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授業の姿として実現させるには

2007年06月28日 | 雑記帳
 内田樹教授(この書き方がぴたりするなあ)のブログを久しぶりに訪ねたら「国語教育について」という剛速球みたいな記事があった。

「いいたいこと」がまずあって、それが「媒介」としての「言葉」に載せられる、という言語観が学校教育の場では共有されている。
だが、この基礎的知見そのものは果たして妥当なのか。
 
 この提起はもちろん否という結論になる。
 齋藤孝氏との対談本を読んでも二人の考え方は近いものだし、「型」の教育優先は納得済みである。
 表題から考えれば、このブログ記事の結論はここの部分となる。

 「力のある言葉」を繰り返し読み、暗誦し、筆写する。
 国語教育とは畢竟それだけのことである。
 
 この考えを現実の学校教育の枠組みの中で実現させてみたいものだ。
 もちろん現実としてこの三つの活動で国語科指導は完結しない。では、どんなことになるのだろうか。
 指導の核として、「『力のある言葉』を繰り返し読み、暗誦し、筆写する」ことを導入することになろう。時間的に多く見積もることは当然であるが、では年間でどの程度なのか、どんな単元や授業づくりをするのか… 検定教科書を使用するという現実を踏まえたとき、ここらあたりが検討しがいのあるところになるだろう。

 一つは今本校がやっているような、授業以外の枠の中で継続的に「音読」などを取り上げていく方法があろう。
 もちろんそれは授業との関連も持たせながら進めていくことがキーになるし、結構難しい部分もある。
 もう一つは授業時間内に固定的に組み込む方法があるだろう。これは自分自身も以前から何回か取り組んだことだ。最終的に、詩などの音読→辞書引き→教科書単元内容といったオムニバス的な授業に自信を持ってたどりついたのが今から5年ほど前である。

 子どもたちにより多く活動させ、より密度の高い授業を展開するためには、各言語活動をテンポアップし、変化をつけていくことが有効である。その面では一定時間で区切って内容を盛り込んでいく方式は安定した形で運用できると考えている。