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「質問できる授業」を問う

2012年04月18日 | 雑記帳
 「質問できる授業をしてこなかったらではないでしょうか」

 報告者の女性はそんなふうに語った。
 ある会議でグループ協議がおわり、一つのグループが指名された。協議題が指定されてあり、その一つ目である「問いを発する子どもの育成」について話し合ったことの要点として、そんな言い方をした。

 少し引っかかりを覚えた。
 というより、突っ込みたくなる衝動か。

 「質問できる授業」って何だ。
 「質問できる授業」はどんなイメージでとらえられているのだろうか。
 「質問できる授業」という括りは、どこか旧態依然としているように感じるのは私だけだろうか。また大雑把すぎるようにも見える。

 講義型の授業において最後に「質問はないか」と口にするパターンは、かなり古典的な風景のようであるが、今も多くの教室で行われている。
 「わかりましたか」や「ここまでいいだろうか」という言葉であったとしても、教える者と教わる者の関係に変わりはないし、それが効率的な一つの形であることは否定できないだろう。
 だから、実は教師の説明が上手であり、全員を納得させることができればいい授業であり、質問がないことはある意味で素晴らしいとも言える。

 そのことを前提にしながら、また同時に問題視しながら、子どもに質問力を養うために、授業づくりは考えられなければならない。

 一つは講義型の授業の工夫を通して、もう一つはいわゆる活動重視の授業への変換を通して、ということになるだろう。

 「質問できる授業」の意図したことが前者ばかりだとは思わないが、どこかそんなニュアンスを感じてしまうのは、その内容についての説明が皆無だったこともあるだろう。そして集まった世代の授業観に私自身が不信感を抱いていることもあるのかもしれない。
 (個人やグループを批判するつもりはなく、実際に話し合ったりしていないので)

 では、どう言ってほしかったか。どう説明してほしかったか…つまり、これは私の授業観なのかもしれない。
 まあ、これも大雑把とは言えるが、

 「質問できる仕掛けがある授業」
 「質問できる過程を組み込んだ授業」
 「質問できる形態を持つ授業」

 こんな柱立てであろうか。
 少なくともこの程度まで踏み込まないと、今目の前で見ている授業が「質問できる授業になっていない」というは容易いが、改善策は具体的にならない。

 何故変わらないのか、何故変えれないのか…まず、その問いを持ち、そして発する前に少し掘り下げることが大切だ。