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11年目の反省

2012年11月29日 | 雑記帳
 01年10月とメモしているので、もうすぐ干支がひと回りなのだなと思う。
 『学校の役割は終わったか』の最終章、当時文科省にいた寺脇研氏と、宮台真司氏の対談を読み終えて、こんなふうに書き留めていた。

 目配りは大きく三つ求められる。
 ひとつは、時代認識に伴う国全体の流れがどう向くか。次に、それが現実の場にどう反映されてくるか。そして、最終的に子供に向き合う私達の構えはどう変化していくのか。
 もちろん、注意深い目配りだけでなく、当事者としての踏み出しが要求されているのだ。


 この10年あまり、自分がきちんと目配りしてきたか、甚だ自信がない。しかし、現実の場への反映であれば少しは語れる。私なりに典型として挙げられるのは、次の二つだ。

 「全国学力テスト」
 
 「職員の不祥事防止」

 もちろん、まだまだいくつものキーワードはある。
 しかし、この二つが迫った「構え」の意味は実に大きい。

 テスト実施によって学力観を普及させたこと以上に、数値化への志向は高まっている。その意味づけ、根拠は語られるにしても、「結果」という言葉に括られることも少なくない。
 
 不祥事防止の強調は、指導の質という面と教員の人間性保持という面で、大きく圧し掛かってくる存在だ。底にあるのは人権尊重であり法令遵守であるが、それは現実との乖離が大きいと思われることもしばしばだ。表沙汰になった多くの問題処理が、本当に正しいことだったかと首を傾げるのは私ばかりではないだろう。

 正面きってこの二つに異を唱えるつもりもないし、自分の立場での努力はしているつもりでもある。
 ただ自分がどんなふうに踏み出すかが、少なくない影響も及ぼすとすれば、それは目の前の子どもや教員が元気でいられる、意欲をなくさない言動でなければならない。
 肝に銘じてはいるが、どれほど実現できていることか。うな垂れる首の重さを感じる。


 さて、この著はそれまで全然考えもしなかった教育委員会の存在について、はあっと納得したことも大きい(完全に遅すぎなのだが)。
 こんな引用をしていた。

 つまり義務教育とは
 ①国民を育成するものであり、その内容には全国的な共通性が必要である。
 ②地域の人材を育成するものであり、地域が独立し、独自に行うべきである。
 という、二つの異なる要素を内包する制度ということになる。
 むろん、国家とは地域の積み上げであり、地域が独自性を持って育てた人材も国民には違いないのだが、しかし、全国的な共通の要請と、地域独自の教育方針は、必ずしも同じ向きのベクトルになるとは限らない。


 この正論は、ある面で今の教育委員会制度改革を唱える根拠でもあろう。
 しかし、現実は全国学力テスト参加に見た犬山市の「騒動」を見てもわかるように、対立には複雑な要素も絡む。
 またその折に「騒動」がさほど注目されず、一部に留まってしまったことを思うと、やはり、「地域」そして私達の呑込まれ度は予想以上に大きいと言わざるを得ない。