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保守は、疑いをもつ

2018年05月01日 | 読書
Volume102
 「保守の土台にあるのは、人間の理性の万能感への疑いです。どんなに賢い人でも間違いを犯すとの前提に立ち、歴史の中で蓄積された経験知や慣習を判断基準とします。」


 ある雑誌のインタビューで中島岳志東工大教授が語った一節。
 「保守」という考え方を、そんなふうに見たことがなかったので新鮮だった。
 単著は読んだことがなく、一冊買い求めたいという気になった。

 こう考えると、普通の人間が年を取っていくと、だんだん保守的になることが当然のように思えてくる。

 通常幼ければ幼いほど、一つの選択において先人(親など)の言うことに沿って方向を定めるだろう。
 しかし、ある頃から(それは人によって違いはあるけれど)経験知や慣習に対しての疑問がわき、縛りつけているものから自由になろうとする。

 そういう過程を経るなかで培った思考の基準線の位置で、保守と名づけられたり、革新的(今どき言う人も少ないが)と称されたりするのだろうか。

 そんなふうに考えてみると、政党支持うんぬんとは別に「革新」と呼ばれる人たちはあまり間違いを経験していない人なのだろうか。
 もしくは、間違ったと感じなかった人なのかもしれない。
 それはそれで生き方として幸せという見方もできる。

 今は革新と言わずに、リベラル(自由)の方が対立軸として使われるようだ。そのあたりの概念区分と、それぞれの立場にある人の実際の言動とどう重なるのか、正直勉強不足だし、なかなかマスコミ報道だけでははっきりしない。


 ともあれ「疑い」を持つ人が、今のいわゆる「保守」にいるかどうかだ。

 中島教授は、こんなことも記している。

保守の疑いのまなざしは自己へも向けられますから、他者の声にも謙虚に耳を傾ける寛容さをもっています。

 これを現在の政治をめぐる状況に当てはめると、寛容さは自己に向けられてばかりで、他者に対する謙虚さが表面だけだ、というところでしょうか。