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自分の「人間力」を育てるために

2008年01月22日 | 読書
 『「人間力」の育て方』(堀田力著 集英社新書)を読んだ。

 この本は堀田氏による現行の教育批判という括り方をしてもよいだろう。

 政府主導の教育再生会議に対抗?して教育再生民間会議を立ち上げるだけの度量も気概もある方である。
 総論として頷けることが多い内容であったし、「自助・共助」という根本の発想や「時間通貨」といったアイデアには納得がいった。

 しかし、細々と書かれた部分についていくつか首を捻ることもあった。
 例えば、こんなくだりがある。

 総合学習に消極的な教師は、教師としての適格性に疑問がある教師だからです。

 この問題をどのレベルから論じるべきかは、かなり重要なことである。
 指導要領における「総合」の位置づけか、現場における「総合」の占める優先度と時数の関連か、実際の指導における制限の問題か、教員養成と教師の教育観か…切り口が膨大にあるような問題を、こんなふうに切り捨ててほしくない。

 こんな文章もあった。

 それぞれの知識教科の習得度に応じ、年齢の枠を超えたクラス分けをする方が、個性に応じて興味を高めていくのに適していると思います。

 成功例はある、「子どもに選択させれば問題は起こらない」、問題は人間教育の徹底だ…等々、自説を強化するための配慮をいくら書かれても、その実現が容易にできるとは思わないし、現行の学級枠のよさを引き出すことこそ「自助・共助」の精神ではないかと思う。

 教育に対して外側からモノを言う人は多い。もちろん真摯に考える人もいれば(堀田氏もそうだろう)、何か自論をひけらかしたいだけの人もいるようだ。取捨選択はやはり自分の目と耳で行わなければならない。
 そのうえで自分は何を考えるか、時々自らの頭の中を探り、意味づけておくことが大切なことだ。
 それが「人間力」に通じるのではないだろうか。

 例えば堀田氏の「総合学習」の論に対して、私は「結局、出口が見えなかった総合」「明確な展望を示せなかった教育界の指導者」「多様な要求に呑み込まれる学校、教師」…そんな言葉を拾ってみた。