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「気づき」が邪魔をするという気づき

2012年11月19日 | 読書
 本当に久しぶりとなるTOSS関連の本である。

 『TOSS英会話指導はなぜ伝統的英語教育から離れたか』(向山浩子 東京教育技術研究所)

 5年前の著書であるが、現在ごく普通の学校で高学年を対象に行われている「英語指導」に到るまでの歩みが、概観できるように思う。
 思えば90年代、まだ法則化の研修会に参加していた頃、英会話の講座も何回か受講したことがあった。それなりの興味はあったし、大森修氏が学校ぐるみで取り組んだ実践にも刺激を受けたことを覚えている。

 そこから自分の中でも進展しなかったのはなぜか。
 はっきりと思い当たるふしはないが、この著の中に書かれてある賛成・反対派のやりとりや、中学校英語とのギャップ等の問題が次々と出てきて、乗りきれなかったというところだろうか。
 総合、特別支援など次々に迫ってくる問題に目が向かったし、そもそも英語への関心は薄いのかもしれないなあ…

 正直そんな自分だから、英語教育の重要性という点ではちょっと腰がひけていて、この著の考えに全く同調できるまではいかなかったが、引用している参考文献の言葉にはかなりの刺激をうけた。

 TOSS英会話指導の背景となる思想といっていいかもしれない、次の言葉はある面で衝撃だし、同時に教育関係者であれば、きちんと正対しなければならない。

「意識は、学習能力を減少させる」

「学習は意識的というよりはむしろ、肉体的な事柄というべき」

 『神々の沈黙』(紀伊国屋書店)に書かれている、ジュリアン・ジェインズの言葉である。

 幼い子どもの言語獲得の場面を想像すれば、それはやはり当然の知見であるし、そのことを考えれば、小学生に第二言語として英会話能力を身につけさせるには有効な考え方だと思う。
 つまり、意識させないでスキルを身につけさせることを、何より最初に繰り返し行う。
 具体的には場面状況のみを知らせて、ひたすら英会話のみで押し通していく。そのたくさんの経験が、中級学校での読み・書きにも転移していくという考え方である。


 いつものごとく、それは英語指導ばかりではないだろう、とまた横道に入っていく自分を感じる。
 小学校(特に、低・中学年)において習熟を要する学習活動は数々ある。最近は、ずいぶんテンポアップしている授業も出てきてはいるが、やはり私達はどこかで、「意識」の大切さを強調したい思いにとらわれて、よけいなことに時間をかけたりする。
 そればかりか、子どもを迷わせ、学習の効率性を削いでいることはないか。

 「気づき」という言葉は、「学び」と同義と捉えられるほど大切にされている。しかし、学ぶ内容によって実は「気づき」が障害となってくる場合もある。

 国語、音楽、体育、そして算数において、あくまで発達段階に即してではあるが、もう少し教材や活動の「量」についての吟味がされてもよくないか。子どもの気づきによる「質」を求めることなど、単なる大人の自己満足ではないかという気さえしてくる。

 繰り返しによる体感的な学びを強めるために、この問題はもっともっと検討されていい。