すぷりんぐぶろぐ

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雪の土曜の「この私」

2008年02月17日 | 読書
 新書『学校のモンスター』(諏訪哲二著)は、去年の11月頃に買っていたのだが書棚で寝たままだった。前の『オレ様化する子どもたち』もそうだったが、諏訪氏の本は歯ごたえがありそうなので、つい手が遠のいてしまったのだろうか。
 週休ではあるが所属している研究会の会議が持たれるというので秋田市に出かけることになった。天候もよくないし電車が楽かなと思い、それならばと件の本をバッグに入れた。

 「若い人へ」と題した前書きが、なかなか読みやすい。
 そこでは「自分」という言葉をキーワードに語っているが、この本の核になる部分が既に著されているといってもいいだろう。

 ふたつの「私」

 著者は「私的な個」と「公共的な個」、また「この私」と「私」という言い方もしているが、全体を貫いているこのキーワードがどうしても印象強い。様々な章立てで歴史的な位置づけや他の論者の批判などもしている。

 実に興味深かったのはテレビ番組の例である。最近のクイズ番組にお決まりのように出演してくる珍答、迷答を繰りかえすタレント(女性ならばアホドルと言うのか?)を、どんな考え方をしているのか試したコーナーを紹介していた。
 いわゆる「速さ」の問題(速度と距離から時間を求めるなど)をどうとらえているか。条件を数式に当てはめて解いていく普通の?解答者と違うのは、付帯する様々な条件をイメージしてしまうということだ。その状況をよりリアルに、自分にひき付けて想像しているとも言えそうだ。それは紛れもなく「この私」が支配している感覚である。

 こうしたタレントたちを時々テレビで見て笑っていたが、もう一つ別の視点が生まれた。そして、それはどんな授業を受けてきたか、学校生活だったのか…そんなふうに思考が動いた。
 例えば算数の文章題指導で重要なことは場のイメージを持たせることであるが、それは様々な育ちをしている子たちにどう影響しているのか、などという問いも浮かんできた。

 「私的な個」だけが肥大している、「公共的な個」を身につけないままに、経済的な理由に左右されるままに…年代や出自をもとに分析していくことは、学校現場での対処を考えるうえで無駄ではない。
 身近に表れている事象がナニモノなのか、見きわめてこそ動き出せるというものである。

 読み終えて「少なくても『相田みつを』のような言葉かけは慎重に…」などと一人で笑ってしまった。
 週末の電車の中は、「面接でのスカートの丈の短かさ」を気にする女子高生や「シャコウ(自動車学校)にたむろする変な髪形の連中」で盛り上がる男子の声が、妙にはしゃいでいた。そんな子たちに囲まれて『学校のモンスター』を読むのもなかなかおつではあるが…。

 さほどの雪でもあるまいに「大雪のためJR運休」に数時間も振り回されたので、私のなかでは「この私」をなだめながらの一日であった。