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「悪人」との出合い

2008年01月09日 | 読書
 小説に嵌まるのは年に一度か二度ほどだろうか。

 書評関係の特集で高い評価を得ていた『悪人』(吉田修一著 朝日新聞社)を、昨年末に注文した。
 正月休みのとある午後、その420ページの単行本を3時間ほどで一気に読みきる。ぐいぐいと惹きつけられた。こんな感覚は久しぶりだった。

 2006年春から2007年にかけての、朝日新聞の連載小説だという。
 それにしても「悪人」というシンプルな題名は、直球そのものであり、剛速球のようにずしんと響く。殺人事件をめぐる内容であるが、だからといってもちろん「悪人=犯人」と短絡的に語られる小説などないだろう。
 ここでは、事件をめぐる様々な人物と背景が淡々と描かれ、各人物による独白のスタイルも交えられて、事件の発端から犯人逮捕までが、実にありがちな情景とともに提示されている。

 犯人、被害者、友人、知人、父母、親類、等々その誰にも大小を問わない悪があり、その積み重ねやすれ違いが大きな悲劇となる…そんなふうにまとめることもできよう。
 そして、例えば「個に潜む悪人性」がテーマなのだといった括り方もあるかもしれない。

 しかし私にとって印象深いのは、犯人と付き合いのあった女性が覚えていた、犯人の言葉である。

 「…でもさ、どっちも被害者にはなれんたい」

 自分を捨てた母親と会った彼が、母親の嘆きや詫び言を聞いて、突如金をせびり出し始める理由めいた言葉だ。

 彼の「悪人」はそうやって目覚めたのかもしれない。それは見方によって、母親に対する救いの言動といえないこともない。母親が救われたかどうかは別として、彼が引き金を引かざるをえなかったのだ。

 人が誰しも持つだろう自らの物語の中に、悪人は存在しなければならない…そんなふうに思える。

 小説にあるような不幸な状況は必ずしも特殊とは言えない。貧困も離散も、出会い系も地方の疲弊も、どれも簡単に例を挙げられる。
 自分でさえ多かれ少なかれどこかで悪人を見出そうとしていることも否定できない。

 個々の物語の中へ悪人を呼び寄せようとする、または必要とする人間の「業」のようなものとはいったいなんだろう。
 
 しばらく眠りつけなかった。