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「まってる」も「まつ」も

2021年04月02日 | 絵本
 この絵本を知ったのはコロナ騒動が始まった頃。よく視聴している「小山薫堂 東京会議」という番組で、珍しく小山が朗読した。感染症拡大防止によって様々な制限がかけられた世相を意識してのことだろう。外国の絵本で小山自身が訳しているという情報は示されていたが、実際にはどんなものだろうと注文した。



 その時のことは「まってる。絵本が届く」と題づけて、記してあった。今、改めてこの絵本を開く。「まつ」ではなく「まってる」と訳したのは、ことばのリズム、響きを重視した選択に違いない。行為としては「待つ」ととらえていいはずだ。それにしても、この「待つ」という動詞の意味深さは今さらながら考えさせられる。


 手元の電子辞書によれば「人・物・時などが来ることや物事が実現することを望みながら、それまでの時を過ごす」が最初で、他に「期限をのばす」「成りゆきを見守る」などと記されている。自らの働きかけの有無はあまり重視されていない行為だ。ただ、それは表面上だけであり、内面の世界が多様なことはわかる。


 例えば教師なら「待つ」という重要さをどの程度認識しているかが、力量の差となって現れる。授業場面では子どものどんな答えであっても「受ける」という引き出しがあるかないかだ。生活指導であれば、その子自身が成長を実感できるまで寄り添えるかという覚悟だ。「待つ」の深度が、生き方を決めていくようだ。


 さて、一般的な表現として「そわそわして待つ」「どきどきして待つ」「ぼんやり待つ」などという形容もある。しかしこの絵本ではそうした修飾がいっさいなく、ただ「まってる」だけが貫かれる。だからこそ内面が想像できるし、展開にもリズムが生まれる。欧州人の創った世界には、独特の軽やかさも感じられる。


 ふと、2月に掲示した坂村真民の詩「待つ」を思い出した。これは達観というより諦念に近い気がする。昭和期日本人の典型と考えられるし、その血も流れている。今「じっと待つ」ことは時流に合うとは言い難い。しかしその先に見えているものが有るや無しや、そこが問われているのではないか。

待ってもむだなことがある
待ってもだめなこともある
待ってもむなしきことばかり
それでもわたしはじっと待つ