事候、今ゟハ、十郡なミニ、御郡奉行・山奉
積奉行等加判ス  |
今後は十郡並ニ郡 |  行相対次第売付可被申由、平井・小崎・岩下弥二右衛門二当而、切帋遣候、新兵衛・甚丞へも此
奉行山奉行相対次 |  通相渡候、一段可然由被申ニ付、右之痛ニ申付候事、
第トス      |
百姓成敗サル   |一、今日ハ築城郡之内本庄村二郎介御成敗被成候、 殿様も被成御出候、それゟためいけへ被成御
忠利ソノ成敗ヲ見 |                     (規矩郡)
而さゝいせニ出ル |  座、直ニさゝいせへ被成御出候、さ候て、赤坂にて御弁当上り候也、
木下延俊ヘノ返書 |一、木下右衛門様へ之御返書、林隠岐被持出候を、歩之御小性渡辺少左衛門ニ持せ、吉田縫殿所は持
         |  せ遣候事、
         |    (浅山)(田中氏次)
忠利惣奉行等ニ朝 |一、今朝修理・兵庫ニ 御前ニ而御食被下候事、
食ヲ饗ス     |                            (正慶)
溜池ニ禁札ヲ立テ |一、ためいけへ、人むさとはいらさる様ニ札を立候へと、加々山権左衛門を以、被 仰出候事、
シム       |
佐田青山之松茸  |一、佐田青山之松茸百弐本参候、則、上申候事、

         |                        
         |   十七日  奥村少兵衛
         |
         |      (宕)
         |一、田川愛岩山ニはへ候松茸之由にて、弐拾弐本壱籠差上候事、
         |     (亀右衛門)
江戸ヨリ飛脚下ル |一、江戸ゟ、井門与岩成勘兵衛・国友半右衛門与沼口新蔵罷下候、江戸を今月四日ニ立、大坂へ十一
ソノ行程     |                    (氏銕)
         |  日ノ夜着、松野織アゟ言上ノ文箱壱つ・戸田左門様ゟ文箱壱つ、江戸御留守居衆ゟ、我々へ之状
         |      (忠知)   (正俊)
         |  持下、小笠原壱岐様・久貝因幡様ゟ之御状も下ル、
         |                    去五月十九日ニ
本多政朝へ籠ヲ贈 |一、本多甲斐守様へ御乗物被進之候、江戸へ便宜之時被遣候、其前日之くれかたニ出来仕ニ付、夜中
ル        |                    〃〃〃〃
夜中ノ包装ニ蠟燭 |  ニつゝませ可申旨被 仰出候時、さふら火にてハミへ不申ニ付而、らうそく請取、つゝませ被申
ヲ要ス      |  候、松の丸衆かつてん不参、右之らうそく之請取切手ニ、うら判夫被仕候間、此方ゟ判形仕、遣
松ノ丸衆合点セズ |  候也、
         |   (忠政)
         |一、森美作様ゟ、御飛脚両人参候事、
             (長晟)
浅野長晟飛脚へ京 |一、浅野但馬様ゟ之御飛脚弐人に京銭四貫文被遣候を、歩之御小性永や二郎介ニ持せ、横田権佐迄遣
銭賞与      |  之、渡させ候事、

             〇十八日分 記載ナシ、

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■散歩がてらに花立往還を歩く

2021-03-04 11:01:23 | 徒然

 今日は朝、奥方から「ゴミ、早めにお願い」とリクエスト、今日はプラスティックゴミの収集日で、少し遅れるともう収集車が通り過ぎていて持ち帰ることが度々あったからである。
9時過ぎに家を出て、健軍神社を目指す(約1.8キロ)。今日は花立往還を歩こうという思惑である。
木山往還は砂取四つ角から熊本市総合体育館前をとおり、八丁馬場を進み健軍神社正門へ至っている。
健軍神社前から急坂を南に下る。信号機のある交差点を左折、下り坂を下りた当りの真行寺の前で左折。
直進すると木山往還、左折すると花立往還である(花立往還起点)。あらかじめ頭に入れていたルートをスマホのグーグルマップを見ながら、複雑な道筋を上り下りの激しい坂道を約1.0キロあるく。県庁前から健軍自衛隊正門へ至る道の約100m程の場所に出た。
国土地理院の地図で標高を見てみると16.5m程の高低差があって、良い運動になった。
ここから我が家迄1.2キロ、全工程4.0キロぴったりの朝散歩とあいなった。所要時間1時間少々。
明日は真行寺前を直進する「木山往還」を逆回りで歩いてみようかと思っている。
花立往還は広大な自衛隊の敷地内で途切れ、その長さは1.2キロほどである。木山往還は、健軍東三丁目と四丁目にある団地や公共機関に飲み込まれて、これも往時をしのぶことは出来ない。これが直線で800m程である。

         

                 昨日指摘したように、赤線が花立往還、黄色線が木山往還である。

現在では舗装された立派な道が縦横無尽に走っているが、今日歩いた周辺は、16m以上ある高低差と雨が降るとぬかるんだであろう往時を考えると、例えば米を運ぶその時代の人たちの大変さが大いにしのばれるのである。

                         

                                                        真っ直ぐ伸びる木山往還(通称八丁馬場)

                         

          八丁馬場の行き詰まり・健軍神社 右に折れ100m程坂を下り信号機から左折。

                         

           16mの高低差を右往左往して、疲れたが目的地も近い。

                         

           右の道(花立往還)から出てきた大通り、正面に健軍自衛隊正門が見える。

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■細川小倉藩(507)寛永七年・日帳(八月十二日~十五日)

2021-03-04 07:08:43 | 細川小倉藩

     日帳(寛永七年八月)十二日~十五日

         |                        
         |   十二日  安東九兵衛
         |
忠利責馬     |一、今朝、御馬御せめ被成候事、
長崎へ買物ノ書出 |一、長崎へ今日遣候御船頭続仁右衛門尉ニ御かい物之儀申遣也、 御前ゟ御書出は、奉書ノ段ニ入
         |  置候也、
         |                                     (衛則ヵ)
谷衛則室上知分ヲ |一、山本三四郎ニ、谷主膳内儀之上り知弐百石、為御加増被遣候事、
山本三四郎へ加増 |

         |                        
         |   十三日  奥村少兵衛
         |
宇佐青山ノ松茸  |一、宇佐ゟ、松茸九拾七本持せ、次飛脚にて差越候、宇佐青山ニ有之由、申来候也、
         |       (宕)
田川愛宕山ノ松茸 |一、田川郡愛岩山ゟ、松たけ十九本持せ、被差上候、
         |  (中津郡)
舟破損ノ書物裏奉 |一、大橋浦小兵衛舟破損之書物、百冨忠左衛門尉ニ相渡候也、
行へ渡ス     |
台木       |一、安場仁左衛門尉被申候ハ、田川ニ有之台木、急度取寄候様ニ被申候事、
江戸ヨリノ飛脚ノ |一、江戸ゟ、神西與三右衛門与永田う兵衛・桑原主殿与村上二右衛門両人参候、江戸を今月三日に立、
行程       |  大坂二鉢日之晩ニ着、明ル九日之五つ時ニ、石松作内舟にて下ル、持来候御状共■之覚
         |     (政朝)
江戸ヨリノ書状覚 |  一、本田甲斐様ゟ之御文箱一つ、
         |     (光賢)
         |  一、烏丸宰相様ゟ之御状一つ、
         |       (親英)
         |  一、江戸松野織ア・街三右衛門ゟ之同一つ、
         |     (茂)
         |  一、渡辺山城様ゟ之御状一つ、
         |     (重宗)
         |  一、板倉周防様ゟ之御状一つ、
         |    (林)
         |  一、道春ゟノ状一つ、
         |  右ノ分持来候、則、上申候事、
宇佐大重見山ノ松 |一、うさ大重見山ゟ、松茸八拾五本持来、則、上候也、
茸        | 

         |                        
         |   十四日  加来二郎兵衛
         |
         |  (宇佐郡)
佐田青山ノ松茸  |一、佐田青山ゟ、松茸三百三十本指上候也、
         |  (規矩郡)                                       (小崎)
足折レシ五位鷺ヲ |一、篠崎之御百生、あしのおれ候ごいさぎ壱つ、とらへ候よしにて上候を、與次兵衛ゟ、持せ被上候
上グ       |  也、

         |                        
         |   十二日  安東九兵衛
         |
宇佐ヨリノ松茸  |一、宇佐郡恵良太左衛門尉手永より、松茸七拾本取せ候由にて、壱籠次夫にて差越候也、但、休心
         |  を以上ル、
         |  (久盛)                            (松井興長)    
中川久盛家老ヨリ |一、中川内膳様御内加賀守所より、松茸ノ鬚籠壱つ、幷式ア少輔殿御内松井外記ニ当り申文箱壱つ相
松井家ヘノ音信松 |  そへ、次夫にて持来候、則、式ア少殿へ持せ遣候也、
茸        |
槻木村ノ丸盆   |一、下毛郡槻木ゟ、丸盆引候而、送り切手相そへ、次夫にて持来候、横山作兵衛ニ切手当り申候ニ付、
         |  ふるきかやへ遣、御大工甚助ニ渡させ候也、
         |一、苻内御横目衆へ被遣候御飛脚、御小人喜ノ介御返事を取、罷帰候事、
         |       (山本)                   御城ノ御
木付城ノ材木大風 |一、式ア殿ゟ、源太夫を以、被仰聞候ハ、木付廻り之材木、今度之大風・大潮ニなかれ申候、就夫、
大潮ニ流サル   |                     〃〃〃
         |  式ア殿御内衆、右之残材木取集、今まての所ニ置申候ハヽ、又なかれもや仕候ハんと、山へ上
         |  申候由、申来候、此段さたのかきりニ存候間、次飛脚にて可申遣と被仰聞候間、一たん御尤之由
         |  通、御返事申候事、
         |     (香春)
庄屋ノ脇差ヲ郡奉 |一、木九郡かわら町ノ庄や太郎兵衛わきさし、小崎與次兵衛ニ相渡候事、
行へ渡ス     |

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■木山往還に桜木の追分石と、益城の猫伏石を訪ねる

2021-03-03 13:03:53 | 熊本

 今日は良い天気になった。少々寒くてダウンをはおり、10時過ぎから自転車で出かける。
帰りは坂道を避けるために大きく迂回したので約10キロの行程を1時間半をかけて走ってみた。
健軍自衛隊の大きな敷地は東と西に二つあるが、東の方のブロックに面する道のちょうど真ん中あたりから、斜めに一直線に走るのが木山往還(実は花立往還が正解のようだ)■木山往還・花立往還 踏破計画による地図では、黄色表示が「花立往還」とあるが、これが「木山往還」であり、赤線が「花立往還」である。
  参考:https://www.city.kumamoto.jp/common/UploadFileDsp.aspx?c_id=5&id=11960&sub_id=141&flid=200795

その熊本市のはずれ桜木地区とお隣益城町の境の変則五差路に追分石があった。

 右奥から走ってきたが、左のミラーの下に追分石があった。

  

私が走ってきた右斜めに見える道が花立往還だろう。    右すなとり(砂取)、左ぬやま川(沼山津)とある。

 この記載からすると、上の写真にある左折する道が「左」で沼山津、真っすぐ行く道が「右」砂取と考えるのが妥当である。

 

砂取方向から来ている道を真っすぐ東進し300m程の所に、巨大な「猫伏石」と名付けられた二つの石が鎮座している。
猫伏は「ねこぶく」と読むが、農家で籾を干したるするときに使う、厚手の蓆をいう。
命名の由来は案内板をどうぞ。熊本城内で井戸に落され殺された「横手の五郎」に由来する伝説の石である。

 三方向から道が交差する中に鎮座している。

 案内板

 木山街道から右手に回り込んだ所。

 お地蔵様

 左手奥に木山往還が続く。(地元の方に確認しました)

 案内板は石の左手の白い部分にある。

   随分花粉が飛んでいたのでしょう、帰ってから鼻水・くしゃみ・目のかゆみに大いに悩まされています。

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■細川小倉藩(506)寛永七年・日帳(八月八日~十一日)

2021-03-03 06:44:24 | 細川小倉藩

     日帳(寛永七年八月)八日~十一日

         |                        
         |   八日  加来次郎兵衛
         |
         |                                (ママ)
幕府茶道以白将棊 |一、坂崎清左衛門尉、今日被罷登候、同船にて、 上様御茶道以白、将碁さしノ道覚被成御上せ候、
指道覚出帆    |  以白ニハ銀十枚、道覚ニハ於大坂御米三十石被遣候也、
         |                            (慰英)    (是次)
道覚ヘノ給与米  |一、道覚へ被遣御米ノさしかミ、状之内ニつゝミと入、大坂仁保太兵衛・米田左兵衛方へ遣候を、津
         |   (辰珍)                〃
         |  川四郎右衛門殿ゟ、切手とり被遣ニ付、四郎右衛門殿内左右衛門と申ものニ渡申候、
風損ノ中津ノ船修 |一、今度ノ大風ニ、中津御舟大分損候間、当町舟大工拾四、五人御やとい有度由、被仰越ニ付、得
理ニ舟大工ヲ遣ス |  御意候ヘハ、申付、遣候へと被 仰出ニ付、舟大工太郎左衛門ニ申付、遣候也、
         | (清成作助)  (新町)          (元明)
宇佐郡代官下代庄 |一、作介下代・庄や太郎兵衛番ニ、住江甚兵衛与安部喜右衛門・高橋弥右衛門申付也、
屋ノ番人     |   (森永次兵衛)
         |一、作介ニ付、北前へ遣候御鉄炮衆罷帰、申候ハ、作介かい置ノ材木調、はか不参付、先罷帰候由に
         |  て、登城仕候也、

         |                        
         |   九日  安東九兵衛
         | (ママ)
         |一、

         |                        
         |   十日  奥村少兵衛
         |
泰勝院懺法ノ花籠 |一、今度泰勝院御法事ニ、せんはうの花かこ三つ不足仕ニ付而、中津ノかいかんしの花かこ三つかり
不足分ヲ対巌寺ヨ |  申候、今日御小人ノ角右衛門ニ持せ、中津へ返し申候也、但、矢左衛門与、
リ借用      |
         |一、松岡七左衛門尉・井上孫兵衛御算用仕上げ候由、被申候事、
         |                (直正)
         |一、明日、江戸へ被遣御鉄炮衆、寺本八左衛門与江口太兵衛・友田二郎兵衛与梶原久丞、
下毛郡代官算用済 |一、御代官萱嶋作兵衛・野村兵左衛門尉、去年分ノ御算用相済申候、併、中津様御蔵納、新地・永荒
ム 中津領蔵納ノ |  之御算用之儀ニ付而、御米弐石余ノ儀、御算用済不申候、小崎太郎左衛門様子被存候、今程煩ニ
新知永荒分ノ算用 |       被                                      (元高)  
未済       |  付而、不罷出候、被罷出次第、様子可被申上候間、左候ハヽ、蒲田賢斎・志水次兵衛なとへ被仰
         |  入にて可有御座候由、被申候事、
         |  (豊後)                                             (宇野)
幕府横目ヘノ音信 |一、苻内御横目衆へ被遣御飛脚ハ、與介与ノ喜ノ介・源三郎与新介也、 御書箱弐つ幷七右衛門
         |  所へ遣帳、又、我々状壱つ渡、遣也、
判はんじヨリ船頭 |一、木村久兵衛を、東次介舟にて乗上ケ候処、次介ニ米五斗、御加子中ニ樽壱つ給候由、次介書上候、
等へ賞与     |  則、上候也を坊主宗印を以、治ア・おきニ渡候へと、申遣候也、
         |      〃

         |                        
         |   十一日  加来二郎兵衛
         |
         |一、今日、江戸へ御飛脚弐人被遣候、道中にて 三斎様へ懸 御目候ハヽ、御返事を取、一人爰元へ
         |                                 (飯田)
         |  可罷下候、被取ハ江戸へ通り、御留守居衆へ被遣 御書箱可相渡旨、才兵衛を以、被 仰出候、
         |  但、小倉を今月七日ニ出船仕候へ共、日和悪敷御座候て、十一日ニ門司を出申由申候而、御状を
         |  上ヶ候へと、慥申渡、遣候也、
新町庄屋赦免サル |一、新町之庄や太郎兵衛、今日御赦免被成候也、
宇佐郡代官下代ヲ |一、清成作介下代森永次兵衛と申者ハ、新籠ニ被成御入候也、
新籠へ入ル    |
         |   (久盛)
中川久盛書状   |一、中川内膳殿ゟ、御飛脚参候由にて、吉田縫殿御文箱持上り被申候也、

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■木山往還・花立往還 踏破計画

2021-03-02 17:36:01 | 徒然

 木山往還は熊本市迎町の日向往還の御船口の位置から分かれて、中央区~東区を横断して、お隣の益城町木山に至る約12キロの近世から近代に至る道である。
この道筋を自転車で踏破して確認したいと考えているが、行きかえりで24キロ走らねばならないから、これは現在の私の脚力では到底一気にとはいかない。
そこで近場の東区側をまず踏破しようと思っている。(一部は健軍地区で消えてしまっているが・・・)
スタートは健軍神社前(地図左端)から、終点は桜木地区にある追分(地図右端)とすると、往復7キロ程の行程だろう。
三寒四温の言葉通り、暑さ寒さや天気の移り変わりが不安定なこの頃だし、花粉の飛び交うこの頃だから日にちの設定が難しい。
朝起きがけに「エイヤッ」と決めて飛び出そうと思っている。
中央区側はまた別の機会とするが、こちらも絶対踏破したいと思っている。
(参考の地図は下記の地図、これはたぶんH様のサイトだと思うのだが、引用させていただきます。)

        

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