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その導入が失わせる物語

2018年05月07日 | 雑記帳
 プロ野球中継を見ていたら、「申告敬遠制」なるものが導入されていた。大リーグでも採用されていて、時間短縮や国際的な足並み揃えというのが理由らしい。確かに、初めから敬遠であるのなら投手がわざわざボール球を4球も投げる必要があるのか、という考えはあるだろう。しかし…と思う。そこに物語はないのか。


 かつてかの長嶋が敬遠に対してバットを持たずに打席に立ったことや、新庄やクロマティが無理矢理打ってサヨナラヒットにした…というレベルのことを言っているわけではない。敬遠という駆け引きを、観る側が受け止める心理や次の想像が球場から無くなってしまうのが、残念なのだ。簡単に済ませばいいのか。


 報道によると「投手たちの多くは、投げなくていいのならできれば投げたくないと、口をそろえている」ようだ。敬遠とは投手にはある意味で「敗北宣言」だから、その状態を見られること自体は好まないだろう。ただその「作戦」に対して、当事者である打者、バッテリーらの心境を想像する場は確実に薄くなる。


 チームプレー、データの重視、分業化が野球にも顕著になっている今、プレイヤーの内面に思いを馳せる時は、無駄と言えるのか。それでいいか…と少し検索したら、話題のイチローは「『空気感があるでしょう。4球の間に。面白くないですよ』と異議を唱えていた」とあった。さすがです。そこにも躍動はあるのだ。


 こういう風潮がアマ球界、高校野球などにも波及してくるのだろうか。それは教育的な観点からみたらどうなるか、という思いも湧く。しかしこの導入が象徴する「無駄」の感覚は、やはりゲームの面白さを追求するものではなく、経済的、商業的な観点に依存していることは明確だと思う。世界はそう動いている。