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ダブルバインドを緩くするため

2012年11月24日 | 読書
 再び『わかりあえないことから』(平田オリザ  講談社現代新書)

 八章からなる全編を通じて、やはりこり言葉の意味は重い。

 ダブルバインド(二重拘束)

 これは今の日本社会をよくあらわしている言葉で、当然ながらコミュニケーション能力に大きく関わっている

 つまり、「表向き」と「現実」が違う状況に置かれているということである。
 「いいから、いいから」と優しくされていながら、実は「なんだ、これもできないの」と言われているような状態。
 「教育は全人的な歩みであって…」と言われながら、「数字を根拠に」というようなこともそうか。

 著者はこんなふうに記している。

 いま、日本社会は、社会全体が、「異文化理解能力」と、日本型の「同調圧力」のダブルバインドにあっている。

 これは多くの方が納得できるのではないか。
 現に自分のいる場を切り取ってみても、たとえば地域社会や保護者との関わりをみても、まさしくその状況に近いと言える。

 急激な変化を遂げている社会状況がありつつも、「変わらないもの」の重要性は繰り返し説かれる。しかし、その区分や混合を正確に見抜けているのか。
 個性が大切、特長をアピールしろと言われながら、一貫している対応や揃えた足並みが常に要求される。

 しかし、この矛盾に見える現実を一つ一つ解していくほどの余裕を持っていないし、また共通認識として取り上げられていないように思う。

 ある意味では八方美人になりながら生き抜いていくことで「成熟社会」に対応していくべきだろう。
 そのためのコミュニケーション能力であり、わかりあう関係づくりを最初から志向するのではなく、わかりあえないことから、少しわかり、どこかを折り合わせていきながら…ということなのだ。

 それは、著者がこの本の最終章で述べた「協調性から社交性へ」ということに結びつく。

 少し軽薄な響きを持つように受け取られる「社交性」は、それゆえ指導としては取り掛かりやすさを持っていると思うし、著者がコミュニケーション能力を「その程度のこと」と繰り返し語ることと重なる。

 そして「その程度」のことが、この大変な世の中にとって必須であることはもっと強調されていい。
 現場教員として、具体的なアプローチを示せるようにしたい。


 さて、著者はあとがきにこう書く。

 人間は、演じる生き物である

 これは前に読んだ平野啓一郎の「分人」論とも結びつくように思えてならない。この割り切りかたこそ、まさしく生きるコツであろう。

 人は様々な環境の中で、様々な役割を果たしながら生きている。その役割の一つ一つを楽しみながら演じられたら、それ以上愉快なことはない。
 (今日は家族にとって大事な日であり、私もその役割を楽しく果せたらいいな…)