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遅ればせの読書メモシリーズ④

2012年07月12日 | 読書
 確か4両か5両編成だった。
 ちょうど一週間前に乗ったその特急は(速度はおよそ特急のそれではなかったが)青森市の研究会へ向かう同業者の乗車率が極めて高かったはずだ。
 そこで読んでいたのが,この新書である。

 『生徒たちには言えないこと 教師の矜持とは何か?』(諏訪哲二 中公新書ラクレ)

 同じ本を読んでいる人なんているのだろうか,そんなことを感じつつ読み入ってしまった。

 1,2章では,著者の次の考えが繰り返される。

 学校ではまず「真実」(「ほんとうのこと」)ではなく,みんなから広く認められている「建前」(「とされていること」)を教えるべきである。

 公言しないけれど,その受け止め方の重みに差はあるのだろうけど,おそらく多くの教員が直観的に抱いていることではないか。
 まして小学校であれば,圧倒的に「建前」にそって進むのが基本であるのは言うまでもない。それは一般性と言い換えてもいいだろう。

 そんなふうに考えると,やはり小学校における教科や領域の指導において揺らがない面は大きい気がする。
 ただ,だからといって従来のように,旧態依然としたものでいいのだという論には結びつかない。

 それはきっと,「真実」も,そして「建前」も揺れ始めているからだ。
 学問上の真理であっても覆される。道徳性,公共心に込められた意味も変質しているのではないか。いや,そもそも「真実」も「建前」も揺れているものだ,ということに気づかなかったのだろう。
 そうすれば,授業も,仕事の仕方も変わらざるを得ないはずなのだが。


 青森で参加した分科会では,たくさんの「建前」が話された。
 けして悪い意味ではなく,「建前」を掲げてリードしていく立場の人たちが集まる会だから当然だろう。
 そして,ここにもし差があるとすれば,それはいかに「真実」を知っていて,「現実」と折り合いをつけているか,ということに尽きるだろう。
 現場に務めるとはそういうことだ。

 たくさんページ端を折った一冊となった。
 
 「真実」を考えるために,読書は貴重だ。
 遅ればせのメモも大切と,自己満足しよう。