すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

子どもの自由に対して授業を作る

2007年06月22日 | 雑記帳
 来校者と一緒に各学級の授業を見る機会が多い月となっている。

 限られた時間での参観となるが、授業者それぞれの持ち味がでるものだし、どんな空気感がそこにあるかを見つめるのは楽しいものだ。
 また「いけない性」とでも言うべきか、「ああ自分ならこうするのになあ」と思い浮かぶことも正直しばしばある。
 しかしそれは傍観者的な一つのプランでしかなく、結局のところ子どものとのやりとりで作り出していくしかないのが授業の本質だと今さらながらに感じる。

 新潮社の宣伝誌でもある『波』の表紙が、とても素敵だった。
 赤を背景に著者のモノクロ写真、そして生原稿も映されている。
 映っているのは、故伊丹十三。
 その原稿には得心がいった。

 「映画」を「授業」に、「観客」を「子ども」に置き換えてみたときに、珠玉の授業論となる。

 保証済みの方法で、読者の鼻づらをとって引きまわし、自在に泣かせたり笑わせたりするために書くのではなく、読者の自由に対して書くのだ、というのですね。僕は映画も全く同じだと思う。われわれは映画を半分しか作れない。そして残り半分の完成を観客の配慮にゆだねるため、観客の自由に対して映画を作るということです。われわれの映画は、これからもさまざまな観客に出会い、各人の中でさまざまな形で完成されてゆくでしょう。私としては、それぞれの出会いが幸せなものであることを祈るのみです。