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夏の聞き耳メモ…7

2008年08月15日 | 雑記帳
 ネットワーク集会の感想…その3、最後。

 最終講座は「フィンランド教育に学ぶ対話型授業」。講師は、かの北川達夫氏(日本教育大学院教授)である。
 「疑問1 フィンランドは本当に学力世界一」から始まり「対話教育の必要性」に終わる、プレゼン資料を使った理路整然とした講座だった。

 「教育」の比較は難しい

 これが話の前提にある。しかしその点を越えて、今なぜ「フィンランド教育」に学ぶ必要性があるかを、ご自身の経験や情勢の的確な把握を元に展開しておられた。特に後半に提示された点が心に残る。

 無意識のバイアスからの脱出

 情報が大量に流通している現況、そしてとかく軽薄に様々なものから影響を受けやすい自分にとって、肝に銘じなければならない言葉だ。

 ところで、「対話型授業」とは何か。
「教育科学 国語教育」の臨時増刊号に、大内善一先生が次のように書いている。

 「対話」は話し合いの<形態>ではない
 
 「対話ブーム」とまではいっていない気がするが、新学習指導要領の中に文言が示されたことで注目度は高まっている。どういう形で教育現場の中に位置づけられるか、注視しなくてはいけない。
 
 今回のネットワーク集会でも、多くの講座に「対話者」が位置づけられていた。その意図と結果がどうだったか検証も必要だろうが、北川氏の講演が、現在、教育における「対話」を考えていくうえで貴重な内容であったことには間違いない。
 北川氏が言う「対話」の位置づけは、「討論」「対話」「会話」と並べたところである程度把握できる。そして、こんなこともおっしゃっていた。

 対話はスキルだが、発想の部分が大きい

 つまり、学習活動としての対話にはスタイルやポイントがあるのだが、それ以上に多様な価値観を認める、「教養主義的発想」にとらわれない、といった姿勢こそが大きいということだろう。
 その点では、大内善一先生がおっしゃることと重なっていて、「対話的姿勢」「対話的能力」という使い方こそその精神に合致すると考えられる。

 とは言っても、そうした力や資質を養うための形は必要だ。
 フィンランドの国語教科書に多く見られる「単元最後の集団活動による表現」が、いい例とも言えるかもしれない。そこでは、互いに考えをすり合わせていくことはもちろん、仮に自分の考えに合わなくても作り上げてアウトプットすることが優先される。やはりそうした具体的な営みを通じて身につくものだろう。
 こうした例をもっと豊富に持つ必要がある。

 ただ、北川氏が最後に話した一言は、警句として心に残る。

 あせっちゃいかん、対話というのは

 じっくり「自己と対話」しながら進めましょう、ということですね。