すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

「福」はどんなことにも

2008年02月10日 | 教育ノート
 本当に、つれづれなるまま下の原稿を書き連ねた。
 そしてその日の夜、ある雑誌を読んだら、ふと似たような感情を浮かべられる文章を見つけた。
 そうだよなあ、としみじみ読み入った。(それは明日)

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 2月の全校集会で何を話そうかと考え、いろいろ調べているうちに「節分の鬼」という題のお話を見つけました。結局、それは長いので「雪の重さ」「くしゃみの速さ」のことを話したのですが、この「節分の鬼」もほんのりさせるいい内容だなあと心に残りました。

 あらすじはこうです。
 昔ある所に、妻にも息子にも先立たれた一人のおじいさんが暮らしていました。貧しく、家族もいないおじいさんは、墓参りすることだけが楽しみの生活です。それでも一人ぼっちは辛く、早く死にたいと思うようになった頃、近所の豆まきの声を聞いて、どうせならと思い「福は外、鬼は内」と繰り返して叫んだのです。すると…。
 他の家から追い出されている鬼が続々やってきて、おじいさんの家でにぎやかに過ごし、「また来年」と言い残して去っていったのでした。おじいさんは、それを楽しみにまた生きようと思い直しました…

 よその家から追い出された「鬼」が、一人ぼっちのおじいさんには「福」になったという結末。
 昔話の世界ですので細かい詮索はいらないでしょうが、おじいさんの家を訪れた鬼は、様々な家から不要とされたモノやコトを表わしていると言えるかもしれません。
 するとこのお話は、どんなモノにも命があり役立つ機会がある、どんな些細なコトであっても人を喜ばすことができるのだ…といった見方ができるのかもしれないと思わず深読みをしてしまいました。

 たくさんのモノがあふれ、毎日使い捨てられています。モノだけじゃなく、人さえも不要になってくる気配も漂わせる風潮も感じませんか。昔から伝えられてきたコトが軽視され、忘れ去られていく現実もあります。
 小さなモノ、むだと考えられているコトにも必ず価値があり、関わってきた人もいるはずです。小さいもの、古くからあるものにもう一度目を向けることで、生活の価値を見い出していけるはです。
 おじいさんが鬼の訪問をうけ新たに進む日が、季節を分ける「節分」だったことにお話の意味がある気がします。立春は一年の始まりですから。
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