二、九州平定
島津氏は九州を丸ごと飲み込む勢いだった。絶体絶命を目前にしたかつての九州の雄大友宗麟は豊臣秀吉に救援を求める。
天正十四年(一五八六)四月六日、宗麟は大阪で秀吉と謁見した。
関白秀吉は停戦命令や九州国分けの和解案を既に拒否していた島津氏征伐を決心する。
征伐隊の軍監(軍奉行)になった黒田孝高(官兵衛)は、中国や四国勢の兵を九州に送り込むことにした。毛利輝元、吉川元春、小早川隆景らの中国軍を主力とした。
まず、毛利勢は赤間関(下関)に集結した。
当時、下関にいたイエズス会士ルイス・フロイスの『日本史』と貝原益軒の『黒田家譜 第一巻』(一六七一~一七〇四編纂)を比較して状況を時系列に見てみよう。(『改訂黒田家譜』『日本史』11第六〇章、第六一章)
興味深いのは、黒田官兵衛は敬虔なキリシタンにも関わらず、『黒田家譜』には切支丹の「き」や耶蘇教の「や」も全く記載されていない。元禄元年(一六八八)に完成して光之・綱政に献上したが、改修を命ぜられた。益軒は忠実に書いていたかもしれないが、いずれにしても抹消されたことだろう。むしろ、官兵衛の側にいた「目撃者」フロイスの方が史実を反映していると考える。
フロイスは下関に四、五ヶ月滞在しており、名著『日本史』第一部を完成させている。
「副管区長(コエリョ)師は当(一五)八六年九月一六日に臼杵を出発し、山口の市(まち)から一日半の旅程にある長門国下関に向かった。(中略) 副管区長がかの海峡(関門海峡)に着くと、ちょうど時を同じくして、関白の命令によって毛利麾下(きか)の九カ国のすべての重立った殿や貴人たちが海峡を渡り、薩摩の国主と戦い、敵が本年武力をもって征服した諸国を奪回しようと集結し始めていた。」(『日本史』以下(日))
日本イエズス会副管区長ガスパル・コエリョが旧暦天正十四年(一五八六)八月四日に豊後の臼杵を出て、下関に着いていたことになる。
『黒田家譜』によると、「孝高(官兵衛)を軍奉行として、豊前へ指し下さる。豊前国は上方より九州への渡口なれば也。(中略) 七、八月は海上風波あらき時なれば、陸中を下るべしと仰せ付けられ、七月二十五日京都を立て山陽道にかかり、十餘日を経て豊前の小倉に着。(中略) 吉川駿河守元春、小早川左衛門佐隆景を豊前へ差下さる。此両人は八月十日に芸州を発して豊前へ向かう。輝元は同十六日に居城芸州広島を立て、数日を経て豊前の国門司の関に着陣し」とあるが、官兵衛は八月の十日前後に小倉に着いたことになる。また、元春と隆景は十日に芸州、輝元は十六日に豊前国を目指して広島を出発し、数日後には豊前に到着。しかし、京都からの途中、官兵衛は吉田郡山城(広島県安芸高田市)、山口、下関に寄っていることが、『日本史』により明らかになる。
「それから数日かが経つて、副管区長師は、新しい山口の司祭館の地所を見たり、自分を待っている古くからのキリシタンに会って彼らを慰めようとして、下関から山口に赴いた。その様な折に、関白殿の側近で小寺官兵衛殿と称する貴人が、都地方から陸路来訪した。」(日)
「彼(官兵衛)は国主(毛利)輝元が居住する政庁の所在地吉田の市(まち)に到着する時、ただちに輝元と単刀直入、司祭に与えるべき地所の事で話をし、その交渉を終えて山口に向かった。そして山口の市(まち)において副管区長と面会した。」(日)
「古くからのキリシタン」は、山口で布教の種を撒いたフランシスコ・ザビエルの信徒である。
官兵衛は山口に入る前に、吉田郡山城の毛利輝元と会い、作戦会議や教会について話し合った。そして、コエリョとフロイスは山口で官兵衛と再び会うことになる。『黒田家譜』では、官兵衛は小倉にいる時期である。
同年三月、大阪城にてコエリョとフロイスは秀吉に謁見していた。その時、官兵衛も同席していた。(1586年10月17日付「フロイス書簡」)
天正十三年(一五八五)九月から小早川隆景は伊予国の統治を始めた。鎮継は天正十三年十月に隆景を頼ったとされることから、伊予にいたと考えられる。
フロイスによる記録はないが、山口にいた官兵衛は上関から下関まで海路を利用したのではないか。
鎮継の家臣であった宇佐宮社人庄野半大夫正直を祖とする子孫らの由緒書「庄野先祖之覚 貞享元年記」(一六八四年五月成立)から一部引用する。(『福岡藩士庄野家の由緒』福田千鶴)
「時枝平大夫鎮継と申時枝城之城主、豊後大友宗麟義統之旗下、後ハ中不和故、豊後より十三年攻申由、終不落、内々是を無念ニ存ル折節、如水公中津に御打入ニ付、此由承、御迎ニ上ノ関迄被出、尤、如水公も九州打入、豊前時枝之城主聞及候間、何とそ手ニ入、九州をしつめ度と思召砌、上ノ関ニて始て御目見仕上、則君臣之契約と伝承、」
天正十三年(一五八五)は鎮継が親大友氏の中島統次に時枝城を陥落させられた年である。無念に思っていた時に官兵衛が中津(豊前国)へ入ることを聞き及び、上関まで迎えに行ったとあるが、この時が両者の初見であったという。
鎮継の人生に多大な影響を与える官兵衛との出会いである。
伊予にいた隆景の指示であろう。官兵衛の豊前攻略に重要な情報をもたらすのは鎮継をおいて他にはいない。二人は意気投合したに違いない。
鎮継は官兵衛の戦略に従い豊前に渡り、宇佐郡衆らと折衝したと思われる。
隆景手配の船は、もちろん日本最大の海賊といわれた能島村上水軍であろう。この時、官兵衛とともにコエリョらも同船していたのかも知れない。
村上水軍は司祭らが安全に瀬戸内海を航行するために、家紋の入った旗を提供していた。(1586年10月17日付「フロイス書簡」)
能島村上の拠点であった上関は水軍戦略上、重要な基地であり、官兵衛がそれを知るために利用したともいえる。
「コエリョ師が山口から下関に戻った後数日を経て、国主輝元の叔父小早川(隆景)殿と、その主席家老が下関に到着した。司祭が小早川殿を訪問したい旨を表明する時、官兵衛殿も自ら進んで司祭に同行した。」(日)
ここから、コエリョと官兵衛は隆景の下関到着前に既にいたことになる。
十月十日付の秀吉書状に官兵衛からの「九月二十八日と十月二日の書状」が秀吉の元に届いたのが十日であったとあり、そこには「輝元・元春・隆景が関戸(下関)に到着したら、長野が従ずる意思表示し、山田、廣津、中八屋、時枝、宮成も恭順し、それぞれの城を自由に使用することを申し出ている」とある。(『黒田家文書』『黒田家譜』以下(黒)) そもそも長野氏、宇佐郡衆の時枝、宮成は親毛利氏であった。
時代不詳としながらも「宇都宮衆知行表」(『豊前長野氏史話』)というものが伝わっているが、この頃の城主を知る上で参考になるので引用する。
「馬嶽城 二万石 長野三郎左衛門」「山田城 一万石 山田右近太夫元房」
「広津城 二千石 広津角兵弘種」「隅田城 二千七百石 中八屋藤左衛門宗種」「時枝城 二千石 時枝図書六郎兵衛」
後述するが、敵方となる「香春城 三千九百石 高橋九郎元種」「潤津城(宇留津城) 三千八百石 初、潤津日向守 加来孫兵衛元邦」とある。この石高から二つの城が重要な軍事拠点であったことが分かる。
『豊前志』に「潤津日向守高衡居る、後、加来新外記の子、孫兵衛元邦居る。」とあり、天正七年(一五七九)としている。(『賀来考』賀来秀三) つまり、「知行書」はそれ以降と考えられ、時枝城の時枝図書六郎兵衛は天正十三年(一五八五)の鎮継が芸州に走っていた時の城主(城代)であろうか。
「豊前の国士多く降参しける中にも、馬が岳の城主長野三郎左衛門、時枝の城主時枝平大夫、宇佐の城主宮成吉右衛門など、早々孝高の手に属しける。」(黒)
この三武将は官兵衛と共に豊前において重要な働きをすることになる。
「山口の国主輝元も約三千の兵を率いてそこから一里の所に到着し、ある僧院に投宿した。副管区長コエリョ師は、先に山口で地所を下付されたことで礼を述べに赴いたが、この訪問にあたっては、官兵衛殿が特に司祭に同行した。」(日)
コエリョが官兵衛と共に、輝元を訪ねている。下関から一里とは、長府辺りの毛利家所縁の菩提寺であったのだろう。長福院(功山寺)か。
「この選定された地所(下関)には、上の方に一つ丘があって見晴らしがよく、もっとも好都合だったので、そこに教会を建てることが決まった。だがそのためにますその丘を地均しする必要があった。しかし、町民は異教とばかりであったから、我らにはそうするだけの能力がなかった。時に官兵衛殿は、四日後軍勢を率いて下関を出立せねばならなかったし、軍事の事で準備に多忙を極めていたにもかかわらず、その話が伝わると、彼は己のことを差し置いて、鉄砲隊の指揮官と家来の兵士たちを遣わして丘の地均しをさせた。」(日)
下関の教会建立に関する記述だが、戦争の準備真っ只中に官兵衛がキリシタンの世話をしていることに驚きだが、誇張癖のあるフロイスだけに致し方ない。(巡察使ヴァリニャーノ評『日本史』1) 確かに官兵衛はキリシタン希望者を小倉から下関へ送り、司祭による洗礼を受けさせていた。中にはのちに細川家に仕える能島村上水軍の村上景広もいた。(『日本史』11)
さて、「四日後」だが、起点日が不明である。推測だが、上述の経過から九月二十九日と思われる。
十月十四日付秀吉書状に「右馬頭三日渡海、小倉城取巻に依」(黒)とあり、十月三日に右馬頭輝元が下関から小倉に入ったことが判明している。
「官兵衛殿は、下関から二里距たった所にある小倉という、敵の城を包囲するために同所(下関)を出発した。彼は通常、戦場においては日本人で説教ができる修道士を一、二名手元に留め、」(日)ていた。
この日本人修道士の一人はジョアン・デ ・トーレスである。のちに小倉で司祭グレゴリオ・デ ・セスペデスと共に活動することとなる。
フロイスは下関に留まったが、修道士ジョアンは官兵衛に従った。このことにより、イエズス会士は今後の戦争の状況を知り得ることが可能になった。官兵衛は輝元と共に小倉に入った。