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いつだって「過程」を生きている

2012年07月23日 | 読書
 映画「亡国のイージス」は印象深い。配役も自分好みだったし,この国の危機に対する脆弱さをエンターテイメントとして見事に描いた作品だと思っている。

 福井晴敏という作家の名前はそのことで記憶にとどまっていたが,小説そのものは読んだことがなかった。
 ただ震災後に,あまり時間を置かず「小説・震災後」という小説を週刊誌に連載していたことは知っていた。連載を楽しみに読むという習慣はないので,いつかまとまったらと思っていたが,文庫本になったので,どれどれと手にとってみた。

 『小説・震災後』(福井晴敏 小学館文庫)

 いわば「震災前のある象徴」として描かれる主人公の父親のことばが,どうにも深い。

 人間はいつだって‶結果‶を生きているのではなく,‶過程‶を生きている

 ここ数十年のこの国においては,大衆に見えにくかった危機(隠されたと言ってよいか)はきっと多くあった。
 それにいち早く対応した階層がいて,職域があって,平安が守られてきたことはある程度予想できる。

 そのシステムについて何も語るべきものはないが,少なくともこの震災が見せつけてくれたものは大きい。

 そこからどう歩みだすか,作者がこの話に載せて提案しようとしたことはいくつかあるだろうが,自分なりに強く思うのは「無辜の民にならぬ」ということだろうか。
 幼き子どもたちを除けば,この世界に無辜の民などいない。いや無辜の民などと称されること自体,そう呼ぶ人種を作り出した責任があることだ。
 それは歴史の常であると,思考停止させてはいけない。

 混乱のなかでネット犯罪に加担した主人公の息子が,自分の生の過程を,この国のこの地球の過程にどんなふうに乗せられるものなのか,これは結構渋い教育小説なのかもしれない。