すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

贅沢を感じ取れる身体

2012年04月15日 | 雑記帳
 昨日書いた,ある総会のことでもう一つ。

 会が始まる前に,それぞれの団体の代表者によって打ち合わせがあり,そこで「次年度のこの総会をどうしたらいいか」という提起がなされたようだ。
 つまり,多くの人が集まって開催する従来の形でいいのか。あつまる必要があるのか,ということを,全体に訊いてみて,来年度以降のことを考えようということらしい。

 4月当初の忙しい時期に,子供たちを早めに放課して,一か所に一斉に集まることの意味を問うのは当然といえば当然だろう。
 団体の中心になって事務をしている方々にすれば,その準備の大変さもあるし,また逆に集合の機会がなければ集金をどうするかという問題なども絡むし,考えは分かれるように思う。

 しかし,普通の(再び,普通って何か!)会員にしてみれば,会議は精選してほしい,必要なしという意見のような気がする。

 それだけ各校現場での仕事は詰まっているし,ここに来て,形式的な!話を聞いて拍手をして終わるよりは,もっと生産的なことができるだろう,と考えるのは当然なのかもしれない。

 私にしたって半分はそう考える。

 しかし,そのもう半分で,こんなことも考える。

 遠藤周作の文章に,「無駄があるから,情緒がある」というような言葉があるらしい。(これだと会そのものを無駄と考えているのかと言われそうだが),こういった決まりきっていて無駄な時間を過ごしているように見える,その時間はやや「ゆとり」っぽくないか,という考えだ。

 あれをしてこれをしてと,びっちりする事の詰まっている現場においては,校外の研究会組織で感じ取れる自由さもあるように思うのである。かつて「その姿を,ゆとりと呼ぼう」と題した一文も書いたことがあった。

 先の提案が総会廃止の方に向かうと,おそらくは教員同士が直接会う機会が一つ減ることに少し危惧を覚えてしまうのだ。

 今日読んでいた,昔のキャッチコピーを集めた本に,こんな一節があった。

 会う,贅沢。

 今,この贅沢さを感じ取れなくなっている自分たち。
 そんな身体で,子どもたちに向き合うことができるのか。

マイク以前、マイク使用

2012年04月15日 | 雑記帳
 水曜から校外の会議等が昨日まで続いた。
 特に金、土は宴会もあり、毎年のこととはいえ疲れが残る。

 いくつか振り返りながら書き留めておこうと思う。

 「伝える」「伝え合う」という言葉は,学校や教育界の用語としてずいぶん普及しているし,会議のたびに何度も使われる。
 しかし,そのわりに,そう言っている自分たちはどうなのだろうと思わされる機会が相変わらず多い。

 年度当初,たくさんの人が集まる場で,またそんなことを感じた。
 ある団体の総会に出席して,規模はおよそ100人,体育館にゴザを敷いて行う形なのだが,マイクなしで話そうという人がいた。
 意図はわかるし,大きく強い声であれば,その考え方も結構ではあろう。しかし失礼ながらあの声ではほとんど聴き取れない参加者が大半だったと思う。
 そこには,もしかしたら言っても言わなくともいいようなことだから,聞こえても聞こえなくとも構わないという意識があったのだろうか。
 その状況を見過ごしている周囲(自分も含めて)にも責任はあるかもしれない。

 進行している中で,事務局が説明することが何回かあった。
 当然,マイクは使われたが,機器の接触が悪いのか,繰り返しオフの状態があって非常に聞きづらく,内容がほとんど聴き取れない状況だ。
 これも言っている本人が気付かず,そのままの状態で続けられた。
 ここにも同じようなことを感じた。会場から指摘がなければそれでいいのか。

 最低限,音声として聞こえているのか。
 次に,内容が伝わっているのか。
 そして,意図を理解してもらえているのか。

 そういう段階を今更持ち出すまでもないだろう。

 では,自分はどうかと問われれば,もしかしたら…という不安も出てくる。
 野口先生に教わったマイクを胸固定して話すということだけは意識できていたようだが,相変わらずの早口だったし,もう少し内容を絞るべきだったか。

 マイクで伝えること,伝える以前のこと…実情はかくも様々である。