東京里山農業日誌

東京郊外で仕事のかたわら稲作畑作などをしていましたが、2012年4月に故郷の山口県に拠点を移して同活動をしています。

田布施町 麻里府 中郷と上組の史跡調査(2/2)

2015年01月16日 | ふるさと

 その後、Tmさん親子と上組から千坊山方面に向かってどんどん奥の方に行きました。目的は、人麻呂神社を探すことでした。ところが、行けども行けども神社らしきものが見当たりません。1ヶ所巨大な岩の窪みがあり、水が流れるように加工されている場所がありました(1番下の画像のD地点)。この窪みは何かの採掘跡かも知れません。その周りを調べましたが、石柱や礎石のようなものは見当たりませんでした。神社関連とは違うようです。

  上組から千坊山に向かう途中の田んぼ      神社跡ではなく作業小屋跡?
 

 どんどん奥に向かって進むと、広い田んぼがありました(1番下の画像のC地点)。そして、周りに崩れた棚田の石垣がたくさんありました。かつて、ここに田んぼがいくつかあったようです。壊れた農機具がいくつかありました。今、ここを耕作しているのは1人ぐらいのようです。ここの田んぼも、いつかは放棄田になり山に埋もれてしまうかもしれません。帰りに神社跡かと思った場所は、どうも作業小屋跡(1番下画像のE地点)のようでした。

               明治20年頃の麻里府上組の1部、今は人家が少ない


 人麻呂神社を探すのをあきらめました。この神社に行ったことがある方を、2ヶ月ほど前にたまたま知りました。再度、その方に聞いてみようと思います。その方の話では、おできが直る神様だったとのこと。何十年間も誰もお詣りしなかったであろう神社なので、今は雑木や草で覆われて見つからないのかなと思います。お詣りしなくなった理由があったのか、それても移築したのでしょうか。ただ言えるのは、明治時代にこの神社の周りに多くの人が住んでいました。しかし、今は無住の地になっていることです。森の暗い中に、白壁跡がうっすらと見えるだけでした。

            麻里府上組岩金じょうの観音堂、天井の隅が抜ける


 次に、上組岩金じょうの観音様に行きました。入口上に掲げられた板に、南平和八番ヶ所と書かれていました。このお堂に安置されている観音様はとても立派です。金粉が塗られているのだと思います。キラキラしています。お腹や目などの金粉がはがれて、黒い漆の地肌が出ています。相当昔から、お腹を壊した方や目を病んだ方などが触り続けてきたためでしょう。

     金粉で塗られた立派な観音様      台座 右:別府村,中:奉寄進,左:上組
 

 薬師堂を見終わると、その山の上にある不思議な墓所に行きました。守屋大人に関わると言われる大きな石碑のようなものが目立ちます。ただ、この石には何の文字も刻まれていません。周りには小さなたくさん五輪石が無造作に転がっています。この墓地は元々何だったのか全く分かりません。明治期に岩金家の名前が刻まれた墓石があるため、岩金家の古い墓所だったのかも知れません。これまた麻里府の謎の一つです。

       守屋大人の石碑?             本来はこの道から薬師堂にお詣り
 

 謎の墓地から再び薬師堂に戻りました。薬師堂の中に再度入ってみると、天井が2ヶ所抜けていることが分かりした。屋根に草が生えているため、永い間に雨水が染み込み、天井が抜けたのでしょう。修復するにも費用がかかります。今後、この薬師堂が修復されるのか心配しています。薬師堂傍に安置されているお地蔵様も調べました。台座には、「別府村と上組が奉寄進」と刻まれていました。どんな理由で寄進したのでしょうか。

                麻里府上組の成川じょうの、趣のある民家


 薬師堂からは本来のお詣りのルートをたどって山を下りました。とても急でしたが、所々階段があるため足さえしっかり踏みしめれば転げることはありません。ただし、下り坂の途中に何本もの竹が倒れていました。その竹を避けながら歩くのには難儀しました。

     大泉寺の大師堂内部                 上組から中郷に戻る道すがら
 

 今回は新たに発見した史跡がありました。雨乞い岩,十心庵跡,住吉明神社跡,上組峠の大師堂です。T氏のお話を整理した後、再度麻里府に来ようと思います。そして、見つけることができなかった、中村荒神社と人麻呂神社を見つけようと思います。今回は天気が良く、早歩きしているとじんわりと汗ばんできました。Tmの親子様、お疲れ様でした。
 ところで、麻里府や麻郷などで土地の単位に「じょう」という言葉がよく使われます。江戸時代から続く旧家の土地や場所をxxじょうと言うのです。あるいは普通名詞としても使います。例えば、「向こうじょう」は「向こう側の土地」を意味します。この言葉がずっと謎でした。漢字では「条」のようです。古代日本の区画割り制度の残滓ではないかと思われます。ある一区画を条と呼びますが、例えば横尾じょうは横尾家が治める一区画と考えれば納得がいきます。旧家が治める土地が「じょう」と深い関係にあるのです。こんな古代~江戸期の区画単位が今に残っているようなのです。

                   今回歩き回った麻里府上組

コメント (2)
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