東京里山農業日誌

東京郊外で仕事のかたわら稲作畑作などをしていましたが、2012年4月に故郷の山口県に拠点を移して同活動をしています。

田布施町 麻里府 中郷と上組の史跡調査(2/2)

2015年01月16日 | ふるさと

 その後、Tmさん親子と上組から千坊山方面に向かってどんどん奥の方に行きました。目的は、人麻呂神社を探すことでした。ところが、行けども行けども神社らしきものが見当たりません。1ヶ所巨大な岩の窪みがあり、水が流れるように加工されている場所がありました(1番下の画像のD地点)。この窪みは何かの採掘跡かも知れません。その周りを調べましたが、石柱や礎石のようなものは見当たりませんでした。神社関連とは違うようです。

  上組から千坊山に向かう途中の田んぼ      神社跡ではなく作業小屋跡?
 

 どんどん奥に向かって進むと、広い田んぼがありました(1番下の画像のC地点)。そして、周りに崩れた棚田の石垣がたくさんありました。かつて、ここに田んぼがいくつかあったようです。壊れた農機具がいくつかありました。今、ここを耕作しているのは1人ぐらいのようです。ここの田んぼも、いつかは放棄田になり山に埋もれてしまうかもしれません。帰りに神社跡かと思った場所は、どうも作業小屋跡(1番下画像のE地点)のようでした。

               明治20年頃の麻里府上組の1部、今は人家が少ない


 人麻呂神社を探すのをあきらめました。この神社に行ったことがある方を、2ヶ月ほど前にたまたま知りました。再度、その方に聞いてみようと思います。その方の話では、おできが直る神様だったとのこと。何十年間も誰もお詣りしなかったであろう神社なので、今は雑木や草で覆われて見つからないのかなと思います。お詣りしなくなった理由があったのか、それても移築したのでしょうか。ただ言えるのは、明治時代にこの神社の周りに多くの人が住んでいました。しかし、今は無住の地になっていることです。森の暗い中に、白壁跡がうっすらと見えるだけでした。

            麻里府上組岩金じょうの観音堂、天井の隅が抜ける


 次に、上組岩金じょうの観音様に行きました。入口上に掲げられた板に、南平和八番ヶ所と書かれていました。このお堂に安置されている観音様はとても立派です。金粉が塗られているのだと思います。キラキラしています。お腹や目などの金粉がはがれて、黒い漆の地肌が出ています。相当昔から、お腹を壊した方や目を病んだ方などが触り続けてきたためでしょう。

     金粉で塗られた立派な観音様      台座 右:別府村,中:奉寄進,左:上組
 

 薬師堂を見終わると、その山の上にある不思議な墓所に行きました。守屋大人に関わると言われる大きな石碑のようなものが目立ちます。ただ、この石には何の文字も刻まれていません。周りには小さなたくさん五輪石が無造作に転がっています。この墓地は元々何だったのか全く分かりません。明治期に岩金家の名前が刻まれた墓石があるため、岩金家の古い墓所だったのかも知れません。これまた麻里府の謎の一つです。

       守屋大人の石碑?             本来はこの道から薬師堂にお詣り
 

 謎の墓地から再び薬師堂に戻りました。薬師堂の中に再度入ってみると、天井が2ヶ所抜けていることが分かりした。屋根に草が生えているため、永い間に雨水が染み込み、天井が抜けたのでしょう。修復するにも費用がかかります。今後、この薬師堂が修復されるのか心配しています。薬師堂傍に安置されているお地蔵様も調べました。台座には、「別府村と上組が奉寄進」と刻まれていました。どんな理由で寄進したのでしょうか。

                麻里府上組の成川じょうの、趣のある民家


 薬師堂からは本来のお詣りのルートをたどって山を下りました。とても急でしたが、所々階段があるため足さえしっかり踏みしめれば転げることはありません。ただし、下り坂の途中に何本もの竹が倒れていました。その竹を避けながら歩くのには難儀しました。

     大泉寺の大師堂内部                 上組から中郷に戻る道すがら
 

 今回は新たに発見した史跡がありました。雨乞い岩,十心庵跡,住吉明神社跡,上組峠の大師堂です。T氏のお話を整理した後、再度麻里府に来ようと思います。そして、見つけることができなかった、中村荒神社と人麻呂神社を見つけようと思います。今回は天気が良く、早歩きしているとじんわりと汗ばんできました。Tmの親子様、お疲れ様でした。
 ところで、麻里府や麻郷などで土地の単位に「じょう」という言葉がよく使われます。江戸時代から続く旧家の土地や場所をxxじょうと言うのです。あるいは普通名詞としても使います。例えば、「向こうじょう」は「向こう側の土地」を意味します。この言葉がずっと謎でした。漢字では「条」のようです。古代日本の区画割り制度の残滓ではないかと思われます。ある一区画を条と呼びますが、例えば横尾じょうは横尾家が治める一区画と考えれば納得がいきます。旧家が治める土地が「じょう」と深い関係にあるのです。こんな古代~江戸期の区画単位が今に残っているようなのです。

                   今回歩き回った麻里府上組

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田布施町 麻里府 中郷と上組の史跡調査(1/2)

2015年01月15日 | ふるさと

 去年、麻里府上組の薬師堂麻里府のお地蔵様などを調査しましたが、縁あってまたまた麻里府に行きました。最初、その昔雨乞いをしていたらしい麻里府中郷にある岩を見に行きました。とにかくどんな岩か確認しました。最初、中郷のKさんの家にバイクを置かせてもらいました。そして、Kさんと一緒にその岩に向かいました。途中、Tm親子に出会ったため、4人で岩に向かいました。

       雨乞い岩?とKさん                十心庵跡から見た中郷
 

 岩は、中郷の小高い山の上にありました。周りは竹などが茂っており展望がありませんでした。もしこれらの竹や雑木を伐採すれば、ほぼ360°見晴らしが良い高台だと思います。その高台の上に石が据えられていました。一抱えほどの岩でした。色が黒く、その山に元々あった岩ではないようです。地表の岩と種類が違いました。文字類は刻んでありませんでした。どこからか運んできた岩なのでしょうか。

       中郷から上組への途中の史跡、大泉寺は現存  明治20年頃を表す古図


 岩を確認し終わると、中郷最高齢と言われるT氏に逢いました。そして、この周辺の史跡などについてお聞きしまた。雨乞いの岩については、「雨乞いがあったと言い伝えがある。」としか分からないとのことでした。その岩前に集まるとか,催しがあるとか,祭りがあるとか聞いたことがないとのこと。その岩の上に以前「天保通宝」があったそうです。そのお金は江戸時代の通貨です。雨乞いがあったとしても江戸時代のことだと思われます。50年位前だったらこの岩について知っている古老がいたかも知れません。今となって麻里府の謎の一つです。

          麻里府小学校向かいある住吉神社がかつて鎮座していた大岩


 T氏のお話の中で、一番の収穫はあつまんだ(八幡田?)地蔵の由来です。今は中郷の小山じょうにありますが、かつてはT氏の家前にあったそうです。今の道を作った昔に、お地蔵様を今の場所に移したそうです。そのお地蔵様はその昔、T氏の向かい側にあった庄屋が何代か前(江戸時代)に、亡くなった息子を弔うために安置したとのこと。

      住吉明神社跡の礎石の一部                上組区公民館
 

 T氏に明治20年頃の手書き古図などを見せていただきました。その古図に、とても興味をそそられるものがありました。その古図は、その頃に住んでいた人の屋敷の位置を表す図面です。その中に、明楽寺が元あった十心庵跡,麻里府小学校向かいにある住吉神社が元鎮座していた住吉明神跡,中村荒神社,そして上組の峠に大師堂が描かれていました。Kさんと別れだ後、Tm親子と一緒にその史跡を訪ねました。

       上組峠傍のお地蔵様A        上組峠から少し入った場所のお地蔵様B
 

 まずは、明楽寺が元あった十心庵跡に行きました。庵と言うことは、かつて尼さんか修行僧が住んでいたのかも知れません。その場所に行くと、新しい民家が建っていました。そのため、庵の痕跡は皆無でした。ただその民家入口に、見晴らしが良く鐘突堂にピッタリと思われる高台がありました。十心庵跡を見終わって、桜川を上流に向かって歩いていると対岸に岩がありました。その岩全体を詳しく調べると、礎石と思われる石が一つありました。ここが住吉明神跡だと思われます。近くにあるはずの中村荒神様は見つかりませんでした。竹藪のどこかにあるのでしょう。

                上組の横尾じょう上の峠にある大師堂


 続いて上組横尾じょうの峠に行きました。明治20年頃の古図を見ると、今の舗装道路とだいぶ道が異なっています。大泉寺前から川を渡って横尾じょうに入っていくのが本来の道(古道)だったようです。そして、古道が峠に差しかかる場所に大師堂があったことが分かります。今回は舗装道路を歩いて峠に行きました。そして、古道と思われる小道に分け入ると、古図のとおりお地蔵様や大師堂がありました。周りに立派な瓦が散乱していましたので、かつては立派な大師堂だったのでしょう。

        峠の大師堂内部                 かつての大師堂の屋根瓦
 

 この大師堂がなんと呼ばれていたか分かりません。いつかこの近所に住んでいる古老にお聞きしようと思います。古図に単に大師堂と書いてあるだけですので、その由来を知っている方はいないかも知れません。岩金じょうの薬師堂が立派に今も管理されているに対して、この薬師堂は管理する人があまりいないように思えました。

   麻里府の中郷、A:バイクを駐車 B:現在の地蔵様 C:お地蔵様が元あった場所


 古図によると明治時代、上組にはたくさんの人家があったことが分かります。特に峠付近には人家がたくさんあったようです。これらの方々が大師堂を守っていたのでしょう。しかし今、峠付近の人家まばらです。人が少なくなれば、大師堂やお地蔵様の管理ができなくなるのは世の常です。残念ですが仕方ありません。

                   今回調査した、麻里府上組地区

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グミの木を剪定

2015年01月14日 | 樹木,果樹

 冬は果樹の剪定をする季節です。今回は、グミの木を剪定しました。グミは春に赤い実がなる家庭用果樹です。その実は市販されることがありません。やや酸っぱい味のため人によって好き嫌いがあります。私は実をたくさん取って食べるのではなく、春のささやかな味を楽しむためだけに栽培しています。

      根元から生えた太枝をカット            絡まった蔓を取り除く
 

 剪定するあたって、枝に絡まった蔓や根元に生えた雑草を取り除きました。そして、枝が重ならないように、樹木全体がスッキリするようにしました。背が高くなると、脚立に乗らないと実を採集することができません。全体的に、人の高さに収まるように剪定しました。

               背伸びして実が採れる高さに剪定したグミ

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我家の大きくなりすぎた庭木(カイズカイブキ)を伐採

2015年01月13日 | 樹木,果樹

 我家前に庭木(カイズカイブキ)が植えてあります。あまりに大きく育っているため、素人の私が一度にすべてを伐採するのはリスクがあります。このため、2012.4月2014.1月に数本ずつ伐採してきました。今回も数本伐採することにしました。

  倒したい方向に引っ張る    倒れる方向を深く削る     ようやく倒れた庭木
  

 チェーンソーで伐採するのは良しとして、伐採した庭木を処分するのが大変です。私は腐るまで待てないため、たき火で燃やすことにしています。倒した庭木を、燃やせる大きさにノコギリで枝ごとに細かく分断します。細かい作業はチェーンソーでは危険ですので、ノコギリを使うのですがとても疲れます。生木はなかなか切れません。

          西側の庭木を三本伐採、一階の部屋に日差しが入り明るくなる


 昼食後少し昼寝をしました。起きて、さあこれから伐採の続きをしようとしたころ、郷土館長Nさんの訪問がありました。少しばかり談笑しました。お話ついでに、畑に残っていたサトウモロコシの茎をかじってみました。最初、甘いかと思っていたら違いました。なんと、少し発酵しているではありませんか。少しお酒のような味がしました。
 Nさんが帰った後、庭木の伐採を続行しました。今度は東側の庭木です。西側と同じように、倒したい方向に紐を張って引っ張りました。東側の庭木は育ちがやや悪く幹が細いので難なく伐採することができました。ただし、通り道に倒す予定が、勢い余って傍の畑にゴロンと倒れてしまいました。

 倒したい方向に引っ張る      下の畑に倒れた庭木    畑の上で枝などを解体
  

 畑には野菜や花を植えているため、このままでは野菜や花がダメになってしまいます。買い物に行った後、枝などを切断して解体しました。冬ですが日差しが暖かく、のんびりと解体することができました。
 伐採した庭木の切断面を観察しました。すると、年輪を30ほど数えることができました。父親が30年位前にこの庭木を植えたのでしょう。30年前と言うと、娘が生まれた頃のことです。私が結婚した記念にと、父親は家を取り囲むように山際に桜を何本も植えました。その少し後、娘が生まれことを記念してこの庭木を植えたのでしょうか。今となっては分かりません。

          伐採した庭樹(カイズカイブキ)の切株の年輪、樹齢約30年

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田布施町 少年少女発明クラブ 今年最初の工作

2015年01月12日 | ふるさと



 今年初めての発明クラブがありました。開催場所は田布施農業工業高校です。いつもの子供達が集まっていろいろ勉強しました。今回は高校生のお兄さん達が教える側に入りました。
 今回学習したのはジャイロです。いわゆるコマです。回転体が転びにくいことの体験をしました。私はジャイロと聞いて、コマを作るのかと思いました。しかし、違いました。ペットボトルを工作してのジャイロ効果体験なのです。

   回転する車輪は何故か転倒しにくい    矢印のように筒を回転させて遠くへ飛ばす
 

 私も子供達に混じって工作をしました。ペットボトルを二ヶ所で輪切りにする工作です。とても簡単な工作ですが、刃物であるカッターやハサミは慎重に扱う必要があります。その輪切りにして筒になったものを飛ばします。ジャイロと関係ないように思われますが、投げる時に筒をいかに回転させるかで飛ぶ距離が変わるのです。

                 完成後、運動場に一列になって加工した筒を投げる


 遠くへ飛ばすこつは二つあります。一つ目は筒の軸方向に投げること。二つ目は、投げる瞬間に筒を回転させることです。私は、投げる瞬間に筒を回転させることがなかなかできませんでした。そのうち、こつがつかめてきました。筒を回転させると、ジャイロ効果で筒が乱れずによく飛ぶのです。子供も大人も楽しく工作しました。どういう訳か、大人の方が飛ばなかったように思います。大人は力任せに飛ばそうとするため、くるくる乱雑に回ってストンと落ちるのです。このような工作は初めてでした。

     向こう側に一斉に投げる              投げた後、地上に落ちた筒
 

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健康ウォーキングクラブの年次総会と新年会

2015年01月11日 | ふるさと

 私が代表をしている健康ウォーキングクラブの年次総会を開きました。最初に私の方から、会員や会費の状況を説明し、去年のウォーキングの振り返りと今年のウォーキング予定を発表しました。そして、Tさんから会計について説明していただきました。ところで、下見ウォーキングにも参加したい方が以外に多く、これからは何人かにお知らせして下見ウォーキングしようと思います。
 これらが終わると、新年会を開きました。今回は、美味しい生牡蠣を蒸し焼きにしてたくさん食べました。何個食べたか忘れてしまうほどです。牡蠣を持って来ていただいたKさんありがとうございました。

         年次総会開催後、子供達も参加して楽しい新年会


 今回は一品持ち込みで、皆さん得意の料理や酒などを持参していただきました。中には、開催直前までに得意料理を会場で調理した方もいました。本当にありがとうございました。子供達が妖怪ウォッチの歌で踊ったりするなど、賑やかな新年会となりました。私は早めに帰らなければならず、22時頃に会場を退散しました。2012年,2013年,2014年,そして2015年と、当ウォーキングクラブは4年目に入りました。今後ともよろしくお願いします。

    妖怪ウォッチを歌うY君            歌に合わせて踊るNちゃん
 

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光市 西伊保木の正蓮寺を訪問

2015年01月10日 | ふるさと

 先日、光市伊保木の長福寺に行きました。今回は長福寺と慶宝寺の間にあるはずの大師堂を探すため再び伊保木に行きました。あちこち探していると、西伊保木のある集落の小高い丘の上に小さな庵のような小さな建物を見つけました。そこで、この集落の方にお話を伺うと古いお寺であることが分かりました。そこで、この集落で一番年長者のTさんを紹介していただきました。そこでTさんの家を訪問し、Tさんご夫婦にこのお寺についていろいろ教えていただきました。

                正蓮寺から見下ろした西伊保木の集落


 Tさんによると、昔このお寺に多くの方々が巡礼に来ていたそうです。そして、このお寺で宿泊することがあったそうです。小さなお寺ですので、実際にはこの集落の家々で分担して泊まらせてあげたとのこと。泊まっていただくことも一つのお接待で、いっさい宿泊費や食事代を取らなかったそうです。

       正蓮寺前広場の墓地                正蓮寺から広場を見て
 

 正蓮寺にはかつて尼さんが住んでいたそうです。お寺の前は広場になっていて、賑やかに盆踊りをしていたそうです。今広場は墓地として使われています。お寺の入口には霊場番号が書かれた板が掲げられていました。しかし、風化が進んでいて番号は読めませんでした。お寺の中を見ると、右端に祠がありました。神仏一体のお寺にように思えます。昔のことをより知っているお年寄りがいないため、あまり深くお話を聞くことができませんでした。
 西伊保木から帰る途中、慶宝寺近くに住んでおられる嵯峨音頭保存会のOさんの家を訪問しました。夕方だったため、簡単に挨拶だけしました。伊保木公民館で毎年盆踊りをしているとのこと。かつては竹尾方面に踊りに行っていたそうです。また、室積でのお祭りでも嵯峨音頭を踊っていたそうですが、規制が厳しくなってから行かなくなったそうです。春先に再度訪れようと思います。

                   西伊保木の正蓮寺、右端に祠を安置

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葉物野菜,根物野菜など、冬野菜を楽しく収穫

2015年01月09日 | 野菜:葉菜

 我家は、ほぼ野菜自給100%です。毎日いろいろな野菜を収穫しては、少しずつ食べています。近日、私が関わるウォーキングクラブの年次総会を開き、その後新年会です。その時、我家の野菜をたくさん食べていただこうと思っています。その野菜を今回収穫しました。ただし、私は料理できないため料理していただくのですが。

    普通の九条ネギ        根が太い下仁田ネギ      きれいにした長ネギ
  

 最初に長ネギを収穫しました。今回収穫したのは九条ネギと下仁田ネギです。下仁田ネギは根が太く柔らかいので、手で抜こうとするとスポンと根が切れてしまいます。スコップで少し土を緩めて抜きます。私の大好きなネギです。ネギでは他に分葱とやぐらネギがあるのですが、今は寒さで葉が縮れており春にならないと収穫できません。

   ニンジンを丁寧に抜く       食べない葉をカット      美味しそうなニンジン
  

 続いてニンジンを収穫しました。今年はニンジンの発芽が揃って良く育ち、美味しいニンジンがたくさん収穫できました。発芽を成功させたことが良かったようです。まだまだ畑にはニンジンがたくさんあるため、しばらくはニンジンに不自由しません。

    チンゲンサイ              春菊               ホウレンソウ
  

 ニンジンを収穫すると、葉物野菜を収穫しました。チンゲンサイ,春菊,ホウレンソウ,白菜,そしてタアサイを収穫しました。春菊とタアサイはそろそろ終わりのようです。寒さで葉が一部茶色に枯れていました。ホウレンソウの葉をそのままかじってみました。ドレッシングをかければ、サラダとして十分食べることができそうです。大根,小松菜,キャベツ,京菜などは残り少ないため収穫しませんでした。

    秋ジャガイモ              太くなったカブ           ヤーコン
  

 続いてイモ類を収穫しました。まずは夏に種芋を植え付けた秋ジャガイモを収穫しました。皮が赤いアンデスと呼ばれる品種で、男爵のようにホクホクします。ただ、煮詰めすぎると溶けてしまいます。カブはだいぶ太くなってなっていました。収穫が遅かったためすが入っているかもしれません。最後にヤーコンを収穫しました。スライスするかきんぴらのようにして生で食べます。変わった味で、人により好き嫌いがあります。美味しくない梨のような味と食感です。下画像は今回収穫した野菜達です。明日,明後日,明々後日と仕事関連で忙しいため、夕方それらの野菜達をEさんに渡しておきました。みなさんに美味しく食べていただければと思います。

     A:九条ネギ,B:下仁田ネギ,C:チンゲンサイ,D:タアサイ,E:春菊,
     F:ホウレンソウ,G:カブ,H:ニンジン,I:白菜,J:ヤーコン,K:ジャガイモ

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エンジンチェーンソーの点火装置故障の修理

2015年01月08日 | 農機具,工具

 去年の6月に呉麓山麓のひかり観音に鏡を取り付ける時、近くに茂る樹木を伐採しました。その時、私が持参したチェーンソーが故障してしまいました。原因は点火プラグに火花が飛ばないことでした。どうも火花を発生させるCDIの故障のようです。その後、安価なチェーンソーを1台購入しましたが、故障したチェーンソーを捨てるのが惜しくなりました。このため、故障を修理することにしました。

       CDIが故障したチェーンソー          始動ロープカバーを取り外す
 

 耕耘機のCDI交換作業は何度も経験しましたが、チェーンソーのCDI交換は初めてです。まず、チェーンソーを分解してCDIを交換することにしました。そのため、交換用CDIをDIY店で注文しました。数千円すると思います。「最近モデルチェンジしたチェーンソーなので交換用CDIは容易に手に入るでしょう。」とのことでした。愛用していたチェーンソーは蘇るでしょうか。

                 下画像のCDI装置をDIY店に注文

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光市 伊保木の長福寺,大師堂,岩屋快山窯などを調査

2015年01月07日 | ふるさと

 先日、光市の五軒屋~伊保木~岩屋~かんぽの宿ウォーキングルートを調査しました。その時に時間が無くて調査できなかった長福寺と大師堂を調査しました。調査の時は五軒屋から伊保木へ行き、そして岩屋を通って室積に行きました。今回は竹尾から大城峠を越えて直接岩屋へ行きました。

         岩屋の一見長屋のように見える長福寺、左に接するように大師堂


 大城峠からの急坂をどんどん降りていると、岩屋集落の前にポツクリ出ます。そして、岩屋集落の一番上の方にある長福寺に行きました。最初、そのお寺の場所が分からなくてうろうろしました。そして、ある広場に大師堂の建物があることに気が付きました。その隣の長屋のように見えた建物が実はお寺で、防陽第四十九ヶ所霊場でした。大師堂の入口に、その番号が墨書きされた木札が打ち付けられていました。なお、龍泉寺と同様に霊場番号が一つ多いことが分かりました。

     防陽第四十九ヶ所霊場の大師堂        大師堂内のお地蔵様
 

 岩屋の方にお話を伺いました。すると、かつて岩屋で大火事があったそうです。その時、長福寺も焼けたそうです。住民は自分の家を再建するだけで精一杯で、長福寺は長屋風にしか再建できなかったとのことでした。今、ご住職さんはいないそうです。岩屋に古民家が少ないのは火事のためのようです。

                   見学させていただいた岩屋快山窯


 次に、せっかく岩屋に来たので窯を見せていただきました。伊保木には三軒の窯があるそうですが、二軒は海岸線付近に、岩屋に一軒あるとのこと。今回は、岩屋の一軒を見学させていただきました。私は窯については全くの素人のため、焼き物について少し教えていただきました。窯は1m立法位の大きさの電気炉のようでした。塩で色を付けているとのことでした。

    岩屋快山窯で制作された焼き物           かつての岩屋の街道、狭い!    
 

 岩屋快山窯のご主人は、若い頃に奥様と演劇をしていたそうです。いつしか、この岩屋が気に入って住み始めたとのことでした。もともとお店だった家(岩屋で唯一のお店だったとか)を改造して窯にしたそうです。ウォーキングで寄るときは、電話で知らせていただくと嬉しいとのことでした。このため、ウォーキングする数日前に電話しておこうと思います。ところで、防陽霊場表によると伊保木の慶宝寺と岩屋の長福寺の間にも大師堂が一つあることになっています。それがどこかどうしても分かりません。次回、調査しようと思います。

                  今回調査した光市岩屋周辺

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田布施町 竹尾地区のお地蔵様などを調査(3/3)

2015年01月06日 | ふるさと

 去年竹尾方面のお地蔵様を調査した続きです。郷じょうを過ぎて、奥じょうに行きました。私が中学生だった頃、郷じょうにバス停がありました。このバス停から南に行くと麻里府、北に行くと国木でした。バス停があった峠道をよく自転車で通りました。当時は道路が舗装されておらず竹尾川に沿った曲がりくねった道でした。当時竹尾や麻里府上組に住んでいた同級生達は、苦労して自転車通学していたことを改めて思いました。

      龍泉寺への案内石柱              龍泉寺近く墓地傍のお地蔵様
                                                                      北緯   33°55'40.05
                                                                      東経 132°00'45.05

 

  奥じょうに行く途中にある龍泉寺への案内石柱を左に回って龍泉寺へ行きました。そして、お地蔵様二丁の一つ前の順番であるお地蔵様一丁を探すことにしました。ところで、龍泉寺へ行く途中に墓地があり、傍に立派なお地蔵様があることに前から気が付いていました。先日たまたま龍泉寺へ行く途中、このお地蔵様を拝んでいる人がいたので声をかけました。

    龍泉寺楼門下近くのお地蔵様              竹尾奥じょうの集落
              北緯   33°55'35.66
              東経 132°00'45.05
 

 その拝んでいた方はなんと、中学高校の同級生Mさんではないですか。あまりの偶然に驚きました。お地蔵様の由来を聞くと、Mさんの祖母の義母が昭和11年に建立したとのことでした。今でもこのお地蔵様に関わるささやかなお祭りをしてるそうです。前々から知りたかったこのお地蔵様の由来が分かって本当に嬉しく思いました。

                   竹尾奥じょうの中心近くにある観音堂


 龍泉寺周辺にお地蔵様一丁がないかどうか探しましたがありませんでした。再度龍泉寺を訪問してご住職の方にお聞きしようと思います。龍泉寺を出ると、竜泉寺案内の石柱を左に曲がって奥じょうに行きました。田舎好きの私は、趣があるこの奥じょうの集落がとても好きです。奥じょうを通って観音堂に行きました。

      観音様の新しいお住まい            新しいお住まいの中の観音様
 
            北緯   33°55'56.37
              東経 132°00'37.91
 

 先日、この観音堂のはす向かいに建立された小さなお堂に、観音様が引っ越ししていることを知りました。今回、その中に安置された観音様を拝ませていただきました。このご時勢、建物を維持するのは大変です。竹尾奥じょうの観音様は、安置するお堂が狭くなったとは言え地元に残ることができました。観音様をお寺に戻すなど、地域から手放さざるを得ない地域もあるのです。中には、皆が知らない所に撤去されたお地蔵様もあるのです。
 
       
   土台に「法界」と刻まれたお地蔵様         大城峠に安置されたお地蔵様
           
 北緯   33°55'56.31                              北緯   33°55'30.38
            東経 132°00'37.88                              東経 132°00'13.03
 

 新しいお住まいの左隣りに、以前からあるお地蔵様があります。背が高くなかなか立派なお地蔵様です。この場所は、国木,麻里府,麻郷の人々が普賢様のお祭りに行くために大城峠を越えて岩屋に行く時に必ず通る場所です。かつてたくさんの人々が、このお地蔵様に旅の安全を祈願したに違いありません。このお地蔵様の土台には、大きく「法界」と刻まれています。

                 大城峠に行く途中、ふり返って見た竹尾地区


 竹尾の観音様を拝むと、大城峠に向かいました。この峠は十字路になっています。この峠から東に降りると竹尾方面に,南に向かうとコバルトラインを通って峰尾峠や五軒屋方面に,西に降りると岩屋に,そして北に向かうと大峰峠に行きます。かつては千坊山尾根の中で大峰峠に次ぐ重要な峠でした。そのため、お地蔵様が安置されているのではないかと思います。竹尾にはまだまだ知らない山道があります。まだ知らないお地蔵様などの史跡が眠っていると思います。そもそも大城峠付近に、古代高地性集落が確認されています。古代から交通の要所だったのではないかと思われます。そもそも、何故「大城」と呼ぶのでしょうか。

                 竹尾地区を上から見た図(航空写真)

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田布施町 第3回麻郷小学校昭和40年卒同窓会の第3回幹事会を開催

2015年01月05日 | ふるさと

 4日午後2時に、平生のジョイフルに小学校の同級生達7人が集まりました。1月8月に続く3回目の幹事会です。今回は、会員の住所確認や今後のスケジュールなどについて詰めました。集まった7人は、さながらミニ同窓会のように子供の頃の話や近況についてなど楽しくお話しをしました。
 この6月に参加可否を問う往復ハガキを会員全員に出します。8月初めに最後の幹事会をして、司会,受付,写真係などの分担を決めます。そして、第1回(2005年),第2回(2010年),に続く第3回同窓会を8月中旬に開催する予定です。同窓会ホームページもそろそろ更新しようと思います。

                        さながらミニ同窓会のように楽しかった、第3回幹事会

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田布施町 大波野,小行司,城南の神社などをお詣り

2015年01月04日 | ふるさと

              小行司の多賀神社


 お正月もこれで三日目です。今回は、田布施町の残った地域である大波野,小行司,城南を中心に神社などをお詣りしました。実は小行司は大波野内の一地区なのですが、知らない方が多いようです。

   坪曽近くの祠           惣津の金毘羅社         惣津の妙見社
  

 小行司が大波野の理由は江戸時代に遡ります。当時の町村合併では、各村の石高がなるべく均一になることが求められました。当時隣接していた塩田村や余田村と合併させると、これらの村の石高が増え均一性が崩れます。そこで、当時石高が少なかった大波野村と合併しました。今の大波野は、小行司,上段,惣津,坪曽などから成っています。

               柳井方面が良く見える、妙見社傍の鉄塔からの景色


 さて、今回は坪曽近くの祠を最初に訪れました。何と言う祠なのでしょう。大波野まだ調べていない史跡などがたくさんあります。今後の課題です。次に、惣津の金毘羅社に行きました。曲がりくねる山道を登ると、石の鳥居が迎えてくれました。かつて、ここで大波野神舞を披露したこともあったそうです。あまりに山の上なので、今ここで舞うのはまれなのではないでしょうか。続いて、金毘羅社のさらに上にある妙見社に行きました。ここまで来ると景色が開けており、傍にある鉄塔からの景色は素晴らしいものがあります。

    上段の名もなき祠        上段集会所(日光寺)         平和第xxx番の木札
  

 ところで、妙見社から下山するときに山道を間違えてしまいました。どんどん下っていると、ため池がありました。さらに道を降りると目の前は上段でした。気を取り直して迂回し、惣津に戻りました。続いて、上段に行きました。途中、名も知れない祠がありました。そして、どんどん進んで上段の集会所(日光寺)に行きました。この集会所にはかつて尼さんが住んでいたことがあるそうです。

      上段の女体社        上段の天神社           上段の祠
  

 この集会所の下を見ると木札が一枚落ちていました。その木札を見ると、平和第xxx番と書かれているではありませんか。xxxがどうしても読めません。そこで、たまたま持って来ていた平和八十八ヶ所霊場表をみました。すると、「四十五番仁光寺大羽野」と書かれていました。その前が大和町佐田で次が余田ですので、これに違いありません。日光寺と仁光寺、よく似ています?

     上段の御旅所      ためいけ傍の鳥居と祠       急斜面上にある祠
  

 次に、上段集会所から女体社に行きました。不思議で妖しい名前です。上段の方に聞きましたが、その由来を知っている方は誰もいません。さらに、女体社の上の方にある天神社に行きました。女体社と天神社の間は全て石段にです。採石場があった岩永地区の石が使われたそうです。上段集会所近くに慶長xxと刻まれた祠がありますので、安土桃山時代にはすでに人が住んでいたようです。

             小行司多賀神社から見下ろした田布施や平生湾方面


 上段の次に小行司に行くことにしました。その道の途中に御旅所がありました。やや傾いているので、今は使われていないようです。塩田と上段の境に近くにあるため池の祠を訪れました。文政年間に建てられたと思われる、立派な石鳥居が建っています。その祠と向かい合うようにある祠にも行きました。その祠、見上げるような急斜面上にあるため登っていると足が引きつります。その祠、傍に壊れた瓦などが散乱していました。

   天寿の松を祀る鳥居     小行司の多賀神社      お祓いを受ける参拝者
  

 ため池を過ぎると、峠の道を右に曲がって小行司に行きました。途中、生野の集落を過ぎました。最初、多賀神社に行きました。ここからは、余田,田布施の街並み,平生湾,そして馬島など周防灘の島々がよく見下ろせます。さきほどまでいた坪曽や惣津も見えました。上段は山陰に隠れて見えませんでした。

   郷江の荒神社1?         郷江の荒神社2?       市明の荒神社
  

 多賀神社にお詣りする前に、天寿の松と夫婦松を祀った鳥居を見ました。そして、その傍にある山桜の大木を見ました。この付近は標高300mほどで、雪が溶けずに残っていました。久しぶりに雪を手に乗せてみました。多賀神社に着くと、意外にも参拝する人が多くいました。お賽銭をあげるのに順番待ちでした。宮司さんもいて参拝客にお祓いをしていました。

                  石城山の城南側麓に鎮座する石ノ口八幡宮


 多賀神社の次は小行司の神社を訪れました。最初、旧小行司小学校跡地の近くにある郷江の荒神社に行きました。ただ、祠が二つあり、どちらが荒神社から分かりませんでした。今度来たときに地元の方にお聞きしよう思います。そして、次に旧小行司小学校跡地からにこにこパーク側に500m位進んだ場所にある市明の荒神社に行きました。この荒神社は石鳥居も建物もなかなか立派です。数年前に、周りの樹木をすべて伐採したようです。見晴らしがとても良い山の上にあります。

大権現の巨大石鳥居残骸  石ノ口八幡宮隣りの荒神社  防陽と平和を兼ねる八幡寺
  

 小行司の神社などのお詣りが済むと、大波野に戻って城南に行くことにしました。城南で最初に行ったのは石ノ口八幡宮です。石垣などがなかなか立派な神社です。石ノ口八幡宮本殿傍に荒神社があります。そして、本殿から境内を下った場所に八幡寺があります。その寺を見学すると、柱に木札が打ち付けてありました。読みにくいのですが、「平和第xx五番」と書かれていました。平和八十八ヶ所霊場表に書かれている「七十五番大師堂石の口」に違いありません。ちなみに防陽霊場の三十二番霊場札所でもあります。防陽霊場と平和霊場を兼ねているようです。

        幕末にハゼの実ろうを生産したであろうハゼの巨木と、それを守った祠


 ところで、石ノ口神社に行く前に宿井を通ったのですが、天行居近くの鉄塔がある場所に巨大な石鳥居の残骸があります。残骸の一部には「大権現」と書かれています。残骸と言っても粉々になっているのではなく組み立てることができそうです。何かの工事中に倒れたとのこと。かつて、この石鳥居の下をくぐって石城山に登っていたそうです。

    後西山の妙見神社      後西山の稲荷神社    木の井山古墳近くの妙見宮
  

 石ノ口八幡宮を出る頃にはだいぶ日が傾いてきました。急いで城南川西地区に行きました。途中、ハゼの巨木前を通過しました。せっかくなので、この巨木下にある祠もお詣りしました。この祠が、ハゼの巨木を伐採から守ったとの話が残っています。幕末を知る貴重なハゼの巨木とそれを守った祠です。

   蓮池寺境内の祠          田布施川沿いの祠      竹重の天王社
  

 城南小学校前を過ぎ線路をまたぐと、川西後西山の妙見神社に行きました。この神社は西山林道の途中にあり、後西山から舗装道路がこの神社まで続いています。途中、後西山の稲荷神社もお詣りしました。次に、木の井山古墳近くにある妙見社に行きました。山の中にあるにしてはなかなか立派な石鳥居です。この石鳥居には妙見宮と刻まれています。

              今回お詣りした大波野の惣津,上段地区


 続いて、蓮池寺に行きました。お寺なのですが、どういう訳か石の祠があります。神仏一体のお寺なのでしょうか。続いて、瀬戸の田布施川沿いにある祠をお詣りしました。そして最後に、元日お詣りするのを忘れた麻郷竹重の天王社に行きました。この頃になると、五時を過ぎていたため薄暗くなっていました。やれやれ!疲れた正月三が日でした。

                 今回お詣りした、小行司,城南地区

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田布施町 麻里府~西田布施の神社などをお詣り

2015年01月03日 | ふるさと

                   八尋石八幡宮


 お正月2日目、今日は麻里府から西田布施にかけての神社などをお詣りしました。元旦より寒く、粉雪が時々舞う中をあちこち回りました。最初、昨日うっかり忘れていた麻郷戎ヶ下の菅原社を最初にお詣りしました。この神社境内に田布施町の記録がタイムカプセルとして埋蔵されています。いつ掘り出すのでしょうか。100年後かな?同じ菅原社の境内に祠があります。祠内を見ると恵比寿様のような像が安置されています。

 田布施町の記録が埋蔵された菅原社            恵比寿様?の祠
 

 戎ヶ下の次に麻里府漁港に行きました。お正月だけあって漁港関係者は誰もいませんでした。ここに来た理由は、漁船にしめ縄か何かが飾られているかどうかを調べるためです。一隻だけ舳先が飾られていました。松と何かの葉のお飾りです。車にしめ縄を飾るように、船にも松飾りを飾るようです。

             舳先が飾られた漁船(一番手前の漁船)、麻里府漁港


 漁船を見たついでに海岸の砂浜を歩いてみました。私が子供の頃、今ほど砂がありませんでした。小石がごろごろしていて、その石の間にオコゼがいるのです。私は、そのオコゼを踏んで足先がひきつるほど痛かったことがあります。海水浴場があり飛び込み台があったように記憶しています。そして、毎年夏にこの海岸で臨海学校がありました。今は各小学校にプールがあるので、臨海学校はないのではないかと思います。

   麻里府の海岸と砂浜       尾津西の住吉神社        上組の妙見神社
  

 麻里府の砂浜を楽しむと、麻里府小学校校門正面の住吉神社に行きました。ちゃんと国旗が掲げられていました。続いて、上組(中郷かも?)の妙見神社に行きました。昔、この広場で佐賀の神舞を踊ってもらったことがあるそうです。佐賀田名の神舞でしょうか。田名の神舞は、田名地区が海軍(回天の基地)に接収されたこともあり戦後絶えてしまいました。麻里府上組の方々は、この妙見神社で盆踊りをしているそうです。

     姥ヶ盥の祠          八雲八幡              戸倉神社
  

 妙見神社を過ぎて、麻里府から竹尾に入りました。そして、川筋にある姥ヶ盥の祠に行きました。千坊山に住んでいた山姥が石城山に引っ越す途中にここで休憩したとの伝説があります。川が二段の滝になっており、椅子のように見えるからかも知れません。また女性の部分にたとえられている民話もあるようです。続いて八雲八幡に寄り、石段がとても急な戸倉神社に行きました。この石段を登っていると息がハアハア、とても疲れました。

                国木小学校跡地から登った多賀神社


 戸倉神社にお詣りした後、道すがら田布施町郷土館長Nさんの家に寄って新年の挨拶をしました。訪問すると、親戚の方々が来訪中でとても賑やかでした。珈琲をいただくなど15分位お邪魔をしました。ご家族ご親族が歓談中の所、すみませんでした。
 Nさん宅を出て旧国木小学校跡地に向かっていると、中学高校時代の同級生O君に出会いました。O君は、私の事が全く分からなかったようです。しばらく話をしていると、私の事を思い出したようでした。

    多賀神社後背の祠     多賀山の不思議な祠?    V字型にえぐられた山道
  

 旧国木小学校跡地に着くと多賀神社を目指しました。V字型にえぐられた山道が所々にある道を登りました。休まず歩くと足が疲れます。ハアハア言いながら登っていると、多賀神社に到着です。少し休んだ後、後背にある祠を見学しました。左石扉に「多賀大明神」、右石扉に「田布施一郷」と刻まれていました。ついでに、多賀山頂の三角点を見てきました。さらに多賀神社から30m位離れた場所にある不思議な石の祠のような物も見学しました。

                  何家族か初詣中の八尋石八幡宮


 多賀神社に登る時、遍照院がどこにあるのか探すように歩きました。しかし、見当たらなかったため旧国木小学校近くに住んでいる方にお聞きしました。すると、普通の民家のような家が遍照院でした。お遍路像があるのでそれとなく分かりました。続いて、八尋石八幡宮に行きました。

八尋石八幡宮本殿でお祓いを受ける家族        御神輿が置かれた別殿
 

 八尋石八幡宮には宮司さんがおられ、初詣された方々がお祓いを受けていました。私は、お賽銭を入れて神社の周りをあちこち散策しました。神社後ろにも石鳥居があり、その向こうに三方に分かれる道が続いていました。その一つを歩いて行くと、長椅子がある山の斜面に出ました。石城山方面が見渡せました。

    西條稲荷神社       詩情公園の椙山稲荷神社       岸邸隣の祠
  

 八尋石八幡宮を出ると、西條稲荷神社に行きました。西田布施でも麻郷竹重に近いのであちこち道を迷いながら行きました。城電気の後ろの山にある稲荷神社です。この頃になると、少し日が陰ってきました。時々粉雪が舞っていました。次に詩情公園の上にある椙山稲荷神社に行きました。中央公民館近くから登りました。この公園から田布施の街並みが見下ろせます。一昨年から去年にかけてウォーキングした赤子山琴石山三ヶ岳などがよく見えました。

               詩情公園山頂から田布施の街並みや山を遠望


 続いて、詩情公園を西側に降りて岸邸前に下りました。途中、祠に寄りました。岸家代々のお墓の西隣りにある祠です。そのまま中央公民館に戻ると、今度は田布施街に入りました。最初、八坂神社(通称祇園様)に行きました。ちなみに石鳥居には祇園宮と刻まれています。八坂神社にお参りすると、隣りにある祠と、石鳥居がある御嶽教田布施稲荷教会に行きました。

   八坂神社(通称祇園様)   八坂神社傍にある祠      御嶽教田布施稲荷教会 
  

 田布施街内のかつての市を示す祠に行きました。最初に波野市の名前が地区名として残る祠です。このあたりでかつて、波野市と呼ばれる市があったのです。次に、天神近くの恵比寿様の祠にも寄りました。この祠近くで田布施市があったことの証です。かつて、天神祭が行われる日に市が開かれていたようです。田布施庁舎がここにあった頃、天神祭と市で相当な賑わいだったことでしょう。雑貨や農機具などいろいろな物が出されていたそうです。出店する人、買う人などが大勢集まっていたそうです。

          波野市の祠                   田布施市恵比寿様の祠
 

 次に、田布施街の東のはずれにある菅原天神社に行きました。私が子供の頃、牛車が出るなどとても賑わっていたことを覚えています。祖母に連れられて平生人島から歩いてこのお祭りを見に来ました。祖母と二人だけのお楽しみでした。祖母と歩いた道を今でも覚えています。その昔、天神様の境内には松の大木が這うように生えていました。しかし、松食い虫にやられてみんな枯れてしまいました。残念です。でもソテツだけは昔のまま残っているのが救いです。菅原天神の裏にひっそりとある祠も今回丹念に見ました。

                牛車が出るなど、とても賑やかだった菅原天神社


 菅原天神を出ると、大波野に向かいました。そして、線路を横切って八幡八幡宮に行きました。遅い時間のため誰もいませんでした。本殿に置かれたお守り類は売り切れでした。破魔矢が10本位売れ残っていました。
 この神社で面白い発見をしました。車が出入りする近くの建物は何だろうと近づくと、なんと南平和十五番霊場札所でした。びっくりしました。十一番ヶ所霊場が麻郷の戎ヶ下です。十二~十四番霊場はどこなのでしょう。新たな謎が出てきました。 

   菅原天神社裏の祠      大波野の八幡八幡宮     南平和十五番霊場札所
  

 八幡八幡宮を出る頃にはだいぶ日が傾いて暗くなってきていました。次に、八和田の稲荷社に行きました。稲荷社に向かう小道を探し当てて、暗くなった山道を進みました。周りは竹藪だらけです。竹がきしむ音が不気味に響きます。粉雪が舞う中、稲荷社に着きました。石鳥居に宝暦十年(1760年)と刻まれていました。江戸時代中期にはこのお稲荷様があったことが分かります。

       八和田の稲荷社              灸川沿いの田んぼにある流れ恵比寿
 

 暗くさびしい稲荷社を出ると、最後のお詣りをしました。灸川に沿う田んぼの真ん中にある流れ恵比寿です。ここがかつて海だった頃に宮島から流れ着いた恵比寿様の伝説がある祠です。この頃になると、夕日がだいぶ傾いて日が暮れそうでした。急いで我家に戻りました。あまりに寒かったのか頭が少し痛くなりました。痛みが取れないようならば、明日は一日家で過ごそうと思います。

              今回お詣りした麻里府~西田布施方面

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田布施町 麻郷の神社などを初詣

2015年01月02日 | ふるさと

                                       高松八幡宮


 お正月、去年は田布施町麻郷の高松八幡宮,伊保庄の賀茂神社,余田の名合八幡宮,防府天満宮へお詣りしました。今年は、田布施町の神社などを中心にお詣りしてみることにしました。今年は寝正月と決めたので、午前中はほとんど寝ていました。10時頃に起床して、最初に高松八幡宮に行きました。この神社は麻郷一の神社なので、たくさんの参拝者で溢れていました。

                 たくさんの参拝者で溢れた高松八幡宮


 高松八幡宮が盛んなのは、宮司さんとその娘さんのお二人が神職を持っており、麻郷を中心とした神社をはじめ小さな祠も含めて祷られているからではないかと私なりに思っています。そして、毎年の秋祭りなどで地元の方に愛されているからではないかと思います。
 今回の初詣、私は車のお守りと神宮暦を購入しました。神宮暦には神社に関わるお祭り,日の出など太陽や月の動き,農業の豆知識,庚申暦などが書かれています。ところで、今年は庚申暦で平成二十七年乙未です。庚申暦で乙未は60年に一度訪れます。つまり、今年61歳の方が生まれた年は乙未なのです。この庚申暦は江戸時代以前の碑文によく書かれているため、古い年代を特定するには欠かせない暦です。

      本殿でお祓いを受けてい方々        私が購入したお守りと神宮暦
 

 午前中に高松八幡宮にお詣りし、午後から麻郷にある例えば荒神様,祇園様,天神様,天王社,金毘羅社,稲荷神社などを、私が知っている範囲でなるべく多くお詣りしました。初めに、私が住んでいる高塔から八海方面に向かいました。そして、隣町平生の人島を通りました。一番目は祇園牛頭天王社で,次に八海天神社,そして荒砂神社に行きました。

  高塔の祇園牛頭天王社     八海の八海天神社       人島の荒砂神社
  

 次に田布施川の灸川河口に行きました。ここにかつて神社がありました。近くの方に聞くと、何年か前に田布施の天神様にお返ししたそうです。今はわずかに手水石とソテツが残っています。続いて川添橋を渡って浮島神社に行きました。ちゃんと国旗が掲揚されていました。ひねきり明神と呼ばれていた時代の浮島神社を知りたいものです。
 次に新川地区にある神社を訪れました。何と呼ばれている神社なのでしょうか。いずれ調べてみたいものです。石鳥居には文政十年(1827年)と刻まれています。このため、幕末にはこの神社があったことが分かります。

   灸川河口の神社跡     浮島神社(ひねきり明神)        新川の神社
  

 次に三宅に行きました。祇園山の石段を登って祇園様に行きました。広場は相変わらず草が刈られておらず、屋根は一部朽ちてぶら下がった状態でした。山を下りると、荒神様に行きました。扉にしめ縄が飾ってありました。地元の方が飾ったのでしょう。次に、尾迫の稲荷神社に行きました。しめ縄が張られて綺麗されていましたが、お詣りする方は少ないようでした。 

   崩れかけた祇園様       三宅の荒神様           尾迫の稲荷神社
  

 次に、麻郷小学校西隣の山の上にある小さな神社に行きました。近くに住む友達に聞くと、「神臥(じんが)さー」と呼んでいるようです。三宅の祇園様を管理している班を特別に「神臥(じんが)班」と呼んでいます。かつて神に仕えるような何かがあったのでしょうか。どんな由来があるのでしょうか。

              麻郷小学校西側の山の上にある神臥(じんが)さー


 次に蓮輪にあるお志南稲荷大明神に行きました。大正時代この稲荷神社前には広場があったそうです。この地区の方々は神舞をしていたそうで、その広場などで舞っていたそうです。戦後舞う人もいなくなり、広場に今の舗装道路ができるなどして、かつての賑わいが無くなりました。
 次に、千手山千光寺に行きました。今回は千光寺が目的ではなく、その裏山の頂上にある金毘羅社です。かつては立派な建物があったそうです。今はブロック作りのお堂があり、かつて天井を飾っていた絵板が残されています。早々にその絵板を調査したいと思います。続いて浜城に行きました。

 蓮輪のお志南稲荷大明神     蓮輪の金毘羅社         浜城の妙躰神社
  

 浜城に着くと最初、妙躰神社に行きました。この神社は、去年城山に登った時にお詣りしました。この神社の参道を降りている時、浜城に住んでおられるIさん家族に出会いました。Iさんに城山尾根の石垣について尋ねました。すると「城山尾根の石垣上に建物があったと聞いたことがある。」とのこと。Iさんは昭和20年生まれとのことでしたので、少なくとも昭和20年台には建物が無かったことが分かります。瓦が使われていたことを考えると、大正~昭和初期までには廃されたのでしょう。浜城の古老に聞くとより正確な情報が得られるかも知れません。

 浜城の千代稲荷大明神       蓮輪の塩谷天王社         鳥越の麻郷神社
  

 Iさんに、、妙躰神社近くにある千代稲荷大明神についても聞きました。すると「昔、浜城によく火事がおきたのでこの神社を建立した。その後、火事が出なくなった。」とのことでした。その千代稲荷大明神のお詣りを済ませると、蓮輪に戻って塩谷天王社に行きました。
 次に、鳥越の高台にある麻郷神社に行きました。私が子供の頃、この神社前広場にあった灯篭が倒れて下敷きになり死にかけたことがありました。口から血を出していたので、飛んできた父親はもうダメかと思ったそうです。神様が命を救ってくれたのでしょうか、骨盤骨折や全身の軽い出血で済みました。その後、しばらく歩けませんでした。車イスなど無く、這って移動していました。この神社から平生湾が見えます。昔は田んぼが広がり向こうに海が見えました。今は、工場の向こうにわずかに海が見えます。

   かつて田んぼが広がりその向こうに海が見えた。高台の麻郷神社前広場より


 麻郷神社にお詣りすると次に、浮島神社分神とひとまる様が奉られている二つの祠に行きました。かつては浜明神とも呼ばれて建物が建っていたそうです。ひとまる様は柿元人麻呂を祀っている学問の神様です。祠内部に柿本大明神と刻まれています。人麻呂がひとまると訛ったようです。それが本当であれば浮島神社より古いのかも知れません。いつしか浮島神社の分神も兼ねるようになったようです。夏の浮島神社のお祭り時、ここで御神輿がお休みします。

   鳥越の浮島神社分神兼ひとまる様               旭の荒神様
 

 最後に旭地区にある荒神様に行きました。この神社が不思議なのは、旭にありながら管理する方々は鳥越の方々なのです。戦前に今の高塔が軍に接収された時の移転に関係があるようです。この荒神様のお祭りには、鳥越に加え旭の方々も参加するようです。そのため、旭の方々にも管理を手伝ってもらえないかとの思いが鳥越の方々にあるようです。管理しているのは5軒位に減っており、皆お年寄りばかりだそうです。この荒神様に限らず、維持管理に関わる悩みをお年寄りから多く聞きます。明日は、麻里府や西田布施方面をお詣りしようと思います。

                   今回お詣りした麻郷の神社関連

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