すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

万智先生に紙上弟子入り

2018年05月24日 | 読書
 撮った写真のブログを再開するときに、言葉も添えてみたく最初俳句もどきを書き込んだ。しかし、どうにもモヤモヤ感が残り、短歌形式の方が多くなっている。いくらか継続的に作りだしたのは、もう十数年ぶりだ。その頃手にとってまだ書棚に残っていた!新書を再読した。不勉強者には絶好のテキストになった。

2018読了54
 『考える短歌』(俵万智  新潮新書)




 副題として「作る手ほどき、読む技術」とある。第一講から第八講まであり、ポイントを数えると15個ある。最初の「『も』があったら疑ってみよう」が示すように、非常に具体的であり、作品添削をもとにしているのでわかりやすい。鑑賞コーナーでは歌人たちのプロの技について解説がつき、著者の意図は明確だ。


 つまり短歌における「言葉の技術」を具体的にどこまで伝えられるか、ということだ。詩歌は心の揺れを表現することであり、技術は二の次という論はいつの時代もあるだろう。しかし、言葉という道具の使いこなしによって作品の照度は大きな違いを持つ。心と言葉の「往復運動」をより活性化させるのが、技術だ。


 この著で取り上げられた歌人の作品に対しても、シビアな目で批評してみせる。たとえば、かの与謝野晶子の「世を去りて三十五日この家にわれと在りしは五十日前まで」という一首を「それほど上手くはない」と書きながら、「技巧を超えた迫真性」と、不器用にしか歌えない悲しみの表現と捉え「数字の重み」を説く。


 結局、言葉の選び方とは何か。歌の持つリズムという観点を念頭に置きつつ、表現したい自分の「心の揺れ」にいかに迫れるか、ということである。日常会話とは違う「場」に示そうとするとき、常にこれで正確か、もっとふさわしい言葉はないか、と振り返る習慣は大切だ。迷っている時間は有意義だと納得したい。


 今日もまた心の行きつ戻りつを迷いの道に一つ捨て置く