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半読者は怖れ,居直る

2013年06月26日 | 読書
 『自分の頭で考える』(外山滋比古 中公文庫)

 一応、読書をメインにしてブログを続けている者にとっては手痛い言葉と出会ってしまった。

 半読者


 著者の造語である。
 セミ・リテラシー(読み書き能力の半分)しか身につけていない読者を指す。文字は読めているのだが、その先は…という状態にあることだ。
 著者はこう書いている。

 半読者は、未知を知るための洞察、想像の能力に欠けているか、不充分です。すこし難しいことが出てくると、自分のことは棚にあげて、これはおもしろくない、難しいと言います。


 そして、わかりやすい表現、書き方が奨励されている現状がこれに拍車をかけているという。もちろん出版業の発達も絡んでくることだろう。
 結果、本を読む行為の意義づけの弱体を、こんなふうに斬ってみせる。

 本を読むことがかならずしも知性を高めたり、思考力をのばしたりすることに結びつかないのは、半読者層の存在のためです。


 「層」と名づけられるほど、強い影響を及ぼしている自覚など誰が持ち得るだろう。

 では、半読者の一人としてはどうするべきか。
 ・・・・何も思い浮かばないまま、ひょっとしたら「ゆっくり読む」「くりかえし読む」といった向き合い方しかないのでは、そんなことを考えてみた。

 確かに、難解さや文字の細かさなどに対する抵抗は人一倍強い自分だが、もしかしたら「時間枠」のようなことをとっぱらってみればもっと洞察なり想像なりが膨らむのかな、いやそれじゃ続けてきた「読書記録」は全く逆に働いたということか、それは寂しいなあ…

 半読者なら半読者なりに、単なるたし算の発想で増やしていくしかないだろう。いやひょっとしてかけ算だったら、益々読者レベルが下がっていくではないか。怖い。

 しかし、間違いなく我が国の賢者の一人に数えられるだろう著者の文章は、今回も読みどころがたくさんあった。
 自分なりに言い切れば、世間でいいと評価されていること、また常識的と言われる知識などを疑ってみることが、視野を広げ、思考力に通じていくと諭している内容だ。

 半読者は半読者程度のこの収穫をどこかで生かし、そこでまた何かを得よう、それでいいではないか。居直ってしまった。