『科学的とはどういう意味か』(森博嗣 幻冬舎新書)
著者の小説を読んだ記憶はあるが、なかみに関してはまったく印象がない。フィットする部分がなかったのだろうと思う。
しかし、この新書はなかなか面白かった。
内容は、「科学を敬遠するな」「敬遠していると大変な目に遭う」「みんなで正しいことを積み上げていこう」ということを、震災や身近な事例を引きながら繰り返し述べているに過ぎないが、説得力がある。
それは、やはり科学者の視点があるからだろうと思う。
科学者の視点とは何か。
それは言うまでもなく、この本の題名に関わることである。
二章のまとめで、著者は述べている。
科学というのは「方法」である。そして、その方法とは、「他者によって再現できる」ことを条件として、組み上げていくシステムのことだ。
そのために、「数」と「実験」が重要であると語っている。
だから、この本には結構多く数字がでてくる。さらに実験を紙上でしているわけではないが、様々なエピソードが紹介されていて読み手を引きつけるし、納得もさせる。
また,さらっと読んでいこうとしても、手痛い言葉がすぐ目に入ってくることも特徴だ。
例えば…
言葉を覚えることで、無意識のうちに「立ち入らない」境界を作ってしまう
「やる気」や「心意気」よりも、数字の方がずっと信頼できる。数字は人を裏切らないし、数字は調子が悪くなることもない。
さて、科学を「他者による再現性」をもとにしたとき、某出版社が雑誌に名づけている「教育科学」というのは、実に興味深い。
そしてその社が、法則化運動に深く関わってきたことも頷ける。かの『現代教育科学』誌は廃刊となったが、まだその冠をつけられている雑誌はある。
その目指すものはやはり「他者による再現性」が大きいと言っていいのだろうか。
主たる読者である教員にとっては、自分がページをめくり何かしら得ることが、科学かどうかなどふだん考えてみることなどないと思う。
しかし結局、雑誌等に載るそれらの「実験」(これは誤解されそうだが)の記録を通して、ある意味の「数値化」を提示し、それを文章化した提案、報告を受容し、さらに実験し、結果を得ようとする道筋は,科学だと考えてもいいことだろう。
科学は、「みんなで幸せを目指す」ものだと著者は強調している。
困難は多い。けれどやはり私達は「教育科学」のある部分を担っているという自覚は持ちたいものだ。
別に雑誌宣伝しているわけではないですが…。
著者の小説を読んだ記憶はあるが、なかみに関してはまったく印象がない。フィットする部分がなかったのだろうと思う。
しかし、この新書はなかなか面白かった。
内容は、「科学を敬遠するな」「敬遠していると大変な目に遭う」「みんなで正しいことを積み上げていこう」ということを、震災や身近な事例を引きながら繰り返し述べているに過ぎないが、説得力がある。
それは、やはり科学者の視点があるからだろうと思う。
科学者の視点とは何か。
それは言うまでもなく、この本の題名に関わることである。
二章のまとめで、著者は述べている。
科学というのは「方法」である。そして、その方法とは、「他者によって再現できる」ことを条件として、組み上げていくシステムのことだ。
そのために、「数」と「実験」が重要であると語っている。
だから、この本には結構多く数字がでてくる。さらに実験を紙上でしているわけではないが、様々なエピソードが紹介されていて読み手を引きつけるし、納得もさせる。
また,さらっと読んでいこうとしても、手痛い言葉がすぐ目に入ってくることも特徴だ。
例えば…
言葉を覚えることで、無意識のうちに「立ち入らない」境界を作ってしまう
「やる気」や「心意気」よりも、数字の方がずっと信頼できる。数字は人を裏切らないし、数字は調子が悪くなることもない。
さて、科学を「他者による再現性」をもとにしたとき、某出版社が雑誌に名づけている「教育科学」というのは、実に興味深い。
そしてその社が、法則化運動に深く関わってきたことも頷ける。かの『現代教育科学』誌は廃刊となったが、まだその冠をつけられている雑誌はある。
その目指すものはやはり「他者による再現性」が大きいと言っていいのだろうか。
主たる読者である教員にとっては、自分がページをめくり何かしら得ることが、科学かどうかなどふだん考えてみることなどないと思う。
しかし結局、雑誌等に載るそれらの「実験」(これは誤解されそうだが)の記録を通して、ある意味の「数値化」を提示し、それを文章化した提案、報告を受容し、さらに実験し、結果を得ようとする道筋は,科学だと考えてもいいことだろう。
科学は、「みんなで幸せを目指す」ものだと著者は強調している。
困難は多い。けれどやはり私達は「教育科学」のある部分を担っているという自覚は持ちたいものだ。
別に雑誌宣伝しているわけではないですが…。