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偽善者50年の結論

2021年04月09日 | 読書
 一般的な言われ方として(もはや死語ではあるが)「三無主義」のしらけ世代と称されてきた。しかし、そういう括られ方をされながらも、中学生の頃か、他人に投げつけられる言葉として、最悪レベルの一つに「偽善者」があった。自分を見透かされていると、どきっとしたものだ。昭和期齢相応の平均像か。


『現代 野蛮人入門』(松尾スズキ  角川SSC新書)

 その頃から50年もそんな気分を引きずって生きてきたとは思わない。しかし、この新書の第2章「偽善だっていいじゃないか」を読み、どこかホッとした気分になるのは、まだそんな青い欠片もあったことを教えてくれる。松尾の、居直りとも言えるその解釈に頷く。「『偽善』とは、『善の快感』を自覚していること


 演劇人らしく「演じる」という語の奥深さを考えさせてくれる。「偽善というのは、いい人を演じる行為」とし、「演じる、ということは、『いい人間』を俯瞰で見る」ことと語る。そこには個々の考える「いい」について疑いの眼差しも含まれる。何であれ、一つの価値観に埋没する危惧は、常に持ち合わせていたい。


 その意味で「善意の人より、偽善の人」「人を助けて褒められ、いい気持ち」とあっけらかんに語り、振る舞うことが健全ではないのか。一億総監視社会の中では、何をしても言っても他者の評価は気になるのが当然、そこにあえて逆らわず、本音では「軽くうつ。くらいが、この先の人間の基本的な塩梅。」と心得たい。


 劇中でよく使う言葉として「宇宙は見えるところまでしかない」を挙げ、それを最終章の見出しとしている。これは「全能感」という捉え方ではなく、逆に常に自己認識の外側を意識すること。他者と「わかりあえない」地点からどう足を伸ばすか。善という「欲」をバランス感覚で包みながら、そっと出そうと思う。