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言葉とのつきあい方を問題にすればいいってものじゃない

2013年06月11日 | 読書
 仕事の現場って面白いですよね。その職場だけに通用する規律や独特のルールがあって。私生活では積極的に人と会うほうではありませんが、仕事で人の話を伺うのはぜんぜん苦にならないです。(小川洋子)

 ただ、仕事だから演った。そして仕事は全力でやるのが当たり前だと考えていた。
 高峰は「根性」とか「頑張る」という言葉が好きではなかった。
 たとえ全身全霊を傾けて仕事に臨んでいても、周囲には毛ほどもそれを感じさせない人だった。(斎藤明美)


 新潮社の『波』今月号から引用した。
 物理用語としての仕事を抜きにすれば、仕事という語の意味は単純に「職務」「職業」というところが妥当だけれど、どうもそれ以上に広がりを持っている言葉のように思えてくる。上の引用文でもそうではないか。

 『波』の愛読している連載「とかなんとか言語学」で、橋秀実が今回は「仕事」について考えることから書き始めている。
 ある対談で、「橋さんにとって、『仕事』とは何ですか?」と問われたという。
 それに対して著者はこう書く。

 大体、他の言い方があるなら「仕事」とは呼ばないわけで、仕事は仕事だから「仕事」と呼ぶのである。

 という途方もない言い方で退けようとするが、ここから橋流の独特の追究が始まるから面白い。

 まず初めに、かのP・F・ドラッガーの文章を引用する。

 仕事とは、一般的かつ客観的な存在である。

 「えっ、存在」ということから、訳語に手を伸ばし、結局「存在とは何か」という哲学筋の話題に移ってしまい、結構こんがらってくる展開だった。
 (和辻哲郎の「存在」に込めた意味は、なあるほどと思った)

 最後に、著者はこう結論づける。

 仕事とは何か?
 下手に考えず、「仕事」という漢語はそのまま「仕える事」と読み下せばよいのではないだろうか。


 ここで「仕える」という言葉の対象が気になってくるわけだが、正直あれこれ考えても深めることは無理なような気がする。
 ただ、冒頭、引用した二つの文章から感じるのは、「仕事」は自己を規制するものだが、それを受けとめる意識のあり方は様々であることだ。

 「橋さんにとって、『仕事』とは何ですか?」と問われ、その言葉の意味を探って調査し、論理を展開しているが、この手の質問の意図は一般的にはそうではない。

 結局、その言葉(のもの)とのつきあい方を問題にしているのである。それしか問題にしていないと言ってもいい。
 すべてそうだと言い切ってもいい。

 だけど、それじゃつまらないともう一方で騒いでいる。
 こんなことを書いているのも「仕事」の一つだ、なんて思う自分の頭の構造は、いったいどうなっているのか。
 言葉の多義性というだけじゃ、済まない気がする。