玄関前から駐車場に続く垣根があります。何年も剪定していないため、伸び放題ですし、形は崩れているし、車が触れるほど枝がせり出してきました。どうしたものかと困っています。植木職人に頼めば費用が掛かります。そのため、垣根の形は犠牲にして伸び放題の茎や枝を思い切って切ることにしました。切ると言うよりも伐採に近いかも知れません。ちびちびと剪定バサミが刈るのは時間がかかります。そこで、小枝を刈り取りできそうなチップーソーを草刈機に取り付けて刈ることにしました。
垣根の片側を草刈機で大雑把に刈り取り
植木や庭木は剪定してあるととても綺麗です。しかし、綺麗さを保とうとすると植木職人に毎年のように頼む必要があります。八王子の我家には一本の松がありますが、時々植木屋さんに剪定を頼んでいます。松の木一本程度ならば費用的に許せますが、田布施の我家は植木が多すぎます。山には千本位の雑木が生えていると思われます。今後はどしどし伐採して、私一人でも管理できるように整理するしかありません。言わば植木や庭木の断捨離です。とにかく木々の管理は大変なのです。
車が接触するほど枝が伸びる 片側を刈り取り始める
次に法雲寺に行きました。このお寺に行った目的は、一年の安寧祈願をお願いするためでした。ところが、祈願を断られてしまいました。これにより、どのお寺でもお願いできると思っていたのは間違いであることか気がつきました。ご住職の言われることには、浄土真宗では祈願をしていないとことです。祈願をお願いできるのは、神社とかお寺であれぱ真言宗などのようでした。同じ仏教でも違いがあることを初めて知りました。次に野島神社の鳥居前に出ました。今回は時間が無かったため、丘の上にある野島神社には寄りませんでした。ちなみに、江戸時代初期の平生開作前までこのあたりは海で野島は島でした。
旧曽根小学校跡記念碑が建っている公園
次に直指院に行きました。今回は、直指院に入ってすぐ右側にあるお堂に行きました。このお堂は防陽霊場の一つで、その昔はたくさんの方々が巡礼に訪れたようです。昭和30年の初め私が幼児のころ、この院には尼さんがいました。当時体が弱かった私は、祖母に連れられてこの院によく来ていました。その尼さんが呪文か仏法の言葉を唱えながら、私の頭や肩などをさすっていたことを覚えています。今私が比較的健康なのは尼さんのおかげなのかも知れません。しかし、今は尼さんが唱える呪文や仏法が必要ない時代になってしまいました。
法雲寺を訪問 野島神社の石鳥居 直指院のお堂
曽根に向かう古道を歩いていると、道の左側に祠がありました。扉が開いており中には石仏が置いてありました。不思議なのは、扉が道に背く方向に開いていることでした。その昔、その方向にお社が建っていたのかも知れません。次に永大の運動場に行きました。ちょうどお昼になったため、誰もいない運動場に入って昼食休憩をとりました。風が吹いていてちょっと寒いためすぐに出発しました。
扉の方向が逆の祠 つばさ保育園前の道を通過
しばらく歩いていると、左手に公園が見えてきました。ここで小休止することにしました。ところが、この公園に記念碑が建っていました。その記念碑を見ると、この公園が旧曽根小学校跡地だったことが分かりました。芝生やトイレもあるし、椅子やテーブルもある公園でした。本番ウォーキング時にはこの公園で昼食休憩を取ることにしました。公園で小休止し終わると、次にゴルフ場,熊南総合事務組合資源活用センター,太陽光発電所を回り、戻ることにしました。途中、曽根のつばさ保育園傍の道を通りました。
昭和30年代の平生町の面影を巡る下見ウォーキングのコース
これまでは手芸を中心に子供達に教えていましたが、今月は調理を教えようと思います。調理と言っても素材から自分で手作りします。今回は、お汁粉に入れる団子の素材にするため、うるち米ともち米を製粉しました。手回し製粉機を使ってお米を製粉するのです。子供達は初めての製粉だったようです。わーわー言いながら、楽しそうに製粉機のハンドルを回していました。なお、お汁粉にする小豆ですが、6月に種まきして育てましたがカメムシが大発生して不作でした。そのため、やむなく購入することにしました。
楽しそうに製粉機のハンドルを回す子供達
ところで、前回渋柿の皮を剥いて作った干柿を持ってきてもらいました。どれも食べられそうなほど干柿ができていました。しかしながら、二人の子供は外で干しているうちに雨に濡れてしまったそうです。その二人には、それぞれ二個ずつ干柿を手渡しました。手渡す時、干柿を手でもみもみするとより美味しくなることを言っておきました。
美味しそうな干柿 うるち米を手回し製粉 もち米を手回し製粉
手回し製粉機を二つ使って製粉しました。子供四人あたり一つの製粉機です。一つの製粉機でうるち米を製粉しました。もう片方の製粉機で、もち米を製粉しました。どの製粉機も一度では細かな粉にはなりません。最初に荒く砕き、次に細かく砕き、何度かこれを繰り返して最後に微粉にします。最低五回位は製粉を繰り返す必要があります。荒く砕く時はゴリゴリする音が出ますが、微粉になるとだんだんサーサーする音に変わります。
もち米を製粉して上新粉に うるち米を製粉して団子用粉に
ついでに小麦も製粉しました。この小麦は以前、子供に種まきしてもらい育てたものです。その粉で作った団子もお汁粉に入れてみようと思います。各団子の食べやすさ、美味しさ、味の違いなどを体験してもらおうと思っています。次の成器塾では、今回作った粉に水を加えて団子にします。そして、お汁粉に団子を入れてみんなで食べようと思っています。美味しいお汁粉ができるでしょうか。
だんだん細かい微粉に コップで粉をすくう 三つの袋で粉を保管
単糸2本を双糸に紡ぐ前に、片方の単糸を濃く藍染めしました。藍染めは気温が暖かい夏にすることが多いですが、夏まで待っておれません。そのため、鍋を使って藍染めをしました。使ったのは2年前ほど前に収穫した藍の葉を乾燥したものです。私の藍染めは、自分の畑で収穫した藍の葉を使います。購入した藍や科学的に合成された藍(インディゴ)を使いません。一度では濃く染まらないため、何度か染めを繰り返して濃く染めました。今回は5回程度染めを繰り返しました。
双糸に紡ぐ前に、片方の単糸を濃く藍染め
私の冬の藍染め方法は、単糸1束が入る程度の小さめの電気鍋(ステンレス)を使います。温度調節ができるタイプの鍋です。水温が70度位に設定して使います。最初、70度に設定した熱めのお湯に5分程度藍の乾燥葉を浸しておきます。すると、あくが出るのか水が薄く茶色に染まります。その茶色の水を全て捨てた後に水を入れます。再び水温70度位に上がるとソーダ灰などを入れます。その後、数分間かき混ぜていると水面が虹色になる瞬間があります。この瞬間に単糸の束を入れます。なお、単糸はあらかじめ水で湿らせ絞っておきます。
温水に浸した藍葉 茶色の水を捨てる 単糸の束を入れる
最初、毛糸の束は黄色に染まっています。そのまま空気に当てていると、だんだん青色に変色していきます。一度では薄い青色ですが、何度か染めを繰り返すと濃い青色になります。希望の濃さに染まると、流水に入れて藍の葉の残渣を洗い流します。そして、天日で毛糸の束を乾燥しました。これで、片方の単糸を濃い青色に染めることができました。次に、白い色の単糸と濃い藍色の単糸をZ撚りとS撚りの二つの双糸に紡ぐことにしました。
一度目は薄い藍色に 染めを繰り返し、濃い藍色に
お地蔵様3の隣には小川今藏旧家跡碑が建っています。現在では考えられませんが、小川今藏は平生に住んでいながら麻里府村長をしていました。当時はその地域に住んでいなくても村長になれたようです。彼は國木田独歩と関わりが深く、独歩から小川今藏宛の手紙が郷土館に残されています。また、小川家は吉見家と親戚関係があり、その縁で國木田独歩は麻郷高塔の吉見家に仮寓することができました。國木田独歩の小説「酒中日記」に彼の名前が使われています。その他、國木田独歩と関りが深かった平生町の人に画家の岡落葉がいます。彼は今、平生町の真覚寺に眠っています。
本堂が倒壊し、今や山門しか残っていない法輪寺
小川今藏旧家跡碑を過ぎると、小さな丘の上にある法輪寺跡に行きました。50段位の石段を上がって山門をくぐって行きました。10年位前にも行きましたが、その時は本堂が倒壊した直後だったのか、本堂の屋根の一部がまだ残っていました。しかし、今は本堂がどこにあったのか分かないほど雑草が生い茂っていました。倒壊した本堂を解体整理したのでしょう。その更地に雑草が茂ったようです。今や門徒が誰もいない廃寺なのでしょう。このお寺は、江戸時代の平生湾干拓工事中に亡くなった方々を葬ったそうです。当時は今のようにドライアイスがありません。遠地から雇われて来て亡くなった人夫さんを平生で葬ったようです。
お地蔵様3と右下石碑 小川今藏家跡碑 平生郵便局跡地碑
ところで、法輪寺は防陽八十八箇所霊場の札所の一つです。その昔は巡礼者が多かったのではないかと思います。直指院から知願寺への途中の札所として巡礼していたのでしょう。祖母は私をよくお寺に連れて行きましたが、巡礼には連れて行きませんでした。巡礼するほどには仏様を信じていなかったのかも知れません。あるいは農業などの仕事で巡礼どころではなかったのでしょう。昔の話を聞くと、庄屋などのゆとりのある裕福な人だけが巡礼できたようです。
土手地区の復元南蛮樋 土手地区のお地蔵様4
次に郵便局跡に行きました。この周辺は昭和30代とても賑やかな場所でした。たくさんのお店があり、平生町で一番人通りが多かった場所でした。自転車屋、薬屋、靴屋、駄菓子屋、氷屋、旅館などが軒を並べていました。何を運んだのか、馬車が通っていたことを覚えています。当時は平生座がありました。映画や演劇が終わると、平生座から帰る人がどっとこの通りを歩いて帰っていました。私は幼児の頃、かつての平生座で演じたことがあります。さて、昔の賑わいがすっかり無くなってしまった通りを南へ行きました。途中、復元された南蛮樋やお地蔵様4を見たりして法雲寺に向かいました。
昭和30年代の平生町の面影を巡る下見ウォーキングのコース
二回目のほぼろ製作講習会で皆さんを教えた後、みなさんを追いかけるように、中位の大きさのほぼろを作り始めました。同じようにワラを叩いて、ワラくずを取り、そのワラに水をかけて柔らかくしました。そして、同じように馬を使って次々にワラを重ねながら編んでいきました。編み終わると、馬から切り離しました。最後に、底部を蜘蛛の巣のように編み込んで完成です。完成したほぼろは、ワラをいただいた地元の方を差し上げました。喜んでいただけました。
底の内側を蜘蛛の巣のように編み込むとほぼろは完成
ほぼろを作る上で、難しいのは底部の編み込みです。ワラが中心で盛り上がらないように、目分量でワラの中心部を切り取ります。かと言って切りすぎると、中心部がスカスカになり底が抜けてしまいます。底部は最初、底の外側から編みます。まずは、底を円状にチェーンステッチで編みます。昔は交差しながら編んでいましたので、交差編みしてもかまいません。チェーンステッチの方が経験上より丈夫に編むことができます。
ワラを中央に寄せる 底部を蜘蛛の巣編み 最後に裏を編み込む
円状に硬く丈夫に編むと、次にその編み箇所から蜘蛛の巣のように編みます。中心部に向かって編んでいきます。きつく引っ張るようにして編みます。きつく編むことによって丈夫な底になり、重いものを入れても底が抜けることはありません。最後にほぼろの底部の内側を同じように蜘蛛の巣編みします。内側はとても狭いため、鉤針を使わないと編めません。このようにして一つほぼろを完成させました。完成したほぼろは、ワラをいただいた近所の方に差し上げました。今回の経験を元に、正式なほぼろ製作講習会を4月頃に開催しようと思っています。広報などで公募しようと思っています。
鉤針で内側の底部を編み込み 完成した中型のほぼろ
撚りの方向によって双糸がどう変わるのか実際に試してみることにしました。そのため、もう一度単糸を紡いでから双糸にしてみました。まずは、単糸を30m位紡ぎました。その単糸をかせくり器にかけてから二つに切り分けました。そして、片方の束を染色します。その後、染色していない単糸と染色した単糸の、撚りの方向を変えた二つの双糸を紡ぎます。そうすることによって、紡ぎ上がった二つの双糸の違いを見ようと思います。
かせくり器にかけて二つの束に分けた単糸
誤って紡いだ双糸(下撚りも上撚りもZ撚り)は100m以上もあります。ほどくのは大変です。そのため、あらたに単糸を紡ぎました。長さは目算ですが30m位紡いだZ撚りの単糸です。使ったのは海田ファームの羊(きなこ)の羊毛です。田布施農工高校の羊よりも紡ぎやすいので重宝しています。ところで、誤って紡いだ経糸は何かに使えるかも知れません。そのため、捨てないで取っておこうと思います。
羊(きなこ)の毛糸 かせくり器にかける 毛糸の端を結ぶ
あらためて足踏み紡ぎ機で紡いだ毛糸はボビンに巻かれています。そのボビンから毛糸をほどきながら、かせくり器に巻いていきました。およそ半分位巻いたら毛糸を切り離しました。そして、毛糸の端と端を結び、束がほつれないように赤色の毛糸で二ヶ所結びました。これで、かせくり器から外すことができます。残りの毛糸もかせくり器に巻き付けて同じように束にしました。出来上がった二つの束の毛糸の片方を、次に濃く藍染めします。
ほつれないように赤糸で二ヶ所結ぶ 毛糸をかせくり器から外す
去年コロナ惨禍で開催できなかった新春たこあげ大会、子ども会育成連絡協議会主催で二年ぶりに開催されました。雲一つない紺碧の空の下でのたこあげ大会でした。私は、子供達が作ったたこの「デザイン賞」と「よく飛んだで賞」の審査員と一人として参加しました。ついでに、一昨年作ったたこを持参して参加しました。開会式終了後、幼児クラス,低学年クラス,そして高学年クラスが順にたこあげをしました。残念ながら風が弱めでしたので、それほど高くは揚がりませんでした。でも、子供達は去年自作したたこを一生懸揚げていました。
青空の中、たこを一生懸命に揚げる子供達
この元旦、田布施町内をとぼとぼと30km位ウォーキングしてみました。歩いている時、たこあげをしている姿を誰一人として見かけることがありませんでした。さらに、駒回しや羽根つきなどのお正月の遊びをしている姿もありませんでした。私が子供の頃に比べて、今の子供達は外で遊んだり、群れて遊ぶことが無いように思います。
たこあげ大会開会式 元気よくたこあげ 一昨年作った私のたこ
たこあげが終わると「デザイン賞」と「よく飛んだで賞」の二つの賞が発表され、賞状と景品が渡されました。ところで、今回のたこあげ大会は48回目です。この回数を考えると、48年前にはすでにたこあげする子供が少なくなる傾向があったのでしょう。今回参加した子供達の保護者は40歳前後だと思います。親世代が子供の時にすでにたこあげをしなかったのしょうから、その子供達がたこあげしなくても当然かなとも思えます。
たこあげの表彰式と閉会式 デザイン賞のたこと子供達
今年は、史跡を巡るウォーキングクラブ(正式名:健康ウォーキングクラブ)を立ち上げてから10年経つ記念すべき年です。10年前、介護別居のため田布施町に帰省しました。暮らし始めてすぐ、どこかのウォーキングクラブに入ろうと田布施町や平生町をいろいろと探しました。しかし、そのようなクラブはいくら探してもありませんでした。ところが、とあるスポーツ用品店に勤める方から「それなら、ウォーキングクラブを立ち上げてみては?」とアドバイスされました。それが史跡を巡るウォーキングクラブを立ち上げるきっかけとなりました。その後10年間も続いています。ありがたいことです。
江戸時代初期まで海に浮んでいた島の上に建つ久賀島神社
今年初めての史跡巡りウォーキングは、平生町内の昭和30年代を思い出す史跡を巡るウォーキングとして企画しました。実は、私は昭和30年代初め平生保育園の園児でした。その平生保育園時代、平生町内を通って、国道188号線を歩き、今は無い人島橋(八海橋の400位m上流)を渡り、ほぼ毎日通園しました。当時の園児は歩いていたのです。通う道すがら、海岸線に数多くあった塩田を見たり、その塩田で働くたくさんの浜子さんを見ました。国道188号線がようやく舗装され始めた頃でした。途中に畑があり、祖母がよく迎えに来てくれていました。畑を耕している祖母が見えると園児ながら嬉しかったものです。祖母の押す猫車にちょこんと乗って帰りました。
スタートはMaxValue 道端のお地蔵様1 聖観音菩薩堂
当時の平生保育園は、今の平生町教育委員会の近くにありました。また、当時の旧習成中学校の北側にありました。園長先生は真覚寺のご住職でした。ちなみに真覚寺内には幼稚園がありました。保育園には確か年少の頃から通っていたので、4年間お世話になったことになります。当時の保育園には保母さん二人にお手伝いするおばあさんが一人勤めていました。
お地蔵様2 久賀島神社の鳥居
さて、MaxValueをスタートすると私が園児時代に通った平生町内の道を南に進みました。最初に、お地蔵様1に行きました。当時、お地蔵様1近くに子供好きなお婆さんが住む駄菓子屋がありました。近くに古本屋さんもあり、小学生の頃によく借りに来ていました。少年マガジンなど数冊を30円位で借りていたように思います。次に聖観音菩薩堂に行きました。昭和50年頃までは山門があったようですが、倒壊したのか今は撤去されてありませんでした。その後、お地蔵様2や久賀島神社を参拝しました。続いて、お地蔵様3や國木田独歩と関りがあった小川今藏宅跡碑を見ました。そして、郵便局跡に向かいました。
昭和30年代の平生町の面影を巡る下見ウォーキングのコース
5月に3人でほぼろを試作した時は、午後16時までに1日で完成しました。しかし、11月に開催したお試しほぼろ製作講習会では、1日で完成できませんでした。人により制作の進み具合に違いがあるためです。1日で完成するためには遅くとも朝9時には製作開始する必要があるようです。さらに、早く製作できるよう工夫する必要もあることが分かってきました。
今回は、前回から引き続いて製作する方と今回初めて製作する人が集まりました。ところで、4月か5月の広報で「はぼろ製作講習会」の受講者を公募する予定です。しかし、コロナ発症者が増え始めました。この春までに収束するでしょうか?予定通り開催できるか不安です。
ほぼろ製作を最初から始めた方、前回から継続する方
引き続いて製作する方には、前回一通り制作方法を教えました。そのため、自分で自主的に制作してもらいました。私は今回初めて製作する方に付いて教えました。わらを叩いて柔らかくする方法から順番に教えました。
ワラを木槌で何度も叩く ワラのみごを取る 水をかけて柔らかく
私は、初めてほぼろを作る方の指導をしたり、引き続いてほぼろを作る方の指導を時々しました。しかし、指導してばかりでは自分のほぼろを製作できません。そのため、指導の合間をみながらほぼろを作りました。みなさんに追いつくように急いで作りました。
ワラを重ねるように次々に編む 編み終わると端を切断
その後、荒神社を探してさらに道を登って行きました。そして、山の上の方を見ると、光景が一新していることに気か付きました。道が新しくなるのと並行して田んぼや畑の区画整理工事中でした。昔の光景がすっかり変わってしまいました。そのため史跡を探索する意欲がそがれてきました。計画を変更して、古い街道を通って旧柳井南中学校方面に戻ることにしました。この街道は、かつて柳井と伊保荘を結ぶ道でした。緩やかな街道を下っていると、右手に廃寺跡を見つけました。山門,塀,そして本殿などの建物はありませんでしたが、お地蔵様や住職の墓石などがありました。浄念寺跡でした。
住職の墓石やお地蔵様があった廃寺浄念寺の跡
浄念寺は、旧楠庵から続く防陽八十八ヶ所霊場の一つでした。そして、十王堂の一つ前の霊場でした。こんなところに浄念寺跡があったとは知りませんでした。偶然にも浄念寺跡前の街道を歩いたのでした。かつてはお寺でしたが、今は個人宅の庭のように見受けられました。何らかの理由でお寺を維持できなくなったのでしょう。浄念寺跡を過ぎると、お地蔵様が安置された角を曲がって県道に向かいました。
静かな荒神社 道端のお地蔵様 宮田遺跡碑
しばらく歩くと県道に出ました。県道を柳井方面に歩いていると、旧柳井南中学校の門に着きました。その門傍に宮田遺跡碑を立っていました。宮田遺跡は縄文遺跡です。近くには同じく縄文遺跡である黒島遺跡があります。その縄文遺跡碑を見終わると、県道を離れてサザンセト伊保荘マリンバークに向かいました。海岸に沿って歩いているとお地蔵様が安置されていました。
サザンセト伊保荘近くのお地蔵様 黒島の浄念寺のお堂
海岸に沿って道を歩いていると、サザンセト伊保荘マリンバークの駐車場に出ました。その駐車場に出ると黒島下に浄念寺のお堂がありました。このお堂は、浄念寺が廃寺になった後に建てられたのでしょう。その昔に門徒が念仏に使っていた数珠が置かれていました。長さが数mある数珠なので、門徒同士が数珠を回しながら念仏を唱えていたのでしょう。浄念寺のお堂を見終わると、黒島神社にお参り後、黒島遺跡碑を見てからスタート地点に戻りました。
柳井市伊保庄の山間部の史跡調査をしたルート
山の下草刈りや畑の残渣を片付けると、燃やすものが増えます。ゴミに出してもよいのですが、焚火にして焼けば灰となり肥料の一部になります。今回は枯れた竹を主に燃やしました。伐採した幹などは火持ちしますまが、竹はすぐに燃え尽きてしまいます。そして、枯れて日が浅い竹は火で爆裂することがあります。そのため、火で燃やす前にドリルで各節ごと穴を開けておきます。今年はたくさんの枯れた木々や残渣が出そうです。3月末までには燃やし尽くそうと思います。
枯れた竹を主に燃やしながら暖をとる
私が子供の頃ですが、小学4年生の時から毎日の風呂焚きが仕事でした。晴れの日も雨の日も風呂焚きでした。風呂焚きする前準備として前日の風呂水を流しました。流し終わると、たわしで綺麗に掃除しました。その掃除が終わると井戸水を汲んでお風呂に入れていました。最初はバケツで水を入れていましたが、じきに手押しポンプになり、次にモーターで動かすポンプで水を入れるようになりました。
この頃(昭和30年代)からすごい勢いで家庭が電化されるようになりました。洗濯機、冷蔵庫、そしてテレビなどです。農業も、牛から耕運機へ、さらにトラクターへと、また三輪のミゼットも加わり、農作業の機械化がどんどん進みました。中学生の時には自家用車も加わりました。あれだけ毎日時間を費やした風呂焚きは、今や電気でスイッチポンです。座って暖かい焚火の炎を見つめていると、刻々と変わってきた時代の変化を思い出します。
不要な段ボールも燃やす 19時には火を消す
今日も朝から箱根駅伝をみました。私が応援する中央と青学、青学は見事優勝しましたが、中央は最後の区間で追い抜かれて6位でした。残念でしたが、シードは確保しましたし、ハラハラしながらも楽しませてもらったので良しとしました。
さて、先月双糸の紡ぎ方を間違えました。そのため、糸を双糸にする上で必要な撚りの知識(上撚り、下撚り、Z撚り、S撚り)を実際に確認してみました。毛糸は細くて見えにくいので、ワラを撚って確認しました。先月しめ縄を作った通りにワラを撚ってみました。すると、これまで自分でまったく気が付かないで、下撚りはZ撚りで上撚りはS撚りにしていました。毛糸だろうがしめ縄だろうが、こう撚ると丈夫な紐になるようです。不思議なのは、遺伝子は下撚りも上撚りもZ撚りになっているようです(2重らせん)。だから遺伝子は細胞内でほどけやすいのでしょうね。
ワラを使って、撚りの関係を実際に確認
しめ縄の撚りを確認し終わると、実際に私が紡いだ毛糸(単糸)を観察しました。もちろんZ撚りになっています。これは繊維が右回りに撚ってあることを示します。足踏み紡ぎ機のボビンを右回りに高速回転させて紡いでいるため当然の結果です。そして、その単糸2本を合わせて紡いだ双糸を見ました。ボビンを右回りに回転させてつむいだためZ撚りになっています。だから失敗作の双糸なのです。
紡いだ毛糸(単糸) Z撚りの単糸 Z撚りの双糸
下撚りも上撚りもZ撚りにした糸の状態を確かめました。まずは、ワラ縄を下撚りも上撚りもZ撚りにしてみました。すると、ちゃんとした縄になりません。二つの単糸がねじれ合わないのです。私が誤って紡いた双糸も、二つの単糸が撚り合わず分離してしまいます。せっかく紡いだ双糸、きっぱりと捨てるか撚り戻してS撚りに紡ぎ直すかです。
せっかく紡いだ単糸なので、双糸を解いて単糸2本に戻そうかと思っています。多大な手間ですが勉強代です。再度、今度はS撚りにして双糸を紡いでみようかと思います。
下撚りも上撚りもZ撚りのワラ縄 単糸が分離してしまう失敗作の双糸
お正月2日目の午前、箱根駅伝を見て過ごしました。私は中央大学と青山学院大学を応援しました。私と息子がそれぞれの卒業生だからです。応援したかいがあったのか青学は首位となり中央は6位となりました。復路も頑張って欲しいと思います。ちなみに中央は総合優勝1位なので、古豪として優勝できるよう祈っています。私は学生時代に音楽を演奏(金管)していました。その関係で、大学スポーツの応援演奏をしたことがあります。駅伝や野球などのスポーツを観戦すると、若い頃を思い出してしまいます。午前中に足の調子が戻ったため、午後は地元の高松八幡宮を初詣してきました。ついでに麻郷をぐるりとウォーキングしてきました。
この1年の安全祈願のお札を購入、高松八幡宮
家を出ると、最初に鳥越に向かいました。そして、188号線を歩いて米出に行きました。米出のコンビニに寄って年賀ハガキや小物を購入しました。コンビニを出ると、蓮輪を経由して高松八幡宮に行きました。麻郷郵便局近くから緩やかな登り坂です。昨日のウォーキングで少し足を痛めたので、少しばかり辛い登りでした。ですが、じきに西円寺前の道に着きました。ここまで来ると高松八幡宮が見えるようになります。
鳥越平田川の橋 高松八幡宮の鳥居 江良碧松の歌碑
高松八幡宮に着くと、お賽銭を入れて今年1年の家族の安寧を祈願しました。そして、交通安全のお札を購入しました。昨日八尋石八幡宮で購入した交通安全祈願のお札はバイクに、今日購入した交通安全祈願のお札は車に取り付けました。そう言えば、車の免許更新案内が届いていました。忘れないようよ更新しようと思います。高松八幡宮を出ると、同じ道を戻らないで麻郷を遠回りに歩いて帰りました。
助政からの石城山 尾中三社のお社 スポーツセンター
帰りは、井神、助政を経由してスポーツセンターに行きました。運動場を歩いている方が一人いました。ところで、お正月と言うのに、昨日も含めて凧あげしている子供は誰一人いませんでした。もちろん駒回しや羽根つきをしている子供もいませんでした。残念ながらお正月を感じたのは神社だけでした。旭を歩いていると、偶然に犬と散歩しているEさんに出会いました。近況などの話題で楽しく談笑しました。その後、高塔に戻りました。
正月2日目、地元の高松八幡宮を参拝し麻郷周辺をウォーキング
田布施町の半周約30kmを初詣しつつ歩いてきました。お雑煮を食べ終わった後、9:00にウォーキング出発です。寒い朝、霜柱を踏みながら我家を出ました。最初に向かったのは田布施川に架かる八海橋です。その後、熊毛南高校、八幡八幡宮、大波野、別所、石ノ口八幡宮、犬田、原、潤田、川西西山、真殿、河原田、八尋石八幡宮、田布施町役場、交流館を経由して我家に戻りました(帰着は16:16)。歩いた距離は28.3kmで約30kmでした。
ウォーキング途中、石ノ口八幡宮でKさんやMさんやOさんなどに偶然出会い談笑しました。また、河原田にお住いの元郷土館長のNさんを年始のご挨拶に伺うと、思いがけずご馳走していただきました。ありがとうこざいました。疲れた30kmでしたが、足は少し痛かったものの脚は好調でした。次の目標である田布施町外周40kmウォーキングは歩けそうな気がしてきました。
たくさんの方々の初詣で賑わっていた石ノ口八幡宮
さて、八海橋は満潮から干潮に向かっているらしく流れが早かったです。橋脚に白波が立っていました。八海橋近くにあるかつて塩田だった溜池には薄氷が張っていました。その薄い氷を割るように水鳥が泳いでいました。水鳥は、氷が張る池は冷たくないのでしょうか。
田布施川を上流に向かうとじきに灸川河口に到着しました。ここから灸川堤防に沿って熊毛南高校に向かいました。灸川は改修工事中のようで、海からの流れがせき止められていました。
八海橋 灸川河口 熊毛南高校入口
9:15 9:24 9:37
熊毛南高校入口に到着すると、道を渡ってさらに灸川を上流に向かいました。緩やかに曲がる灸川堤防をどんどん進むと、やがて石橋に着きました。この石橋は橋脚がゆがんでおり通行禁止になっていました。来た道を戻ると歩いたコースが無駄になるため、注意深くそろそろと静かに渡りました。八幡八幡宮が見えてくると灸川に別れを告げました。
八幡八幡宮 大波野上段 上段~木地の峠
10:01 10:30 10:46
八幡八幡宮には10時ジャストに着きました。元旦でしたが初詣に来ている方は2家族程度でした。例年よりも少ないように思いました。交通安全のお札を買おうと思いましたが、破魔矢しかありませんでした。
八幡八幡宮を出ると、大波野を上段方面に進みました。この頃になると、日差しが強くなると同時に体が暑くなりました。上着を一枚脱いで、水分補給しました。すると、体が軽くなり軽やかに歩けるようになりました。体が涼しくなり、水分補給が効いたのでしょう。
別所から見た城南 石ノ口八幡宮 ハゼの大木
11:02 11:33 12:05
上段から木地に抜ける長い上り坂は少し疲れました。やはり上り坂は足腰に負担がかかります。上段と木地との境である峠を抜けると、快適な下り坂となりました。どんどん歩いていると、11:00に別所に到着しました。ここからいったん下り、石ノ口八幡宮まで緩やかな登り道が続きます。
石ノ口八幡宮に着いて石段を登っていると、思いがけず、Kさんから声をかけていただきました。Kさんはお孫さん達と一緒に初詣したとのこと。Kさんと談笑してから本殿に向かいました。本殿に着くと、MさんとOさんにも出会いました。楽しく談笑させていただきました。今回初詣した中で、石ノ口八幡宮が最も初詣する方が多かったように思います。
原公会堂 トンネルの向こうは潤田 真殿でお昼休憩
12:18 12:24 13:19
石ノ口八幡宮を出ると、吉井を経由して犬田に向けて道をどんどん進みました。そして、原を通過して山陽本線の下を通過するトンネルを抜けて潤田に出ました。ところが、ここで道を間違えてしまいました。分からなくなった道をどんどん進んでいると、ぽっかりと川西西山へ出ました。このまま西山を通過して真殿に向かいました。真殿に着くと、川の土手に座って昼食として持ってきたビスケットを食べました。座って休憩したのはこれが最初です。
大峰峠に向かう道の地蔵 国木小学校跡 元館長Nさん邸
13:33 13:52 14:43出発
真殿を出ると、大峰峠に向かって坂道を登りました。この頃になると、坂道を登るとどっと足が疲れるようになりました。これが最後の登り坂ですので一気に登りました。そして、お地蔵様のところでUターンして、国木小学校跡地に向かいました。その後、元郷土館長Nさん邸に行きました。ちょうどご在宅でした。談笑していると、お正月のご馳走をいただきました。美味しくいただきました。ありがとうございました。30分以上談笑したでしょうか。そのため14:43にN邸を出発しました。
岸田OCHIAI 八尋石八幡宮 西田布施公民館
14:53 15:02 15:18
その後、岸田交差点のOCHIAIを通過後旧道を通って八尋石八幡宮を初詣しました。ここで、交通安全のお札を購入しました。長い参道を下って次に田布施町交流館に向かいました。途中、西田布施公民館や田布施町役場を横目に見ながら歩きました。交流館は新年6日から開店するようです。ここで、長椅子に座って休憩しようかと思いましたが、やや日が陰ってきたためそのまま我家に向かいました。
田布施町役場 田布施町交流館 高塔公会堂
15:35 15:39 16:06
交流館以降は知ったる道ですので、やや足は痛いもののすたすた歩きました。そして、高塔公会堂に着くと、長椅子で最後の休憩をしました。太ももをさすったり、足先をもんだりしました。長椅子を立ち上がると、我家に向かって歩きました。そして、16:16に我家の玄関に到着しました。家に入ると、冷やしたコーヒー牛乳を飲んで部屋に入りました。
思い返すと想定内の疲れや足の痛みでした。もう少し歩くことができそうでした。将来検討している田布施町外周40kmはなんとか歩くことができそうです。疲れましたが、親しい友達に会うことができたり、思わぬご馳走をいただいたりと、思いがけず良い元旦でした。出会った方々、ありがとうこざいました。
令和四年元旦 初詣 田布施町半周30kmウォーキングのコース
(赤数字は経過時間 例 3H:スタート3時間後の位置)