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桜と絵本と豆乳と

書き始めると思い出すこと

2013年06月07日 | 雑記帳
 昨日の校内報は、ちょいと力が入ってしまった。前日に、年度初の指導案検討をしたので、そこでいろいろと感じたことをまとめておこうと書き始めた。題して「指導案検討から考えた授業改善」。書かれた指導案を読み合い、話し始めてみると、一人一人の語りに見えてくることがある。日常の授業づくりの姿勢だ。


 一つ目は「ねらい」に関すること。教科の指導書に載っている文言一つとっても、これが何のために必要なのか、どういう要素で形づくられている言葉か、吟味が必要であることは間違いない。その部分をないがしろにしないことだ。そうすれば自ずと骨格はきまってくるし、一時間のねらいも絞り込まれてくるはず…。


 二つ目は「教材提示のし方」。国語の場合は教材が文章であるため、どうしても教科書に頼る。それが自然で一般的だろう。ただその提示の仕方一つ変えるだけで喰いつきもよくなるし、また効率性に大きな違いがでる。指導者のねらいと学習者の実態のすり合わせは、その提示の仕方に表れるといったら言い過ぎか。


 最後は「全員参加の手立て」。特に今回は一年生が対象であるため、そのことを痛切に感じた。日常の教材研究、指導法研究はそれに対応するものを求めていることが多い。また、活動の変化や形態の変化だけで取り結ぶということが難しくなっている現実がある。では次の手は…内容の変化を入れる、ユニット型か。


 前に書いているのかもしれないが、授業を「パーツ」で意識した鮮烈な記憶がある。もう二十数年前だ。それは当時の特殊学級における1対1の学習活動だった。若い女教師は、ほぼ3分ごとに活動や内容が変化させていた。その連続で45分を構成したことに、当時の自分は衝撃的をうけた。やはりそこは省けない。