津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■小川研次氏論考「時枝平太夫」(十一)筑前国・(十二)如水の死

2021-03-15 06:56:29 | 小川研次氏論考

十一、筑前国

如水軍は薩摩の島津討伐のために九州を南下したが、徳川家康と島津義久との和議により停戦となり、軍を引き上げた。隠居の身でありながら、ほぼ九州を押さえた如水の戦いは、まさに九州の関ヶ原の戦いであった。

慶長五年(一六〇〇)末、五十二万石の筑前国転封を受けた長政と共に名島へ移る。

「甲斐守(長政)は、豊前と引き換えに、それよりも大なる筑前を拝領した。この領内には、千人以上のキリシタンを数える博多やその付近で同じく多数の信者のいる村々があった。甲斐守の家臣は、その大部分がまたキリシタンであり、自らは備前中納言(宇喜多秀家)の従弟で有徳のドン・ヨハネ明石掃部と、その家臣三百人、ドン・シメオン・フィンデナリ(毛利秀包)の子フランシスコと久留米のキリシタン武士の大部分を家臣に加えた。」(一六〇一年『日本切支丹宗門史』)

大大名となった黒田家は多くの家臣を必要とした。「明石掃部」の「家臣三百人」はかなり誇張されているが、掃部と家臣は一二五〇石を受けている。(『福岡藩分限帳集成』) 秀包(ひでかね)の子フランシスコは元鎮(もとしげ)だが、長州藩に仕えた。

時枝平太夫鎮継は宇佐の時枝城に居たが、黒田家に従することになる。三千石の大身となった。(「慶長分限帳」『福岡藩分限帳集成』)
「慶長年中士中寺社知行書附」にも「三千石 時枝平太夫重起」とある。(『黒田三藩分限帳』)

筑前国転封直前の十二月十日、平太夫は吉田又助と共に築城郡の「築城郡高物成目録」を作成していた。(『戦国期在地社会の研究』外園豊基)(長谷雄文書十四号『大分県史料』10) 
又助は長政が宇都宮鎮房を謀殺する際に、中津城で鎮房に酌をすすめる命を受けていた。父は黒田二十四騎の吉田長利である。

「時枝重明系図」に「是歳、時枝鎮継、黒田家と共に筑前に移る」とあり、「同十五年秀吉公九州御征伐之時黒田家ニ属シ、於所々軍労有之故ニ、同家移筑前ニ時、尚又随従終ニ不帰」(『宇佐神宮史』)とある。「隆令、実宮成大宮司公建宿袮二男也、鎮継移住筑前之後、有故当家相続」とあるが、先述の通り、隆令は鎮継筑前移住前に相続していた。
鎮継は二度と郷里宇佐の地を踏むことはなかった。


十二、如水の死

慶長九年(一六〇四)三月二十日、如水は没した。

『黒田家譜』では、「三月如水福岡にて病に臥せり。(中略) 医療驗(いりょうしるし)なくして終に三月二十日辰の刻に身まかり給う。」そして、「那珂郡十里松の内崇福寺に葬る。」とある。しかし、イエズス会の司祭により、史実が明らかになる。

「シメアン官兵衛殿は都の伏見の政庁で亡くなった。息子に自身の遺体を博多の教会に埋葬するようにと頼み、教会の建築のために一千クルザード以上の喜捨を残した。」(「1603,1604年日本の諸事」『十六・七世紀イエズス会日本報告集』)

キリシタンとして逝った如水の長政への遺言である。そして長政はその通りに実行した。また、父の死後、「この嗣子は別人に変貌し」(同) キリシタンに理解を示したのである。「家来たちは誰でも望む者は、それを信仰してよろしい」(同)
長政は家臣らの信仰を許したのだが、この姿勢は徳川幕府による禁教令が発令される一六一二年まで続くことになる。

伏見の藩邸で没した如水の遺体は博多の司祭館に運ばれ、「葬式は、いとも厳粛に執行はれ、一家全部と共に其席に連なっていた甲斐守(長政)は、心の底から感激した。」(『日本切支丹宗門史』)
この葬式に参加したイエズス会の司祭ガブリエル・デ・マトスが詳細に伝えている。

「彼の遺体が上(京都)から博多に到着した時、いったん我らの所に安置され、そして僅か数日の間に極めて綺麗に装飾の施された龕(がん)、すなわち彼を納めた小さな葬台(棺)が出来上がった。それで四月のある夜の十時と十一時の間、我らは彼を、博多の町の郊外にあったキリシタンの墓地に隣接している松林のやや高い所に埋葬した。葬列の時、彼の嫡男筑前殿(長政)およびその領国の重だった家臣が彼の遺体に付き添い、年寄衆、諸城の城番が龕を担い、彼の弟で真の立派なキリシタンであった惣右衛門(直之)が十字架をかかげ、その一人の息子左平次殿(直基)と町の支配人宗也(徳永宗也)の孫で高木彦左衛門の息子とが松明を持ち、ペロ(ペドロ)・ラモン神父と私はカッパ(祭服)を着て、修道士ニコラオ(永原)と同宿たちはソブレリチェス(短白衣)を着ていた。」(「マトス神父の回想録」『キリシタン研究』第二十四輯)

では、「我らの所」はどこだろう。

筑前国転封後、長政はキリシタンの父如水や叔父黒田直之のために、司祭館の土地を寄進していた。

「(長政は)博多の同じ市内に彼らの居住する修道院と教会を作るためにすこぶる良く、便利な地所を司祭たちに与えた。実際には、司祭たちは都、大阪、長崎以外に住んではならぬ、またキリシタンをこれ以上新たに増やしてはならぬ、と内府様(家康)が禁じていたので、甲斐守は条件を一つつけた。それは、司祭たちは、宗教的な僧院の外観を呈するような教会や修道院を建ててはならず、その市(まち)の名望ある市民の家屋かなにかのようにすること。」(「1601,1602年日本の諸事」『イエズス会日本報告集』)

長政は用心深く、修道院を建てることを条件に許可した。この修道院は司祭らが生活するための司祭館である。
また、如水は「司祭たちのために与えられた地所を没収されないように、蔵(倉庫)と呼ばれる家屋を一棟」(同) 自身の名義にして寄贈している。

しかし、一六〇一年にそこを訪れたマトスによると「彼(ラモン神父)に、浜の近く、かなり不便な狭い地所を与えられた。」(「マトス神父の回想録」) とあり、重要な情報である。

三年後の一六〇四年には「(筑前国)に司祭二名と修道士二名が居住している。そのうちの二人は通常、博多の市(まち)、そこにある修道院と教会にいる。他の二人は秋月に常駐している」(「1603,1604年日本の諸事」)

「秋月」にいた司祭はマトスである。この地にはキリシタン黒田直之の庇護の元に多くのキリシタンが生まれた。さて、この博多の「修道院と教会」が如水の遺体が最初に運ばれた「我らの所」である。

平成十年、奈良屋町の博多小学校建設に伴い、発掘調査が行われた。
キリスト教布教の痕跡としてメダイ二個とメダイとクルス(十字架)を作るための土製鋳型が見つかった。
ここは豪商神屋宗湛の屋敷跡である。秀吉が招かれたという。敷地内に建てた秀吉を祀る豊国神社は今も伝わる。
では、何故、この地にキリシタン遺物があったのだろうか。
一人の人物が浮かぶ。

永禄八年(一五六五)、修道士ルイス・デ・アルメイダが堺の日比屋了珪邸に身を寄せていた時の記述に「その翌日の九時にディオゴ了珪は、私と一人の日本人修道士、さらにもう一人コスメ・コウゼンの許へ使者を寄こしました。このコスメという人は日本で何かにつけ我らのことを世話してくれる、金持で非常に善良なキリシタンであります。」(『完訳フロイス日本史1』) とある。

また、一五八二年のイエズス会総長宛のフロイスの書簡に記されている。

「同領内(秋月)に古きキリシタンが二人あった。一人は父でコスメといい、またその子はジャコべ(ヤコブ)と称した。両人ともコンパニア(イエズス会)の親友で富裕なる商人であるため、殿(秋月種実)は彼らを尊敬していた。」(『イエズス会日本年報(上)』)

「コスメ・コウゼン」は博多の末次興善である。敬虔なキリシタンであり、博多教会の最大のスポンサーであった。のちに次男平蔵政直とともに長崎へ進出し、南蛮貿易で莫大な財産を築き、今に興善町の名を残す。
博多での商いを継いだ長男与三郎広正も洗礼名ヤコブを持つキリシタンであった。この末次家の屋敷は市小路町中番西側にあり、奈良屋町の神屋邸と隣合わせであった。(『博多駅今昔地図』はかた部ランド協議会)

アルメイダが興善と最初に出会ったのは一五六一年と考えられ、豊前から平戸へ布教活動へ行く時に博多に入った。そこには興善の寄進により教会が建てられていた。また、屋敷を宣教師らに提供し宿主となっていた。(『イエズス会日本書翰集 原訳文編之四』) この教会は興善の敷地内と考えられる。

天正十五年(一五八七)、九州平定を果たした豊臣秀吉は焼け野原になった博多の復興を石田三成や官兵衛らに命じた。博多の有力商人らの協力により「太閤町割」が完成する。末次家はこの時に上述の地所を得たのか、以前から在住していたのか不明であるが、「修道院と教会」を設けていたことは容易に想像できる。
この地が如水の遺体が運ばれた「我らの所」と

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■細川小倉藩(516)寛永七年・日帳(九月十四日~十八日)

2021-03-14 08:01:17 | 細川小倉藩

     日帳(寛永七年九月)十四日~十八日

         |                        
         |   十四日  加来二郎兵衛
         |
諸方ヘノ書状覚  |      御飛脚ニ渡候 御書箱ノ覚
         |  一、三斎様へ被進せ候 御書箱壱つ、
         |    (三淵重政)  (成政)
         |  一、長岡右馬助殿・坂崎清左衛門へ遣候 御書箱一つ、
         |    (松井興長) 
         |  一、式ア少殿ゟ、清左衛門への文箱一つ、
         |          (吉田浄元)
         |  一、式ア少殿ゟ、盛方院への文箱一つ、
         |                                    医師。宮内卿・盛方院。吉田浄慶の男。元和七年従二月遺跡を継ぎ、采地五百石知行。寛永元年法眼、のち法印。
                                                                                                          寛永九年三月十七日歿。年五九。母は松井康之の女。
         |  右は牧丞大夫与白木八兵衛・黒部吉兵衛与服部喜右衛門、両人ニ相渡申候也、
         |一、修理方ゟ、仁保太兵衛かたへの状壱つ、右ノ御飛脚ニ渡候也、
備前焼ノ壺ヲ松丸 |一、松之御丸ノ庭ニ御座候備前之かめつぼ一、北の御丸へ御用之由候て、治ア方へ相渡候也、
ノ庭ヨリ北ノ丸へ |
移ス       |                                    
         |一、式ア少殿ゟ、河喜多五郎右衛門・釘本半左衛門方へ被遣候御状、国友武右衛門方ニ言伝遣申候也、
         |                               
大脇差代銀八十匁 |一、臼杵ヨリ御飛脚参候由、式ア殿被仰候、御あつらへ被成候大わきし参候、代銀八十っめ被遣候事、
藤井某母ヲ紀伊ニ |一、藤井権兵衛、紀州国へ御暇申、母見廻ニ罷越、彼地にて煩、相果申儀、弥必定ニて御座候由、申
見廻病死ス    |            (氏久)
         |  来候通、湯浅角兵衛・田中猪兵衛登城にて被申候事、  

         |                        
         |   十五日  奥村少兵衛
         |                          (蕃)八條宮(桂宮)諸大夫
北ノ丸ニテ生嶋秀 |一、けさは、北ノ御丸にて御すき被成候、御客人ハ生嶋玄番也、
成ニ茶ヲ饗ス   |
         |                         
大貞社米貸付帳ヲ |一、大貞社米宇佐郡之御かし付帳・上毛ノかし付帳、両〇人之御郡奉行ニ相渡候也、
郡奉行へ渡ス   |                          〃

         |       (ママ)                        
         |   十六日  
         |
田川ノ宿割奉行ニ |一、田川御宿わり奉行ニ遣候かちの御小性池上加介・原田理右衛門・杉原忠兵衛、
歩小性      |
客人付小性    |一、御各人ニ付遣候かちノ御小性、井門助丞・中山又右衛門、
         |                        (加々山可政)
合羽       |一、かつはのそミ被申御詰衆ノ書付、和慶作ニ渡、但、主馬方ノ使ニ参候也、
逸鷹ヲ居上グ   |一、それ申候御鷹哉らん、すゝ付申候御鷹、ため池ノやなノ所ニ参候を、すへ上申義ニて、谷忠兵衛
鈴板ニ長岡河内ノ |                    (村上景則)
銘アリ      |  与塚本少介すへ参候事、但、すゝいたニ長岡河内と有之也、

         |                        
         |   十七日  奥村少兵衛
         |
羅漢寺ノ坊主物ヲ |一、吉田縫殿被申候ハ、西ノ羅漢寺ニ、中津ゟ坊主一人此中参居候而、少宛ノ物いろ/\ぬすミ、若
盗ミ若松ニ預置ク |  松へ持参候而、預置申候、せんさく仕候処、かの坊主むすミ候ニ相究候、若松へ取ニ参候而、そ
         |  れ/\へ返シ申候、御家老衆へも此段申候処、御奉行衆へも申理、払候へと被申候、かの坊主本
追放セシム    |  国ハ肥前ノものにて御座候由、被申候間、御家老衆其分ニ被仰候上ハ、一段可然候間、払可被申
         |  と申渡候事、
忠利安国寺へ赴ク |一、今朝は、安国寺へ被為成候事、
         |一、木下右衛門様ゟ御飛脚参候、則、 御返書出申候間、持せ遣候事、
大坂ニ売馬三十疋 |一、式ア殿ゟ被仰聞候ハ、内裏町ニうり馬三十疋ほと参候由、申来候間、御馬せめ衆遣し可申候、左
馬乗ヲ遣ス    |  候而、飼料をも渡可申通、被仰聞候間、得其意申通、御返事申候事、

         |                        
         |   十八日  加来二郎兵衛
         |
上方ヨリ刀ノ目利 |一、加々山主馬殿被預置候わきさし、上方ゟ目きゝ参候間、見せ可申候条、弐つ友ニ返し可申ノ由、
来ル 加々山可政 |  状給候間、使堀羽右衛門ニ、慥ニわきさし弐つ渡申候也、
脇差ヲ返ス    |
忠利田川へ赴ク  |一、今日ハ、田川へ被成御座候也、
鷹ノ寄切奉行   |一、御鷹ノよりきり奉行、歩之御小性塩津勘兵衛・森左平次申付候也、

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■小川研次氏論考「時枝平太夫」(九)平太夫改宗・(十)石垣原の戦い

2021-03-14 06:52:38 | 小川研次氏論考

九、平太夫改宗

セスペデスの帰国後の興味深い報告があるが、長崎にいたルイス・フロイスがセスペデスの記録を基に書いたものである。(一五九六年十二月十三日付、長崎発信)

『一五九六年イエズス会日本年報』に「ある司祭が一人の修道士とともに朝鮮に行っていた時、たまたまキリシタンたちを訪れたことがあるが、その際に彼は宇佐宮という領国で主要な神社の祭司職をしていた時枝という名の豊後の高貴な神官に会った。」そして「長い議論をしたが、ついに道理ある効力に負け、朝鮮で真理と完全さを認めて福音の法を納得した。」とある。
「司祭と修道士」はセスペデス神父と日本人修道士レオ・コファンであり、「時枝」は平太夫鎮継である。官兵衛・長政の機張城を訪ねた時に鎮継と出会ったのである。

イエズス会の記録によると官兵衛と共に朝鮮に渡っていた「時枝」は「神官」の身であって武将である。代々、弥勒寺の寺務を司っている時枝家にとってはキリスト教を簡単に受け入れる事は出来なかった。それゆえに、朝鮮では「議論」に負けたが(イエズス会の言い分)、洗練を受けていないのである。確かに藩主官兵衛はキリシタンであるが、信仰に関しては別であった。
さらにフロイスの筆は進む。

「朝鮮でこの人物に説教した同じ修道士が彼の郷里(宇佐)を通過した時、この(神官)は彼に会えたことを非常に喜び、しきりに幾度も懇願して自分は家族全員でキリシタン宗門を受け入れることを考えているので、しばらくそこに滞在するようにと頼んだ。そこで修道士は滞在し、二、三ヶ月足らずでこの者の妻は、他の二十人の人々と一緒に洗礼を授かりキリストの教会に入った。」

修道士レオ・コファンは宇佐の時枝城に二,三ヶ月滞在し時枝一族に洗礼を施したとある。一五九六年のことである。文禄三年(一五九四)に「其の後海辺の處々の城に在し諸大将皆日本に帰りける。」(黒) とあり、鎮継やセスペデス一行もこの年に日本に戻ったと考えられる。洗礼までの二年間に鎮継の気持ちの変化があったのだろうか。やはり、官兵衛の影響が強いと考えられる。当然、修道士滞在も官兵衛の知るところである。

明国との交渉決裂から慶長二年(一五九七)、秀吉は再び朝鮮半島に日本軍を送り込んだ。慶長の役である。しかし、翌年、秀吉の死によって終止符を打つことになる。

尚、セスペデスは一五九九年に官兵衛の招聘により中津に住むことになる。
「中津において、如水の保護でグレゴリオ・デ・セスペデス神父」(「マトス神父の回想録」『キリシタン研究』第二十四輯)
中津教会で平和の鐘の音色が響き渡っていたのも束の間、慶長五年(一六〇〇)に天下の大事件が起こる。関ヶ原の戦いである。


十、石垣原の戦い

慶長五年(一六〇〇)六月十六日、徳川家康は会津の上杉景勝を討つために大阪を発った。黒田長政や細川忠興らも加わった。
この隙に石田三成は毛利輝元を総大将に擁立して挙兵した。
「石田治部少の乱」である。世に言う関ヶ原の戦いである。

長政の母櫛橋光(くしはしてる)と新妻・栄姫は大阪城下の天満屋敷にいた。これは「秀吉公の時より、天下諸大名の妻子を大阪の面々の屋敷人質に置たり」(黒)とあり、三成は敵方大名の妻子を大阪城に人質にすることにより、優位に戦おうとした。
しかし、長政は「我が母上と妻とを、ひそかに恙なく本国に下すべし。」(黒)
と家臣に言いつけていた。この二人の脱出作戦を敢行したのが母利太兵衛(ぼりたへえ・友信)である。商人の姿に変え、二人を俵に包んであたかも商品に見せかけて、なんとか屋敷から出ることができた。
ところが、舟で逃げることにしていたが、川番所の警備もあり厳しい状況であった。
この時、「鉄砲の音夥しく聞こえ、城近く火事出来たるを、彼番所の者たち共見て、急ぎ小舟に乗りて馳行けれは、番所には人々すくなに見えけるか」(黒)
太兵衛は急いで二人の宿所に行き、「只今船に乗せ申さん」と大きな箱に隠し、船に乗せ川番所を無事に通過できたのである。
七月十七日の夜だった。この「城近く火事」は細川忠興邸である。
石田方の人質要請に忠興正室の玉子(ガラシャ)は「我今敵の手にわたり城中に入て諸人に面をさらしなば、大なる恥辱なるべし。又越中守殿(忠興)、家康公への忠義のさわりとも成ぬべし。」(黒)と自害したのである。家臣の小笠原少斎、河喜多(川北)石見らは、屋敷に火をかけ切腹した。
玉子は長男忠隆の新妻(前田利家の娘)や侍女らを逃したばかりでなく、長政の母と妻までも救ったことにもなる。

中津城で隠居していた如水(官兵衛)は三成の乱が確定すると、「九州にある石田か黨類を悉く誅伐すへし」(黒)と兵を集めることにした。
九月九日の出陣に向けて出来るだけ多くの兵を集めるために「金銀多く取出し渡かれける。」その結果、「九千餘人」も集まった。
陣備は一番に母利太兵衛、二番に黒田兵庫助、三番に栗山四郎右衛門、五番に野村市右衛門、六番に母利與三兵衛・時枝平太夫、七番に久野次左衛門・曾我部五右衛門、そして「黒田安大夫」の名がある。(黒)

九月十日夜、細川忠興の飛地領である豊後木付(杵築)の杵築城が大友義統の攻撃目標となった。城代は松井康之・有吉次郎右衛門である。
五、六千人の軍が城を攻めたのである。
この情報を得た如水は杵築城の援軍を出すことにし、「井上九郎右衛門・久野次左衛門・野村市右衛門・後藤左門・時枝平太夫・母利與三兵衛・曾我部五右衛門・池田久郎兵衛・黒田安大夫等」に三千餘人の兵を連れ向かわせた。(黒)
杵築城は攻められ残すところは本丸だけとなったが、黒田援軍が迫ってきたと聞いた義統軍は早々に引き上げ、本陣の立石に戻った。立石は父宗麟の勝戦の地であった。

九月十三日、如水軍は義統を討つために石垣原(別府市)に向かい、両軍は対峙した。この時の先陣を切ったのは時枝平太夫・母利與三兵衛である。
ところが、敵はジリジリと引いていくのである。実はこれは義統軍の罠であった。「釣り野伏せ」である。
「母利・時枝、敵の偽(いつわり)て逃るをバしらずして」(黒) 敵の本陣へ向かったのである。術中にはまった平太夫らは、三方から敵の猛攻にあう。
「母利與三兵衛・時枝平太夫もしばし支えて戦けるが」(黒) 敵将吉弘統幸(むねゆき)が猛兵に押し立てられ攻めてきたので、引いたが、「身方(味方)に討るゝ者多かりけり。時枝平太夫は人数をあつめ、眞丸に成て引けるが、所々にて踏とまり守返し、敵を防きてぞ引退ける。」(黒) 
この時、味方八十人、敵は十騎討たれたとしている。(黒)

二陣の若武者久野次左衛門と曾我部五右衛門も討たれた。
そこで、如水は三陣の井上九郎右衛門・野村市右衛門・後藤左門を投入し、大友軍を敗る。敵将吉弘統幸(むねゆき)や宗像掃部(かもん)も討ち取られた。
九月十五日、大友義統は妹婿である母利太兵衛を通して降伏した。
しかし、九月十九日付「松井康之・有吉立行連署状案」によると、先陣は久野・曽我部・母利(與)・時枝、二陣に井上・野村・後藤又兵衛息となっており、兵力もそれぞれ千名余りとしている。(『松井文庫所蔵古文書調査報告書三』)

のちの黒崎城主となる井上九郎右衛門(之房・ゆきふさ)は二百二十七、野村市右衛門は百八十八もの首級を討ち取った。平太夫は苦戦しながらも十二だったが、感状なしである。(黒)
また「長岡越中守(忠興)家人にハ、魚住右衛門兵衛・中村次郎右衛門といひし者、松井・有吉に属せしが、二人勇勝れたりとて如水より感書を與へらる。」(黒)
とある。ちなみに次郎右衛門はキリシタンであった。(『肥後切支丹史』)
右衛門兵衛も息子の与右衛門がキリシタンであったことから、おそらくキリシタンであったと考えられる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■熊本の桜状況

2021-03-13 15:58:25 | 熊本

               

 熊本の桜の開花は18日、満開は27日ころだという予想が出ています。
今日は昼から散歩がてら自衛隊前の桜を観察して回りましたが、早い物でもこんな具合です。
もっとも、一本だけ樹種が違うのでしょう、もう葉桜になっているものもあります。
上ばかり見て歩いていたら、足元に白いものがみえよく見ると、ひこばえに花を付けていました。

                                      

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■細川小倉藩(515)寛永七年・日帳(九月十一日~十三日)

2021-03-13 08:46:48 | 細川小倉藩

     日帳(寛永七年九月)十一日~十三日

         |                        
         |   十一日  奥村少兵衛
         |
料理用葛ノ花採集 |一、国東御郡奉行小林半左衛門尉被申候ハ、御料理ノ御用ニ成申くすのはなノ儀、御郡中へ申付候へ
不能ノ理由    |                            (次左衛門)
         |  共、時分過候而、はな取出し不申候、八月十日ニ、此地ニ蒲田居被申候ニ被仰付候故、右之通之
         |  由、被申候也、
         |(豊後海部郡)(佐伯、同郡)                  (勝永)
稲葉一通毛利高成 |一、臼杵・さいきニ被遣御飛脚、御返書持帰候、寺尾左介与永松二右衛門・山川惣右衛門与麻生半左
ヨリ返書     |                              (皆川)
飛脚ニ銀子賞与  |  衛門両人ニ、さいきニ而、銀子十匁宛被下候由申候事、御返書ハ治アを以上ル、

         |                        
         |   十二日  加来二郎兵衛
         |
草鹿ヲ射サシム  |一、今日ハ、松ノ丸下にて、御草鹿被成 御射させ候事、
         |
三斎返書     |一、三斎様へ為御使、歩之御小性荒木権左衛門被遣、■関ノノ地蔵ゟ一里此方にて懸 御目、御返書
         |  持来候事、
         |一、右権左衛門乗下候御船頭ハ、野間惣兵衛、
         |(一脱)
腰物奉行へ大坂ヨ |  伊藤武左衛門・田中理左衛門所へ、大坂ゟ差下候御つか巻かわ八枚ノ由ニ而、一箱下ル、
リ柄巻革来ル   |
         |                                  (是次)
小倉包ノ悪銀京ヨ |一、小倉包、悪銀之由にて、弐百目壱包、京ゟ下ル、辻二郎右衛門包也、米田左兵衛・仁保太兵衛ゟ、
リ返送サル    |  粟野・加藤・豊岡弐下ル銀也、則、御船頭野間惣兵衛可渡とて、持かへる也、
         |賄奉行・料理人遣候ハヽ、御六ケ敷可有御座候間、遣シ申間敷旨 御諚にて、遣シ不申候也、
休閑上京ニ賄奉行 |一、明日、休閑様被成御上候、御料理人ハ八蔵と申もの也、御賄人ハ御鉄炮衆二人、上奉行ニ歩之御
料理人ヲ付ケズ  |  小性赤尾茂兵衛申付候也、右分ニ申付候由、申上候ヘハ、賄人奉行・料理人上せ申間敷候、御心
賄料渡切リ    |  易被思召候様ニとノ儀候、御賄を渡切可申旨、被 仰出候也、
         |一、明日、休閑様乗上り御船頭ハ、三木清大夫、ろ数廿四丁、八端帆也、
         |
         |一、木下右衛門様ゟ御飛札参候、則、御返書出申候、歩野御小性中嶋五大夫ニ持せ、吉田縫殿所迄持
         |  せ遣候也、

         |
         |       (ママ)                        
         |   十三日  
         |                                (村上景則)
三斎書状ヲ鷹野ノ |一、三斎様寄り殿様へ被進せ御文箱、明日御小早にてくだり申由にて、長岡■■河内所ゟ持せ、被差
忠利へ上グ    |  越候を、歩之御小性久持作丞ニ而、御鷹野ニ被成御座候處へ上ヶ申候也、
         | (毛利高成)旧姓森氏               (沢村吉重)
毛利高成書状ヲ沢 |一、森摂津守ゟ、御飛脚ニ御文箱参候を、大学所へ御成にて御座候ニ付而、松崎弥兵衛ニ持せ、差上
村吉重邸ニテ上グ |  申候也、
規矩郡奉行平井某 |一、平井五郎兵衛、今朝相果候通、小崎與次兵衛被申候也、
没ス       |
         | (大里、規矩郡)
大里ノ馬市ニ大豆 |一、内裏ノ市にて、方々ゟ参候馬ニ大つ渡候、奉行ニハ歩ノ御小性浅見八兵衛・兵庫与高見吉右衛門
ヲ渡ス      |  也、是ハ御長柄衆壱人付遣也、
鹿肢ヲ佐藤将監ニ |一、鹿肢壱つ、佐藤将監方へ被遣、真野兵右衛門と申者、うけ取ニ参候、渡遣候也、
賜ウ       |
三斎ヨリノ進物大 |一、石松作内、大坂ゟ罷下候、 三斎様ゟ、さけ・わさび・ひしほ被進候を、つミ下候由申候申候也、
         |                                        〃〃
坂ヨリ下ル

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■丹後と熊本弁

2021-03-13 07:25:33 | 徒然

 先に読んだ「中院通勝の研究」に面白い話があった。
       (読後にUPした記事が、一部以前書いたものとの重複が有ったので削除した)

中院通勝は天皇の勅勘(天皇による御咎め)により、天正八年に配流となった。配流先は丹後の舞鶴である。
通勝にとって幸いしたことは、この地の領主が尊敬してやまない細川藤孝(幽齋)であったことだ。
弱冠25歳であった通勝に、藤孝は養女(一色義次女)を娶わせている。その嫡男は藤孝が預かり育てた。
長岡与九郎孝以である。初・中院益丸 享年二十一歳 室は細川忠興妹千。男子があり、丸山左京進一信(孝方)、孫の代に至り嵯峨氏を名乗り、細川家に仕え明治に至った。

中院家を継いだのは二男の通村である。
天正16年(1588)に生まれているが、父通勝の配流は19年に及んだが、免勘になる慶長四年(1599)まで、配流先の丹後で育った。
京都の地に帰ったのは、通勝44歳、通村12歳である。面白い話というのは、通村の話し言葉が「丹後弁」であったということだ。
京言葉が話せぬ通村は、公家衆の間で評判を呼んだことであろう。

その丹後弁が小倉・熊本にももたらされ、熊本弁の素地になっているのではないかと思うのだが如何だろうか。
又、三斎の死後松井家が入った八代の地は、熊本市とは明らかに異なる八代弁が存在する。
これとても松井氏の本貫地丹後峰山あたりの言葉が入っているのではないかと思ったりする。

他国から入った侍たちのそれぞれの出自から、熊本の地はまさに異なる言葉がるつぼの中で沸騰していたことであろう。
それも収れんされて肥後弁となり、江戸弁にこだわる薩摩藩とは異なり、細川家の江戸屋敷、そしてのちの侯爵家においては、熊本弁が通常に使われていたと細川護貞様の御著にあった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■細川小倉藩(514)寛永七年・日帳(九月六日~十日)

2021-03-12 11:27:17 | 細川小倉藩

     日帳(寛永七年九月)六日~十日

         |                        
         |   六日  加来二郎兵衛
         |
鍋島使者山村某ハ |一、なへしま殿ゟ御使者、山村喜兵衛と申仁也、御小袖弐つ被遣候也、但、九日之御祝儀ニ被参候也、
重陽之祝儀ニ来ル |
寛永五年六年惣銀 |一、嘉永五年之御惣銀ノ 御袖判弐枚、同六年ノ 御袖判弐枚、中神與兵衛被請返ニ付、 御前へ被
ノ袖判ノ判を消ス |       〃
家老ノ判ヲ消サシ |  差上候処、 御判御けし被成、御出候を、則、中神與兵衛ニ相渡申候、御家老衆御判を御けし候
ム        |  様ニ可被仕通、申渡候事
諸方ヘノ書状覚  |一、三斎様へ被進 御書箱壱つ、
         |  (烏丸光賢室、三斎女)
         |一、御万様へ之御文箱壱つ、
         |   (康勝)
         |一、伊丹播磨様へ 御書箱壱つ、
         |一、松屋九郎兵衛所へ、飯田才兵衛ゟ之状壱通、内ニ 御書有之由也、
         |   (成政)
         |一、坂崎清左衛門所へ、飯田才兵衛ゟノ状壱通、御用ノ儀申遣由也、
         |一、竹村弥右衛門所ゟ、野村少左衛門と申仁ニ状壱通、是ハ小野九郎右衛門ニ渡候ヘハ埒明申也、
         |一、我等共ゟ、寺嶋主水所へ之状壱通、
         |  右之前、北崎弥三右衛門ニ相渡、明日可申上候也、

         |                        
         |   七日  奥村少兵衛
         |
         |一、田川ゟ、松茸三拾弐本参候、則、 御前へ上申候事、
         |  (直正)
         |一、寺本与之江口太兵衛・友田二郎兵衛与梶原久丞、両人八月十日ニ江戸へ被遣候、 三斎様へ
         |        (相模足柄郡)   八月廿二日ニ
三斎へ小田原ニテ |  御状被進候、小田原■にて懸 御目、御書を上ヶ、御返事取、下申由にて、江口太兵衛罷下候也、
状ヲ上グ     |  梶原久丞ハ江戸へ通り申候也、
初見ヲ願ウ男子ノ |一、御目見へ仕度と申上子共ノ覚
書付ヲ上グ    |
         |  歳九つ        十一      十五       十六       十九       十三
         |   田辺つちの介  寺井藤蔵  金津十二郎  沢村権十郎  金子久四郎  ふわ大介
         |  廿一       左兵衛子 廿  十二    十六    仁右衛門子八つ    吉兵衛子歳十一
         |   早川久大夫  加藤少太夫・権介  山田市ノ介  平野甚九郎  岡伝蔵
         |  右ノ分、書付上候也、
         |                             (林隠岐)
後藤又市郎伜へは |一、後藤又市郎せかれニ被遣候一帋、幷はつしノ目相尋候様ニと、おき所ゟ申越候弐付、尋遣候処、一
つしノ目ヲ尋ヌ  |  歩三拾粒はつし、金三十四両三分被下候由、書付参候事、  

         |                        
         |   八日  加来二郎兵衛
         |
         |       (長氏)
忠利平野長氏邸ニ |一、今朝ハ、平野九郎右衛門尉所へ被成 御成候事、
臨ム       |
         |  (築城郡)   繕
椎田茶屋修繕奉行 |一、椎田御ちや屋〇奉行ニ、岩崎角丞・福田甚大夫申付候也、
任命       |
絵画奉行任命   |一、ゑかき奉行ニ、寺川源太郎・鯛瀬九郎太郎、両人被仰付候、
         |一、金子文三郎かわりニ、弓削與二右衛門申付候事、
         |  (伊勢桑名郡)
         |一、桑名へ御使ニ被遣候御鉄炮衆、伊藤金左衛門与藤本少介・芦田與兵衛組二右衛門、
         |一、湯浅三大夫煩ニ而、九日之御礼ニ不罷出候由、加来兵衛方被申候也、
後藤又市郎母没ス |一、星野少介被申候ハ、辛川忠介頼被申候ハ、後藤又市郎母儀、被相果候、忠介為ニハおばにて御
伯母ノ服忌ニ欠礼 |  座候ニ付、いミ御座候、就夫、明九日ノ御礼ニ不罷出候間、此段申上くれ候へと、被申候也、
病気欠礼     |一、平野治ア左衛門煩にて、今度之御礼ニ不罷出候由、加藤左兵衛を以、被申聞候事、

         |                        
         |   九日  奥村少兵衛
         |
上リ弓ヲ天守道具 |一、森禎勇弓弐張、御奉行所に上り御座候を、皆川治アゟ、御掃除坊主ノ長円取弐参候間、相渡申
奉行へ渡ス    |  候也、
         |                                 (加藤)
御印帳根合ニ知行 |一、前かとゟノ御印帳六冊、有次第根合ノため、松丸就へ渡置候也、但、新兵衛ニ渡候也、
方奉行へ渡ス   |
         |十日    (池田忠雄)
池田忠雄ヘノ使者 |一、備前之宰相様へ、歩之御小性尾藤勘丞御使者ニ被遣候処、彼地にて、御道服壱つ拝領仕通申候被
小袖ヲ賞与サル  |  申候、今日被罷帰候事、      

         |                        
         |   十日  加来二郎兵衛
         |
祇園社神事能ニ臨 |一、今日は、祇園御神事之御能御座候、 殿様も自未明、祇園へ被成 御座候事、
ム        |

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■小川研次氏論考「時枝平太夫」(六)中島誅伐・(七)秀吉の野望・(八)キリシタン官兵衛

2021-03-12 06:17:47 | 小川研次氏論考

六、中島誅伐

小野精一著『大宇佐郡史論』から中島誅伐に関する記述を一部紹介しよう。

天正十三年(一五八五)十月二日、宿敵中島統次(むねよし)により時枝城を陥落され、芸州に逃れた鎮継は再び統次と戦うこととなる。
時は天正十七年(一五八九)三月一日である。
しかし、今回は黒田長政を将に三千騎という大軍と共に高家城(たけいじょう・宇佐市東高家字堀添)を目指した。
先鋒を任された鎮継は鬨を揚げて正門を攻めたが、突然、門が開き中島勢百四十騎が躍り出た。しかし、中島勢の敗色は明らかであった。
統次は最後の一戦に馬を陣頭に突撃しようとしたところに、恒吉縫殿助が抱きとめ「ひとまず豊後に落ち、大友家に頼み給え、殊に臼野の松尾民部は外戚なれば、彼に暫く身を隠し、重ねて本望を達せられよ」と諫められ、向野谷に逃げ落ちた。
外戚の松尾氏を頼ったが、黒田に内通され、黒田勢三百騎に囲まれた。統次はついに自刃する。

長政の次の標的は小倉(おぐら)城主渡邊統政(むねまさ)である。
しかし、統政は和睦を申し出た。その後、長政は時枝城に入り、人馬を休め、兵に酒などを振舞った。
それから間もなく、土岐忠秀、赤尾孫三郎など宇佐郡の国士らが長政の軍門に降った。最後は敷田の萩原親時だったが、同じく降った。
このように宇佐郡衆との政治的交渉を時枝城で行われていたことから、鎮継が明らかに群衆のリーダーであった。


七、秀吉の野望

天正十九年(一五九一)、秀吉は「日本国は既に悉く掌に入ぬ。この上は秀次に日本を渡し、大明国に入て四百州の王になるへし」(黒) と近臣らに告げ、まず朝鮮へ軍を送り込むことにした。文禄の役である。
天正二十年 (一五九二)三月一日、朝鮮へ渡る軍の次第が定められた。
黒田甲斐守(長政)は三番隊で総数五千人の軍である。その陣備に「二の先 百二人 時枝平太夫」の段がある。また同じ備に「二百五十五人 後藤又兵衛」も並ぶ。平太夫鎮継は又兵衛と共に備頭に任じられていた。

もう一人、同じ備頭に「四十人 黒田安太夫」の名があるが、黒田吉右衛門(宮成公基)の第三子(号黒田蔵人)とされる。(『宇佐神宮史』史料篇 巻十四)
この安太夫は朝鮮にて武勇伝を残す。

「黒田安大夫は唐人の矢にあたり、股を馬の太腹に射付られるが、其矢をもぬかず、即当の敵に馳かかり、太刀を以てかぶとの鉢を日本人のさかやき(月代)のなりのごとく横さまに切はなしければ、敵は其まま馬より落て死にけり。名誉の利剣なりける。長政より其戦功を賞して馬を賜りける。此安大夫は豊前宇佐の城主宮成吉右衛門が嫡子なり。」(黒)

安太夫(蔵人)は、のちに黒田家に千石にて仕えるが、福島家、細川家と争奪戦の的となる。元和六年(一六二〇)に細川家に召抱えられることになる。(『綿考輯録』巻二十)

四月に長政は総数十五万八八○○人の軍勢と共に渡海した。


八、キリシタン官兵衛

文禄二年(一五九三)、一番隊隊長のキリシタン大名小西行長の招きにより、イエズス会士の司祭グレゴリオ・デ・セスペデスが朝鮮に渡った。
天正十五年(一五八七)に秀吉による伴天連追放令が発令されており、非常に危険だが、行長の強い要望に応えた。朝鮮半島に上陸した最初の西洋人宣教師となる。
セスペデスの書簡に「聖人暦の聖フアンの日」とあり、一五九三年十二月二十七日に対馬から朝鮮に渡ったと考えられる。(『グレゴリオ・デ・セスペデス』朴哲)

セスペデスは大阪教会で細川忠興の正室玉子と会った唯一の司祭であり、洗礼を指導した霊的指導者であった。慶長五年(一六〇〇)に豊前国に入封した忠興の元でガラシャのミサを挙行した。

さて、セスペデスは行長の熊川倭城(こもかい)に日本人修道士レオ・コファンと滞在していたが、官兵衛と長政の強い要請により機張城(くちゃん)に向かった。十五日間の滞在の際に彼らや家臣らに説教したり、告白を受けたりし、また家臣らに洗礼を施した。
敬虔なキリシタン官兵衛は後日、再び修道士を呼んだ程であった。

イエズス会ローマ文書館に所存されている未発表史料であるセスペデスの書簡の一部を長文になるが、キリシタン官兵衛を知る貴重な記録なので紹介する。
文禄三年(一五九四)の夏と推定される。熊川倭城にて書かれた日本準管区長ペドロ・ゴメス宛の書簡である。(『グレゴリオ・デ・セスペデス』)

「私は高麗国の主たる国境付近の一つを担っている黒田官兵衛殿シモンとその息子の甲斐守(長政)のことを知りました。私は熊川倭城にいたので、この者たちは付き人を私のもとに送りました。彼らは自分たちの城塞に来てほしいと強く願い、船を寄こしました。ですから、私と修道士はこの者たちの城塞に行き、十五日間そこに留まりました。私と修道士は黒田官兵衛殿シモンの邸宅にいました。息子は別の邸宅にいました。この者たちは毎日一、二回公教要理の説教を聞きたいと願いました。キリスト教徒の者もいれば、異教徒の者もいましたが、有力な武将や従者たちも彼らとともにいました。黒田官兵衛殿シモンとその息子、そのほかにもその場にいたキリスト教徒たちが私に告白し、すべての者たちが大いに救われました。そして、まだ異教徒であった武将や従者たちも、すべての者が洗礼を授かりました。したがって、現在ではこの地の指導者たちとその家族はすべてがキリスト教徒です。関白殿に抱いていた恐怖心と畏敬の念からではありませんが、私がこの地にいることを隠しておくことが良いことだと思われました。信頼のおける人々のおかげで、私の存在は関白殿に知られることはなく、この地で多くの人々に洗礼を授けることができました。
その姿勢は素晴らしいものでした。黒田官兵衛殿シモンは主への奉仕を喜びとともに行い、救済への強い願いとともに神のご加護を求めるために毎日いくらかの時間を費やす姿をすべての者たちに見せました。信仰に関する書物を読み、祈ることを決めた黒田官兵衛殿シモンはそれを堅く守り、従者たちにも同じことを命じました。祈りの時間に黒田官兵衛殿シモンの邪魔をする様な者は一人もいませんでした。時々、黒田官兵衛殿シモンは書物を外に持って行きました。書物を持って出かけることは、このようなことを決断したときを思い出すためだと黒田官兵衛殿シモンは言いました。数週間が過ぎ、黒田官兵衛殿シモンは再びその修道士を呼び出しました。黒田官兵衛殿シモンはこの修道士をもう数日間自分のところに滞在させ、修道士の説教を聞いたり、個人の良心に対する懐疑心や神に感謝を述べる行為について修道士に尋ねたりするためでした。(中略)
私たちが布教活動を行わないなら、日本に留まることができると官兵衛殿が何度も言いました。」

一五九四年は日本は中国側と和平交渉に画策している時である。休戦期にセスペデスは積極的に活動していた。
文禄三年(一五九四)の『黒田家譜』に「朝鮮在陣の日本勢の内、諸城警衛の兵の外は、悉く日本に帰りしが、長政は機張の城を守り居給へば、当春は猶帰国し給わず。大明と和議調いて後、敵も皆退散せしかは、軍はなくて異国に逗留し給う。」とあり、官兵衛父子は機張城に滞在していた。

書簡の内容から敬虔なキリシタン官兵衛を見ることができる。
時枝平太夫鎮継はこの官兵衛の姿を見ていたが、宇佐宮弥勒寺の僧官家である鎮継は容易に受け入れることはできなかったとみられる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■オワコン論

2021-03-11 15:27:32 | 徒然

 オワコンという言葉、「終わったコンテンツ」の略語だそうだが、或る人が「古文・漢文」についてのオワコン論を言い出していろいろ議論が沸騰している。
「古文」[「漢文」が俎上に挙がってしまったようだが、時代に合わないからやめっちまえというのは些か乱暴に思える。
只、世に出たら役に立たないといわれると、そうかもしれないとも思ってしまう。
古文・漢文等知らずとも世の中では生きていける。
かくいう私は工学系人間だから、古文・漢文は大いに苦手であった。
今でこそ古文書にどっぷりはまり込んでしまったが、なにせ独学だから基本がわかっていない。
古文・漢文にもう少し興味を持っていれば、随分違ったことだろうと思ってしまう。
NHKとかユーキャンなどで古文書講座をやっているが、やはり対面でいろいろ講義をうけ勉強したいと思い、地元新聞社が行っている「生涯学習プラザ」に参加しようかと思ったりしている。
興味がわけば独学でもなんとか行けるという感覚が私にはある。しかし大学とか専門機関での研究者となるためには、相当な勉強が必要だし、オワコンだとかたずけられてしまうと、興味を以て専門の道へ進んでみようかと思う人の芽をつまんでしまうことにもなりかねない。人材不足に陥ることは目に見えている。

彼がいうオワコンは、長い歴史の中で日本人の生活を豊かに彩ってきた。まさに日本の文化そのものだが、例えば大学に入試にこのために労力を消費せずに、別の形もあるのではないかという議論も判らないでもない。
なんだか深い教育論なのかもしれない。全国諸兄の議論を注目していたい。

そして知らず知らずのうちに「オワコン」入りしつつある日本の文化を見つめ直し、大切にしていかなければならない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■細川小倉藩(513)寛永七年・日帳(九月四日~五日)

2021-03-11 06:22:53 | 細川小倉藩

     日帳(寛永七年九月)四日~五日

         |                        
         |   四日  加来二郎兵衛
         |
岩石ヨリ松茸   |一、岩石ゟ、松茸三十三本弐籠ニ入、次夫にて持来ル、
借米奉行死ス   |一、安井長左衛門尉、去月廿鉢日之夜病死仕候、当御借米奉行ニ而候つる処、右之分ニ候間、かわり
         |  の仁申付候へと、御郡奉行衆ゟ申来候事、
京ヘノ音信覚   |一、   差上せ申物数之事
忠利判紙五枚   |  一、坂崎清左衛門へ被遣 御判帋五枚壱包、
         |  一、同人へ、飯田才兵衛ゟ之状壱通、
         |  一、同人へ、我等共ゟノ状一通、
津田秀政宛    |  一、津田與庵様への 御書壱通、
         |  一、佐藤少左衛門方へ、我等共ゟ状一つ、
         |  一、同人・小野九右衛門へ、我等共丞壱つ、
         |         (可政)
         |  一、同人へ、加々山主馬ゟノ状一つ、
縮緬       |  一、ちりめん弐包、
忠利袖判紙    |  一、中神與兵衛ゟ、京衆へ上せ被申 御袖判之入候文箱壱つ、
         |     (築)
         |  一、筑山兵庫方へ、我等共ゟノ状一通、
         |  外ニ貴殿ヘノ状二通、
         |    九月四日
         |         (主水)
         |         寺島殿              修り
         |                          兵庫
入日記      |  右之分ニ、入日記書入候也、
         |                         (杢)
         |一、金守杢左衛門尉弟甚太郎事、口ニ詰させ候へと、金左衛門ニ御直ニ被 仰候由、杢左衛門被申候
         |  也、                                                                         〃
         |             (蒸堅魚) (塩堅魚)     (橙糕)
長崎ヨリ上ル品々 |一、長崎ゟ御小早上り申候、むしかつほ・しほかつほ・南蛮柿・かせいたのつけ物、此分つミ上り申
         |  候事、

         |                        
         |   五日  奥村少兵衛
         |
紫幕ノ奉行    |一、紫幕色上ノ奉行ニ。、横田権佐与矢野伝介・八屋久兵衛両人ニ申付候也、
         |   (友好)
松井友好家修繕ニ |一、松井宇右衛門尉家ノ繕ニ被成御借候弐貫め銀、松ノ丸衆惣談ノ上、上方ノ利足並に相究、主馬・
借銀ノ利足ヲ上方 |  我々両人加判弐而、松ノ丸へ切帋遣候也、
並トス      |
         |     (蒲生、規矩郡)
忠利蒲生ノ簗ニ遊 |一、今日ハ鴨生ノやなへ被成御座候事、
ブ        |
落鮎三千匹    |一、かもうのやなニ、あゆ三千ほとおち申候也、
         |      (鍋嶋勝茂)     御
鍋嶋勝茂使者へ肴 |
一、なへしま様ゟ之使者御座候處、町中ニ肴無之由、申来ニ付、御台所へ申遣、うなき三拾・あゆ十
ヲ調達ス     |  五・なまつ壱つ・塩かい五はい遣候也、
隼城野ニテ逸ル  |一、横井弥次右衛門尉預之御隼、今日城野にてそれ申候間、明日歩之御小性・御昇衆なと遣、尋させ
探索ニ歩小性等ヲ |        (正慶)                                    (太)
出サシム     |  可申候旨、加々山権左衛門尉を以、被 仰出候ニ付、歩之御頭衆・御のほりノ小頭大郎右衛門ニ
         |  かたく申付、遣候也、
鍋嶋勝茂使者ニ対 |一、鍋嶋殿使者ニ、今夜被成御対面候也、
面ス       |

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■小川研次氏論考「時枝平太夫」(四)九州仕置 (五)城井誅伐

2021-03-10 16:34:40 | 小川研次氏論考

四、九州仕置

秀吉は天正十五年(一五八七)三月に大軍と共に九州に上陸し、南下していく、ついに四月、薩摩に入った秀吉の軍門に島津義久は降る。
同年七月三日、秀吉は小倉城にて九州仕置をし、官兵衛は豊前国「京都(みやこ)・築城・中津(仲津)・上毛(こうげ)・下毛・宇佐」(黒)の六郡を拝領した。また、同日の知行宛行状に興味深いものがある。

「今度、御恩地として、豊前国京都・築城・上毛・下毛・中津・宇佐内に於いて、検地の上を以て千石の事、宛行われ畢(おわんぬ)。全く領知致し、黒田勘解由に与力せしめ、自今以後、忠勤抽んずべく候也。天正十五年七月三日 (秀吉朱印)
時枝武蔵守とのへ」(北九州市立自然史・歴史博物館蔵)

秀吉は武蔵守(鎮継)を官兵衛の家臣としてではなく、与力として迎えた。
地侍の懐柔策とも取れるが、鎮継は先述の通り天正十三年(一五八五)に時枝城を捨て小早川隆景の元へ敗走していた。しかし、鎮継の武将としての力量や地侍へのリーダーシップを見込んでの知行割当であったとみる。
何よりも鎮継と官兵衛との強い絆を感じる。
ちなみに長野三郎左衛門は小早川隆景の与力として筑後国へ移った。(『豊前長野氏史話』)
しかし、豊前国では反豊臣の煙が燻っていた。そしてこの時こそ、鎮継の本領が発揮されることとなる。


五、城井誅伐

『黒田家譜巻之五』は「天正十五年(一五八七)の秋、豊前入国以後の事をしるす」とあり、官兵衛は豊前入国し、「時枝の城にて、領地の仕置を沙汰し、三カ条の制法を出し給ふ。」とある。主人親夫に背く者や殺人・窃盗などに対して厳罰に行うとしている。
歴史学者の小和田哲男氏は「三カ条の定は、如水が時枝城から出したといわれるのも、このころの如水と時枝武蔵守の関係をうかがう上において興味深い。」『黒田如水』)としている。

さて、豊前萱切城(かやきりじょう)城主宇都宮鎮房(城井しげふさ)に対して、秀吉は伊予国への転封を命令した。しかし、鎮房はこの知行宛行状を返上したのだ。
先祖伝来の仲津郡城井(築上郡築上町)を離れることができなかったのである。
折しも肥後国で一揆が起き、官兵衛は鎮圧のために赴いたところに、肥前や豊前で一揆が蜂起されたのである。
「然る処に、豊前の国士等所々に兵を起し、各城に立籠るよし、」(黒)
十月一日、馬ヶ岳城にいた長政に一報が届いた。

「其外豊前の国士、時枝の城主時枝平大夫、 其弟宇佐の城主宮成吉右衛門、廣津の城主廣津治部大輔等は、孝高豊前を領し給ふ時、はやく出て旗下に属し馳走しける。」(黒)

平太夫鎮継と「弟」の宮成吉右衛門とあるが、「弟」ではない。先述したが、宇佐宮大宮司宮成公建の次子隆令(たかよし)の子である。隆令が時枝家を相続したところから、混乱したのだろう。また、「孝高(官兵衛)豊前を領し給ふ」以前に既に麾下していた。早速、豊前国士三人衆は長政のもとへ駆けつけたのである。

さて、長政は側近の反対を押し切り、二千余の兵と共に宇都宮誅伐へ城井を目指すことになるが、敗北を喫する。黒田軍唯一の黒星となった岩丸山の戦いである。二十歳の長政は「先手敗軍せし事遺恨至極なり。引返して勝負を決すべし」(黒)と敵軍へ向かっていくところに、黒田三左衛門(一成)が必死に馬を止め、「犬死でござるぞ」と諫めた。三左衛門は官兵衛の恩人加藤重徳の次男であり、官兵衛の養子となっていた。

官兵衛実弟の兵庫助(利高)が居城高盛への帰路で「然るに宇佐郡の一揆、又豊後境の一揆とひとつになり、宮成吉右衛門か居たりし宇佐の城をせむる由」(黒)と聞き、宇佐城に馬を走らせた。
「時枝の城よりも、時枝平大夫出て、宇佐の城へ馳向ひ、兵庫と同じく後攻して、散々にたたかいひけるが、」(黒) 敵方は討たれ、残兵は逃げていった。
一方、長政は特に時枝城には兵を送り込んで固めていた。
宇佐郡の国士らの警戒から、黒田兵庫助と母里太兵衛に担当させ、兵庫助は人物だったとみえ、「宇佐の神主宮成吉右衛門も兵庫助におもひ付て、いよいよ忠を励しける。」(黒)とある。又、「彼郡の者共、多くは宇佐八幡の社人なれは、宮成か下知を背かず。かくありし故、宇佐には其の後、乱を起す者なく静謐になりぬ。長政、宮成がはやく降参し、宇佐の城をよく持ちこたへ忠節有しを感じて、黒田の姓をさづけ、家禄を與え給ふ。」(黒) 
こうして宇佐宮大宮司だった宮成吉右衛門は黒田吉右衛門政本となる。
また、時代が下るが、慶長元年(一五九六)に如水(官兵衛)の意見により、吉右衛門の息女と到津公兼の子豊寿が結ばれて、豊寿は大宮司宮成公尚(きみひさ)となる。これは吉右衛門の長子で大宮司だった松千代丸の早世による。(「宮成文書」『宇佐神宮史』)
慶長五年(一六〇〇)、黒田家は筑前国へ転封するが、「慶長分限帳」(『福岡藩分限帳集成』)に「黒田吉右衛門政本」の名がないが、後述する第三子の「千石 黒田安太夫」『黒田三藩分限帳』)、「寛文分限帳」(一六六一〜七三)に「千百石 黒田吉右衛門政仲」とある。

やがて、宇佐群衆一揆は鎮圧され、城井谷の宇都宮鎮房もついに観念し、和睦を申し出た。
しかし、翌年天正十六年(一五八八)に、長政は鎮房を中津城での宴席に招き、謀殺した。家臣らは寺町の合元寺(中津市寺町九七三番)に籠ったが、黒田勢から皆殺しされ、その血が門前の壁を赤く染めた。何度も塗り替えたが血が滲み出るので、赤塗りにしたという伝承が伝わる。


別名赤壁寺といわれる合元寺

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■細川小倉藩(512)寛永七年・日帳(九月朔日~三日)

2021-03-10 09:44:53 | 細川小倉藩

     日帳(寛永七年九月)朔日~三日

         |                        
         |   朔日  奥村少兵衛
         |
         |                                       (沢村吉重)
         |一、長崎ゟ、此比参候御昇衆善右衛門以、今日長崎へもとし申候、我等共ゟノ状一つ、大学殿ゟノ状
         |      (三淵重政)
         |  壱つ、右馬助殿ゟノ状壱つ持せ遣候也、
         |                                         (相模鎌倉郡)
三斎ノ飛脚    |一、三斎様ゟ、御飛脚弐人参候、江戸を廿一日ニ、 三斎様御供仕、罷立、同日戌ノ上刻ニ、戸塚ゟ
         |  御先へ罷上、廿五日ノ刁ノ刻ニ、大坂へ着申候也、
         |   (辰珍)
         |一、津川四郎右衛門尉殿へ、小野九右衛門尉所ゟ下候かミ袋壱つ、四郎右衛門殿へ直ニ相渡候事、
         |                                (田中氏次)
忠利印籠     |一、式ア殿奉にて、上方ゟ下候御印籠を、つゝミ之侭、竹原少太夫ニ、兵庫渡候事、
         |
請取       |一、坂崎清左衛門殿ゟ、清田七介所へ被遣しふかミ包壱つ、慥請取申候、
         |                         清田七介内
         |                           三木四郎三郎(花押)
請取       |一、小野九郎右衛門殿ゟ、谷忠兵衛所へ被指下候かミ袋壱つ、慥請取申候、
         |                         忠兵衛内
         |                           丸野七左衛門(花押)
忠利溜池ノ簗ニ遊 |一、ためいけのやなへ被成御座、井出を御おとされなされ候也、
ブ        |
         |一、京都九右衛門所ゟ、大塚長庵所へ参候かミふくろ壱つ、御掃除坊主ノ休清を以、相渡申候事、
三淵重政出船   |一、今晩、長岡右馬助殿御出船候也、   

         |                        
         |   二日  奥村少兵衛
         |
         |  (田川郡)
岩石ヨリ松茸   |一、岩石ゟ、松茸七本参候事、
宇佐ヨリ占地茸  |一、う佐郡ゟ、しめちたけ参候事、          (元明)
舞茸上ル     |一、昨日、坂本仁兵衛ゟ、まふたけ壱籠差上被申候由、住江甚兵衛被申候事、
         |一、藤北九右衛門・藤掛蔵人殿へ参候しふかミつゝミ壱つ、相渡申候也、
請取       |               右請取申候、  蔵人内 ほき伝右衛門〇(黒印)
         |一、長崎ニて、半藤上右衛門尉・安井太右衛門尉方へ被遣御状壱通、幷右両人之造佐銀之由ニ而、壱
         |  包苻之まゝ請取申候、長崎へ御舟ニのり罷下候御船頭吉田理兵衛・三宅清助、此両人ニ慥ニ相渡
請取       |  可申所如件                小早ノ御船頭 
         |                           河村喜左衛門尉(花押)
         |一、又、式ア殿ゟ長崎へ之文箱壱つ、又、半藤一兵衛方ゟ上右衛門方へ参刀壱腰、右同前ニ請取申候、
         |  右ノ清助・理兵衛ニ相渡加申候、          河村喜左衛門尉(花押)
御借米ニ請人貸ノ |一、御家中への御借米ニ、請人かしと申儀、堅仕間敷候由、右ニ被仰出候へ共、今朝加藤新兵衛・粟
禁ヲ解ク     |  野伝介・豊岡甚丞ニ被 仰出候ハ、請人かしも不苦之由、右三人へ被仰付候通、三人衆被申候事、
         |                (忠泰)  (利政)                       (宇)(友好)                 
豊後府内幕府目付 |一、豊後ゟ、原久助被罷戻候事、赤井豊後様・斎藤左源太様ゟ之御返事二通、久助持帰ル、松井う宇
ヨリノ返書    |  衛門当番ゆへ、被上候へと申候而、二郎兵衛ニ持せ上候へ共、う右衛門未上り不被申ニ付、御番
         |  ノ下村五兵衛・高田十兵衛ニ具申渡置候、う右衛門被上次第、此通具ニ可被申届由申候、爰元
         |  
忠利小袖ヲ贈ル  |  別苻迄ハ歩之御小性原久介御小袖持参仕り、宇野七右衛門御使者ニ参候、御口上有之ハ、書付可
         |  被申上由、七右衛門所へ申遣候ヘハ、節々御音信忝可被思召由迄ニ候由申候事、
長崎ヨリ唐木綿  |一、長崎ゟ、唐木綿弐たん幷鉢壱つ、御飛脚ノかへりニ差上せ候、則、上申候也、        

         |                        
         |   三日  奥村少兵衛
         |
忠利北ノ丸ニ早朝 |一、早朝ゟ、北ノ御丸ニ被成御座候事、
ヨリアリ     |

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■紙面の中のミステリー

2021-03-10 06:57:25 | 徒然

 東京で御軸やお茶に関する御道具などの御商売をされているF様から、毎月その御品のカタログが送られてくる。
切っ掛けは、細川家関係の御軸の内容についてお問い合わせをいただいたのが、最初のように思う。
もう5~6年以上という長いお付き合いになった。
今月もお送りいただいたが、16点の御品の中に細川三齋に関するものが二つあった。
一つは「茶会記」、もう一つは「音信に対する礼状」である。それぞれが興味深いものだが、後者などはよくよく紙面の内容を検討すると誠にミステリアスである
(写真のご紹介は控える)

■茶会記  正客・阿野大納言殿 連客・萩原兼従・下坊(愛宕山福寿院)・松□□ 御詰・休無(細川忠隆
      御道具付 墨跡ー金渡・花入ーはたソり・水さしーいも頭・茶入ー山の井・茶碗ーもんこうらいはちひらき
           茶杓ー利休・水下ーめんつ

  十二日・十三日の連日茶会が開かれているが、これは十三日のもの、御客は親族や親しい人が連なっている。
  道具付にある「山の井(肩衝)」は小説「小壺狩り」でも知られ、後には大名物になった名品だが、これは松井康之
  が所蔵していたもので、その死(慶長17年1月22日)に際し、遺言で忠興に献上したものである。
  その他、名品が目白押しの茶事である。)判読不明の「松□□」は松井家関係者か?(松屋久重は考えすぎか?)

■音信に対する礼状 これは松井采女の祝言に当り、牧平左衛門がお祝いの品を上げたことに対する、三斎の礼状である。

             以上
              采女祝言ニ付
              差越使者干鯵
              一折十五連到
              来喜悦候一色
              木工可被申候 謹言
              六月十七日 宗立(花押)

                牧平左衛門殿

  いつの時代かを推測するには、三斎の署名が宗立であること。
  松井采女の奥方は、忠興(三斎)により誅伐された飯岡豊前の娘であること。
  ここではたと行き詰ってしまう。三斎の宗立の名乗りは隠居(元和6年閏12月)時からであり、飯岡豊前と息・長岡
       肥後及び一族22名が誅伐された事件は、慶長11年7月の事であるから、辻褄があわない。

  この事件の際、松井采女に嫁いだ豊前の娘も実方の屋敷に籠り、一族と共に死んだのではないか・・・
  そしてこの三齋の書状は、妻を亡くした采女の再婚話なのではないか。
  細川家の黒歴史ともいえるこの事件は、弟・忠利に代り江戸證人に立てられた細川興秋の出奔が原因しているとさ
  れ
る。豊前の息・長岡肥後が興秋付の家老ともいうべき立場であったので、徳川の圧力によりこのような結果を招
  いた
と思われる。忠興としては無念の決断であったろうし、豊前の娘の死やその夫・采女に対する深い想いがあっ
  たのではないか。これは私の推測に過ぎないが・・・

  一色木工とは一色杢のこと、槇嶋昭光(云庵)の弟であり、二人して忠興の側近である。
  牧平左衛門は、忠興から「興」の文字を拝領した牧興相(6,000石)の嫡男(善太郎・四郎右衛門・平左衛門)である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■細川小倉藩(511)寛永七年・日帳(八月廿七日~廿九日)

2021-03-09 10:28:04 | 細川小倉藩

     日帳(寛永七年八月)廿七日~廿九日

         |                        
         |   廿七日  賀来二郎兵衛
         |
         |   (田川郡)
岩石ノ松茸    |一、岩石ゟ、松茸三本差上候也、
         |                 三木伝丞   (伊藤)
         |一、今晩、江戸へ被遣御飛脚、井門与大塚少大夫、金左衛門与若槻兵右衛門と申者也、
         |                 〃〃〃〃〃
蟹喰ノ新邸ニ長屋 |一、かにはミ新やしき
ニ、長や被成御立候、此御奉行ニ、金子文三郎・宮部権三郎申付候事、
ヲ建ツ      |
江戸ヘノ書状覚  |一、江戸へ被遣御飛脚ニ、 御文箱相渡候覚
         |      (松野親英)(町)
         |   壱箱ハ 織ア・三右衛門へ、
         |         (職直)
         |   壱箱ハ、■榊原左衛門尉様へ、
         |         (正勝)
         |   壱箱ハ、稲葉丹後様へ、
         |  右之分渡、遣候也、
         |  (主水)
         |一、寺嶋方ヘノ状ハ、御船頭石松作内へ渡、上せ候、舟本迄ハ小頭野田角右衛門ニ持せ遣、渡也、
         |                  (村上景則)    (蒲田)
三斎書状忠利宛  |一、三斎様ゟ、越中様へ被進候御文箱ニ、河内・次兵衛・賢斎ゟ、我等共へ之添状、 御前ニ被成御
         |  留候也、               (志水元高)

         |                        
         |   廿八日  賀来二郎兵衛
         |
         |一、続源八、下々ノ御切米・御扶持方御印出申候を、 御印之段ニ入置、新兵衛・伝介・甚丞ニ可相
         |   (ママ)
         |  渡               (正直)
岩石ノ松茸    |一、田川ゟ、岩石ノ松茸之由候て壱籠、河喜多ゟ、持せ被上候也、
         |一、長崎ゟ飛脚参候、
下毛郡内検    |一、下毛へ御内検ニ被遣御鉄炮衆ハ、山川惣右衛門尉与大場徳左衛門、
下関硯之注文   |一、明日下ノ関へ、御硯あつらへニ被参、かちノ御小性井門助丞、
江戸ヨリ飛脚   |一、江戸ゟ、御鉄炮衆両人、為早飛脚参候、友田二郎兵衛与秋戸十介・兵庫与則木御加左衛門尉也、江
ソノ行程     |                         
         |  戸を去ル十八日ノ酉ノ上刻ニ立、大坂へ同廿三日ノ刁ノ刻ニ参着仕ル、同廿四日ノ夘ノ刻ニ出船
         |  仕由申候、小早ノ御船頭ハ川村喜左衛門也、
江戸ヨリノ書状  |  一、江戸御留守居衆ゟ、言上ノ文箱壱つ、
         |     (茂)
         |  一、渡辺山城様ゟ御状壱通、
         |  一、国師様ゟ御状壱通、
         |  一、竺西堂様ゟ御状壱通、
         |     (秀政)
         |  一、津田與庵様ゟ御状壱通、
         |    (雲嶽霊圭)  
         |  一、圭長老様ゟ御状壱通、
         |     (成政)                                    (乗栄)
         |  一、坂崎清左衛門ゟ、我等共へ当り候しふかミ包壱つ、但、清左衛門方ゟ清田七介へ参物也、
         |  右之分持下候、其外、江戸御留守居衆ゟ、我等共へノ状、京・大坂ゟ、方々へ状共持下候也

         |                        
         |   廿九日  奥村少兵衛
         |
         |           (武次)
江戸ヘノ書状   |一、江戸へ之御飛脚、牧丞太夫与友沢十左衛門・谷忠兵衛与津角少兵衛、今日出船仕候、
         |  一、江戸御留守居衆へ之 御書壱つ、
         |    (松井興長)(自徳院、松井康之室)
         |  一、式ア殿ゟしとくゐん殿ヘノ状壱つ、
         |   (松野親英)(町)
         |  一、織ア・三右衛門方へ、我等共ゟ之状一通、
         |          (成政)
         |  一、京都にて、坂崎清左衛門へ之状壱通、
         |  一、同人へ敷ア殿ゟ之状壱通、
         |  一、同人へ我等共ゟ之状壱通、
         |  一、三斎様へ被進之 御書箱壱つ、
         |  是ハ京都にて、坂崎清左衛門ニ渡置、御飛脚へ江戸へ可罷下候、 三斎様御上着被成候は、清左
         |  衛門持参いたし、上可申旨 御意之由、治ア奉にて被申渡候、
藍島へ野牛ヲ連行 |一、あいの嶋へ、野牛をつれさせ、遣候御鉄炮衆、友田二郎兵衛与秋山理左衛門申付、遣候事、
ノ鉄炮足軽    |
忠利鷹狩     |一、今日は未明ゟ、御鷹野ニ被成御出候事、
         |一、岩石ゟ、松茸四本持参候事、
藍島ノ野牛総数廿 |一、あいの嶋ノ野牛、大小弐拾三、前かとゟ居申候、此方ゟ三つ召連参候、合廿六い申由申候也、
六        |
絵師田代善甫江戸 |一、中津之絵書善甫ニ江戸御下屋敷之御座敷之絵、此中被 仰付、仕廻候而、明日罷帰候ニ、御小袖
下邸ノ座敷ノ絵ヲ |  三つ・御銀子拾枚被遣候也、
完成ニ賞与    |
茶壺積下ル    |一、御船頭南次兵衛、御茶壺とも今日積下申候事、
    

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■小川研次氏論考「時枝平太夫」(三)九州上陸

2021-03-09 06:36:04 | 小川研次氏論考

三、九州上陸

「小倉の城は戦闘を交えることなく降伏した。」(日)

「豊前の凶徒等、小倉・宇留津の両城にたて籠る。高橋右近元種か端城なり。毛利右馬頭輝元小倉の城を取巻、孝高指南して是を責られしに、城主罪を謝して降参しける。其後孝高は小倉の城に居給ふ。吉川・小早川も小倉より取つづき、一里ばかり先へ出張て陣を取。」(黒)

島津氏に加担していた香春岳城(福岡県田川郡)城主の高橋元種は小倉城を端城(はじろ)としていた。元種の実父は秋月種実で小倉城主高橋鑑種(あきたね)の養子となっていた。鑑種病死の時、わずか九歳の幼君であった。
毛利軍は小倉城を包囲した。典拠不明だが城代は小幡玄蕃で城内で自刃したとある。(苅田町公式ホームページ) 天正十四年(一五八六)十月四日とみられる。
また、十一月十五日、吉川元春は小倉城で病没している。

官兵衛の戦略は先ず、豊前制圧であった。

「官兵衛殿は、同所から海辺にある敵の城に向かって出発したが、その城には避難してきている村の全住民以外には、千人の戦闘員が内部に立て籠もっていた。城への侵入は困難をきわめ、濠の水は一人の人間の胸のあたりまで達していた。官兵衛殿は(Vo)の聖母の祝日の午後四時に勇猛果敢な攻撃を試みた。その戦闘で味方の兵五百人が殺され、千人以上が負傷したが、官兵衛殿は怯むことなく、武力を持って城内に侵入し、一人残らず三千五百人を超える敵兵を殺戮した。」(日)

「敵二千餘人籠たりしを、千人餘は首を取、残る男女三百七十三人をば生捕にし磔にかけられる。」(黒)

フロイスは「海辺にある敵の城」とし、城名を記していない。
周防灘に面している豊前宇留津城(うるづじょう・福岡県築上郡築上町宇留津)である。この城は塩田城(えんたじょう)という別名を持つ。(椎名町教育委員会、異説あり)
賀来(加来)氏が守る宇留津城の戦いは、壮絶であった。

『萩藩閥閲録』に「宇留津之出丸に嘉久(賀来、加来)入道専慶・同孫兵衛久盛其外數多楯籠候、」とあり、宇留津城主は入道専慶で孫兵衛久盛はその男子である。また、「両豊記」には「加来與次郎、同新右衛門、同孫兵衛」とあるが、専慶が與次郎で、新右衛門は叔父の加来源助景勝、孫兵衛は久盛である。
與次郎は父入道専順が香春城の高橋元種に人質になっていたが、隆景らの降参条件の領土安堵案にもかかわらず、「孝子の道にあらず」と父を見捨てることができず黒田勢に挑んだ。現在でも地元築上町では「宇留津城哀史」として民劇などで語り継がれている。

十一月二十日の秀吉感状に「豊前宇留津城去る七日ニ責め崩し、千余首を刎ねられ、其の外男女残らずはた者(磔)に相かけられ候儀、心地よき次第に候」(黒)とあり、十一月七日に官兵衛と隆景により落城としている。しかし、『日本史』では「聖母の祝日」とあり、「無原罪の聖マリアの祝日」を指しているとみられ、西暦十二月八日である。(一四七七年「クム・プラエエクセセルサ」『RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌』)
旧暦では十月二十八日になるが、この日の午後四時に突撃をしたとあり、『黒田家譜』の十日前である。
この差はなんだろう。まず、宇留津城の「濠」は、現地では後年、「塩田沼」(えんたぬま)と呼ばれていた。現地の案内板から一部引用する。

「天正十四年秋、豊臣秀吉の先手の中国勢等二万八千騎が攻め寄せて攻めあぐんでいる折、一匹の白犬が現れ堀の周囲を廻っていたが、やがてある箇所よりすたすたと泳ぎ渡った。これを見逃さなかった黒田軍は、ここぞ浅瀬だとばかり総攻撃にかかり宇留津城は僅か一日して陥落」(椎田町教育委員会)

「白い犬」とは興味深いが、この濠は難所であったことがわかる。

『日本史』と『黒田家譜』の敵方犠牲者の数は若干違いがあるものの、かなりの数という意味では一致している。
しかし、『黒田家譜』には「味方の兵五百人の戦死者と千人以上の負傷者」(日)の記述はない。
つまり、この戦いは敵方の「千人餘の首」(黒)を刎ねるほどの、裏返すと官兵衛はそれほどの苦戦を強いられたのである。このことから、宇留津城は十月二十八日に攻撃し十一月七日に陥落したと考える方が妥当かも知れない。

「吉川・小早川・黒田官兵衛孝高・同甲斐守長政、其外毛利家之諸将攻懸候剋、搦手北ノ門隆景一手之勢を以仕寄を附相攻候處、秀包采配を取て早ク可乗揚之由下知附、家来椋梨越前を初數多堀に乗候所を城中より矢鉄炮を以防戦之、椋梨越前・清水善右衛門・谷川勘八を初十騎計討死仕候、」(『萩藩閥閲録』)

秀吉書状に「其方搦手隆景先手ニ進、城中に乗込」(『萩藩閥閲録』)とあり、隆景軍の猛将小早川秀包(ひでかね)勢が先陣であった。のちの久留米藩主で、大友宗麟の娘を正室とし、ともにキリシタンであった。
また、『日本史』にも記されている。

「その城(宇留津城)の攻撃にあたった最初の人々の中に、既述の小早川殿(隆景)の秘書がいた。(中略) 秘書の死去は小早川殿に深甚の悲嘆をもたらし、大いなる愛情を抱いていただけに彼は、その死を泣いて悲しんだ。」

このことにより先陣は小早川勢であったことがわかる。
秘書は隆景が情愛を持っていた小姓であろう。下関で洗礼を受けた若き小姓の死は隆景の悲しみを誘った。

「城邊の死骸ども皆海へ流し捨て、掃除させて軍兵を入置。諸軍勢は神田へ歸りけり。」(「両豊記」) 「神田」は苅田の松山城で宇留津城攻めの前に陣をひいていた。宇留津城の西に別府村城(築上郡築上町上別府)があり、「天正の頃、黒田家の旗下、時枝平太夫居る。」(『豊前志』)とあり、一時期、鎮継が在城していたと伝わる。

この戦いの勝利により秀吉先遣隊は九州平定への大きな一歩を踏み出すことができたのである。
そして、重要な働きをしたのが、長野三郎左衛門、時枝平太夫鎮継ら豊前国士らであり、翌年、九州平定後の秀吉による論功行賞により明らかになる。
やがて、官兵衛らは、端城の障子岳城(京都郡みやこ町)を落とし、元種の本拠地田川郡の香春城へ向かう。

「官兵衛殿の軍勢は、同所から高橋(元種)の居城に向かったが、彼は豊後(大友氏)の大敵であり、諸悪の根元である秋月殿の息子である。その城中には、六、七千人の戦闘員のほかに、男女、子どもを混えて五万人あまりの者がいた。官兵衛殿は四十日以上を攻撃に費やした。この間、ほとんど毎日彼我の戦闘が繰り返されたが、ついに彼の巧妙な戦術により、また少なからぬ危険を覚悟の上ではあるが、水攻めによって彼らを降伏せしめた。」(日)

十二月一日、元種は降伏し開城した。


宇留津城跡の碑(福岡県築上郡築上町)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする