すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

この頃のキニナルキ

2013年06月10日 | 雑記帳
 「いい土地なら、誰でもやる。ここは、われわれがやって見せねば」

 城山三郎の著『人生余熱あり』に登場する半田さんが、定年退職後にマレーシアの農業指導を続けるなかで語る言葉。
 それにしてもチャレンジする心意気は、ほとんど似た言い回しになってくるようだ。

 かつて、広島カープに在籍した高橋慶彦は盗塁の名手として知られたが、数を稼ぐために必要のない盗塁はしなかったという。つまり「相手が盗塁してくるだろうと警戒している時にこそ走る」とインタビューに答えて語っていた。
 かの王貞治も、「ホームランを打たれまいと相手投手が思っているときに、ねらってホームランを打つ」と語ったという。

 好条件での仕事など何ほどのものでもない。
 悪条件における仕事こそ、何かを為し得たといえるのである。



 「肉声があってこそ、話し言葉になります。しかし、パソコンや携帯電話の書き言葉は、肉抜きで成り立っています。筆記具で文字を書くことで肉性が加わるのです」

 例の『トンボ鉛筆完全ブック』に載っていた書家の石川九楊の言葉。
 そういえば「肉筆」なんていう言葉を使わなくなったなあ。「肉声」に比べてみると、その減少スピードははるかに進行しているのではないか。

 文字の姿形に現れていた、自分の姿勢や感情はどこに消えてしまったか。
 その現実が進行している世の中で、失われていくのは想像力だろうなと単純に思う。

 「肉性」という用語の使われ方はちょっと違和感があるが、身体性のパワーを込める意味では、そういう形容もぴったりはまる気もしてくる。