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願いを伝える手法

2012年11月13日 | 読書
 『だいじょうぶ3組』(乙武洋匡 講談社文庫)

 映画化され、来春に公開だという。
 主人公は手足のない電動車イスに乗っている教師。当然ながら作者の実体験を元に書かれている。
 映画になってその役をする俳優などなかなか考えられないし、乙武さん自身が主役をするというのは、驚くことではない。

 その介助員として重要な役目を果たすのが、TOKIOの国分太一クン。なかなかいい配役だ。めったに出ないが彼の出た『しゃべれどもしゃべれども』はいい映画だった。

 さて、小説のあとに二人の対談が載っていて、これがまた興味深かった。特に、「『小説』という形を選んだ理由」ということで取り上げられた、エピソードのどの部分が実際と違うのかという点は、現場にいる教員としてなるほどと予想のつくものだった。

 乙武さんはこう語っている。

 現実ではそれぞれのエピソードの結末がハッピーエンドだったわけではありません。それをそのまま書いてノンフィクションとして提示するか、もしくは小説として発表して、着地点はハッピーエンドにして温かいメッセージを届けるか----。

 結果、それは小説となって、いわば心温まる学校と教室を描くことになった。
 この決断は作者の考えであるが、同時にあれこれ思考の浮かぶ問題でもある。

 作中でハッピーエンドを演出するのは、当然ながらそこにいる人物(子どもと教職員)になる。 しかし、問題となるエピソード場面が現実に生じた場合、そこには当然ながらその範囲に留まらない広がりがある。
 保護者であったり地域社会であったり、教育委員会であったり…。
 「常識」や「良識」が大きな壁となって立ち塞がる。だから教師個人や子どもの願望、要求は通らないのだ、などと言い訳じみたことを結論にしたいのではない。

 ノンフィクションとして書いた場合には、何を描くかが問われるし、その範囲や的を確実に捉えないと、きっと曖昧とした内容になるのだろうなと予想される。反面、はまった場合のインパクトはかなり大きい。

 逆に、フィクションはある意味で「願い」そのものである。
 現実逃避と切り捨てられても、どこかで息を潜めている心を呼び覚ます可能性もあるのだろう。
 願いの真っ当さや強さが感じられるドラマが、文章を通じて伝わってくることに、人は快感を覚えるものだし、その可能性の範囲は結構広い。

 どちらを選ぶかは、自分自身の性格や筆力をよく把握することで決まってくるのではないか。

 で、どうだったかと言えば、文章や筋として物足りなさを感ずるが、乙武さんの強いキャラクターで読ませてしまう話だった。
 きっと映像だったらもっと面白いだろうな、とその筋の業界人?としては思う。
 よって、この決断は妥当と支持する。