十一、筑前国
如水軍は薩摩の島津討伐のために九州を南下したが、徳川家康と島津義久との和議により停戦となり、軍を引き上げた。隠居の身でありながら、ほぼ九州を押さえた如水の戦いは、まさに九州の関ヶ原の戦いであった。
慶長五年(一六〇〇)末、五十二万石の筑前国転封を受けた長政と共に名島へ移る。
「甲斐守(長政)は、豊前と引き換えに、それよりも大なる筑前を拝領した。この領内には、千人以上のキリシタンを数える博多やその付近で同じく多数の信者のいる村々があった。甲斐守の家臣は、その大部分がまたキリシタンであり、自らは備前中納言(宇喜多秀家)の従弟で有徳のドン・ヨハネ明石掃部と、その家臣三百人、ドン・シメオン・フィンデナリ(毛利秀包)の子フランシスコと久留米のキリシタン武士の大部分を家臣に加えた。」(一六〇一年『日本切支丹宗門史』)
大大名となった黒田家は多くの家臣を必要とした。「明石掃部」の「家臣三百人」はかなり誇張されているが、掃部と家臣は一二五〇石を受けている。(『福岡藩分限帳集成』) 秀包(ひでかね)の子フランシスコは元鎮(もとしげ)だが、長州藩に仕えた。
時枝平太夫鎮継は宇佐の時枝城に居たが、黒田家に従することになる。三千石の大身となった。(「慶長分限帳」『福岡藩分限帳集成』)
「慶長年中士中寺社知行書附」にも「三千石 時枝平太夫重起」とある。(『黒田三藩分限帳』)
筑前国転封直前の十二月十日、平太夫は吉田又助と共に築城郡の「築城郡高物成目録」を作成していた。(『戦国期在地社会の研究』外園豊基)(長谷雄文書十四号『大分県史料』10)
又助は長政が宇都宮鎮房を謀殺する際に、中津城で鎮房に酌をすすめる命を受けていた。父は黒田二十四騎の吉田長利である。
「時枝重明系図」に「是歳、時枝鎮継、黒田家と共に筑前に移る」とあり、「同十五年秀吉公九州御征伐之時黒田家ニ属シ、於所々軍労有之故ニ、同家移筑前ニ時、尚又随従終ニ不帰」(『宇佐神宮史』)とある。「隆令、実宮成大宮司公建宿袮二男也、鎮継移住筑前之後、有故当家相続」とあるが、先述の通り、隆令は鎮継筑前移住前に相続していた。
鎮継は二度と郷里宇佐の地を踏むことはなかった。
十二、如水の死
慶長九年(一六〇四)三月二十日、如水は没した。
『黒田家譜』では、「三月如水福岡にて病に臥せり。(中略) 医療驗(いりょうしるし)なくして終に三月二十日辰の刻に身まかり給う。」そして、「那珂郡十里松の内崇福寺に葬る。」とある。しかし、イエズス会の司祭により、史実が明らかになる。
「シメアン官兵衛殿は都の伏見の政庁で亡くなった。息子に自身の遺体を博多の教会に埋葬するようにと頼み、教会の建築のために一千クルザード以上の喜捨を残した。」(「1603,1604年日本の諸事」『十六・七世紀イエズス会日本報告集』)
キリシタンとして逝った如水の長政への遺言である。そして長政はその通りに実行した。また、父の死後、「この嗣子は別人に変貌し」(同) キリシタンに理解を示したのである。「家来たちは誰でも望む者は、それを信仰してよろしい」(同)
長政は家臣らの信仰を許したのだが、この姿勢は徳川幕府による禁教令が発令される一六一二年まで続くことになる。
伏見の藩邸で没した如水の遺体は博多の司祭館に運ばれ、「葬式は、いとも厳粛に執行はれ、一家全部と共に其席に連なっていた甲斐守(長政)は、心の底から感激した。」(『日本切支丹宗門史』)
この葬式に参加したイエズス会の司祭ガブリエル・デ・マトスが詳細に伝えている。
「彼の遺体が上(京都)から博多に到着した時、いったん我らの所に安置され、そして僅か数日の間に極めて綺麗に装飾の施された龕(がん)、すなわち彼を納めた小さな葬台(棺)が出来上がった。それで四月のある夜の十時と十一時の間、我らは彼を、博多の町の郊外にあったキリシタンの墓地に隣接している松林のやや高い所に埋葬した。葬列の時、彼の嫡男筑前殿(長政)およびその領国の重だった家臣が彼の遺体に付き添い、年寄衆、諸城の城番が龕を担い、彼の弟で真の立派なキリシタンであった惣右衛門(直之)が十字架をかかげ、その一人の息子左平次殿(直基)と町の支配人宗也(徳永宗也)の孫で高木彦左衛門の息子とが松明を持ち、ペロ(ペドロ)・ラモン神父と私はカッパ(祭服)を着て、修道士ニコラオ(永原)と同宿たちはソブレリチェス(短白衣)を着ていた。」(「マトス神父の回想録」『キリシタン研究』第二十四輯)
では、「我らの所」はどこだろう。
筑前国転封後、長政はキリシタンの父如水や叔父黒田直之のために、司祭館の土地を寄進していた。
「(長政は)博多の同じ市内に彼らの居住する修道院と教会を作るためにすこぶる良く、便利な地所を司祭たちに与えた。実際には、司祭たちは都、大阪、長崎以外に住んではならぬ、またキリシタンをこれ以上新たに増やしてはならぬ、と内府様(家康)が禁じていたので、甲斐守は条件を一つつけた。それは、司祭たちは、宗教的な僧院の外観を呈するような教会や修道院を建ててはならず、その市(まち)の名望ある市民の家屋かなにかのようにすること。」(「1601,1602年日本の諸事」『イエズス会日本報告集』)
長政は用心深く、修道院を建てることを条件に許可した。この修道院は司祭らが生活するための司祭館である。
また、如水は「司祭たちのために与えられた地所を没収されないように、蔵(倉庫)と呼ばれる家屋を一棟」(同) 自身の名義にして寄贈している。
しかし、一六〇一年にそこを訪れたマトスによると「彼(ラモン神父)に、浜の近く、かなり不便な狭い地所を与えられた。」(「マトス神父の回想録」) とあり、重要な情報である。
三年後の一六〇四年には「(筑前国)に司祭二名と修道士二名が居住している。そのうちの二人は通常、博多の市(まち)、そこにある修道院と教会にいる。他の二人は秋月に常駐している」(「1603,1604年日本の諸事」)
「秋月」にいた司祭はマトスである。この地にはキリシタン黒田直之の庇護の元に多くのキリシタンが生まれた。さて、この博多の「修道院と教会」が如水の遺体が最初に運ばれた「我らの所」である。
平成十年、奈良屋町の博多小学校建設に伴い、発掘調査が行われた。
キリスト教布教の痕跡としてメダイ二個とメダイとクルス(十字架)を作るための土製鋳型が見つかった。
ここは豪商神屋宗湛の屋敷跡である。秀吉が招かれたという。敷地内に建てた秀吉を祀る豊国神社は今も伝わる。
では、何故、この地にキリシタン遺物があったのだろうか。
一人の人物が浮かぶ。
永禄八年(一五六五)、修道士ルイス・デ・アルメイダが堺の日比屋了珪邸に身を寄せていた時の記述に「その翌日の九時にディオゴ了珪は、私と一人の日本人修道士、さらにもう一人コスメ・コウゼンの許へ使者を寄こしました。このコスメという人は日本で何かにつけ我らのことを世話してくれる、金持で非常に善良なキリシタンであります。」(『完訳フロイス日本史1』) とある。
また、一五八二年のイエズス会総長宛のフロイスの書簡に記されている。
「同領内(秋月)に古きキリシタンが二人あった。一人は父でコスメといい、またその子はジャコべ(ヤコブ)と称した。両人ともコンパニア(イエズス会)の親友で富裕なる商人であるため、殿(秋月種実)は彼らを尊敬していた。」(『イエズス会日本年報(上)』)
「コスメ・コウゼン」は博多の末次興善である。敬虔なキリシタンであり、博多教会の最大のスポンサーであった。のちに次男平蔵政直とともに長崎へ進出し、南蛮貿易で莫大な財産を築き、今に興善町の名を残す。
博多での商いを継いだ長男与三郎広正も洗礼名ヤコブを持つキリシタンであった。この末次家の屋敷は市小路町中番西側にあり、奈良屋町の神屋邸と隣合わせであった。(『博多駅今昔地図』はかた部ランド協議会)
アルメイダが興善と最初に出会ったのは一五六一年と考えられ、豊前から平戸へ布教活動へ行く時に博多に入った。そこには興善の寄進により教会が建てられていた。また、屋敷を宣教師らに提供し宿主となっていた。(『イエズス会日本書翰集 原訳文編之四』) この教会は興善の敷地内と考えられる。
天正十五年(一五八七)、九州平定を果たした豊臣秀吉は焼け野原になった博多の復興を石田三成や官兵衛らに命じた。博多の有力商人らの協力により「太閤町割」が完成する。末次家はこの時に上述の地所を得たのか、以前から在住していたのか不明であるが、「修道院と教会」を設けていたことは容易に想像できる。
この地が如水の遺体が運ばれた「我らの所」と