すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

菜根譚のエキスを少し

2013年06月06日 | 読書
 『菜根譚』を読んだ。
 といっても、そのものではなく以前放送されたNHK「心の探究」というラジオ番組のテキストである。
 講師は鎌田茂雄という東大の名誉教授で、この音源を時々車の中で聴いている。

 見逃したり、聞き逃したりすることが常の自分なので、テキストと音源の双方で接しているのは、案外向きなのかもしれない。
 いわゆる人生の処世術的な語録ということだが、なかなか悟りに達しない(またサトリ世代とかけ離れている)身なれば、せめて繰り返し見聞きすることで、僅かばかりの恵みに与りたい。

 『菜根譚』は、鎌田氏が語るように、いつでも、どこからでも、どんな年代の時でも、読めばそれなりの解釈が得られるようなものである。こんなふうに書いている箇所がある。

 むしろ題は皆さんが自分でつければよいのです。

 一つを読み、それに題づけができれば、きっとそれはある程度消化されたと考えてよいのだろう。また、すらりと口をついて出るようになれば、処世訓として「いつか」役立つのかもしれない。
 では、一応読み終えて、すらりと出せる言葉はあるか。

 貪らざるを以て宝となす

 心体光明ならば、暗室の中にも晴天有り

 濃夭(のうよう)は淡久なるに及ばず、早秀(そうしゅう)は晩成するに如かざることや。


 この程度か。
 それ以上に、菜根譚の言葉に類する、似たものとして様々に取り上げられているものが印象深い。
 いくつか書き留めておく。


 何事もなきを宝に年の暮れ(俳句・作者不詳)

 苦しみを転じて楽しみとなす観自在(山岡鉄舟)

 利行(りぎょう)は一法なり。普く自侘(じた)を利するなり(道元)


 『菜根譚』という表題は、「菜根」が「野菜の根」、「譚」が物語という意から、野菜の根をかんだことがあるような人が説いた人生の教えからきている。
 野菜の根ではスープをとるのが関の山の自分たちであっても、歴史を生き抜いてきた言葉の持つエキスを、心の隅にキープしていきたいと殊勝なことを考えている。

 この本全体への題づけは難しいが、伸ばし形づくるべきは、葉や花ではなく根であると、齢相応な感じ方をしてはいる。