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「かつての価値」を磨くことの難しさ

2007年06月21日 | 読書
 『なぜ日本人は劣化したか』(香山リカ著・講談社現代新書)を読む。

 「劣化」をキーワードに現代社会世相を斬ってみせた、というところだろうか。
 概ね理解できるし、はっとさせられることも多い。
 特に、アメリカの犯罪学者の説を紹介している次の一節には考えさせられた。

 「衰退と欠乏が問題にされると、そこにはいつも決まってノスタルジーが続く」とヤングは言う。社会民主主義者から保守主義者までが「ほのぼのとして家族や職場、地域共同体の思い出に浸」り、「かつての価値」を復権させようと目論んでいる。狭量で不寛容な排除型社会の裏には、このノスタルジーというやっかいな怪物が潜んでいる可能性がある

 著者は「ゼロ・トレランス方式」の導入に見られるような、排除型社会への進行に懸念を見せている。そしてそれを「寛容の劣化」という言葉でまとめている。

 監視・管理の強化、厳罰主義…こうして言葉にして並べてみると拒否的な感覚がわきあがるが、現実ではテレビ報道などを見ながら「もっと厳しく」と犯罪者へ向けている眼もたしかにある。世界への貢献といった言葉も美しく響いてくる。
 その背景に「ノスタルジー」があるという指摘は、きちんと考えなければいけないことだ。ブーム、情報による操作、そうした政治や社会の動きの受け止め方、そして何より自身のなかにある「価値」の吟味が必要だ。
 
 「かつての価値」という言い方は、様々なことを考えさせてくれる。
 その価値は、その時代にしか通用しないものなのか。
 その価値は、もうすでに役割を失ったのか。
 価値の中心となっていることに普遍性はないのか…

 こうした自問をしながら、自らの頭の劣化を防ごう。
(この言い方自体がもはやノスタルジーと言われたらどうしよう)