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枠組みの中で生きる

2012年11月28日 | 読書
 教育に関しての政策は優先順位が低いのは、この国の現状からして仕方ないことかもしれないと思う。
 しかし、そういうなか(つまり人々の関心も教育にあまり目が注がれないまま)で、新しい政権がひと月経たないうちに発足することを思うと、どこかしら不安めいた気持ちが強くなる。

 細かい政策を見ているわけではないが、いずれの政党(代表者)も語っている一つに「教育委員会制度」のことがあった。これはあの大津市のいじめ事件が騒がれた後なので当然とも言えるだろう。

 小学館の「総合教育技術」誌が、12月号の特集2として「『教育委員会廃止論』を検証する」を組んだ。
 「根拠を読み解く」「論点を整理する」「識者の考え(5名)」という構成である。


 多くの現場教員にとって教委がどういう存在なのか。
 これに関したデータも目にしたことがないし、きわめて個人的な印象など語っても意味はないかもしれない。

 ただ一つ、大津市の事件をめぐっては、自分の住んでいる地域や務めている学校はそこまで酷くはないだろうと思いつつ、絶対有り得ないと断言できる教員はいないのではないか。

 形式主義から逃れられない…これは組織の持つ宿命でもあるだろう。形式によって伝達が可能になるし、効率が保障される。
 私達がやるべき、押しつけられていると感じている人もいるだろうが、いくつかの仕事は、授業づくりから報告的な事務仕事まで、ある意味では形式の中でこそ保たれている。

 しかし時々、形式に入れる内容よりも、形式そのものが優先されて、形式によって自分を守ることが大切にされるようになる。そして、そのこと自体に気づかなくなる。

 その点を自覚し、そこに陥らないように声を上げる人がいても、縦系列の流れの中で薄められたり、省かれたりする。
 そこからどういう方向づけをするかは、人によってまちまちだが、組織が大きければ大きいほど、呑込まれていく率が高くなるのは、予想できることだ。

 どんな枠組みの中でも生きる姿勢を示す、それは日和見主義ということでなく、常に本質と向き合えるかということだと解釈する。


 こんなことをつらつらと書きながら,少し思い出したことがあって,以前ホームページの文章を探してみた。
 もう十年以上前に読んだ『学校の役割は終わったか』(NHK出版)という本。その中に宮台真司の次の一文があった。

 過渡期においては全体を見て個別の物事を文脈に応じて評価していくような態度が必要です。そうしないで部分だけを見て「こうすると、こうなっちゃうじゃないか。」といういい方をしてはいけない。場合によっては、一部にある種の矛盾が出てきてもいいという立場は、広いスコープのなかからしか出てこないのですから。(P253)

 改めて納得できる。
 それにしても結構考えさせられることを書いているなあ。もう少しこの感想を書いた自分につきあってみたい。