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探索と選択と習慣と

2021年04月22日 | 雑記帳
 中野信子氏は「私たちは、なぜ脳を持っているのでしょう?」と問いかける。そしてその訳をこんなふうに書く。「『過去に自分が生きてきた環境条件のもとで、こういう戦略が適切だった』という情報を探すため」…脳を持たない生物は遺伝子にその情報を託すと続けられ、なるほどねえと、高校生のように感心した。


 「逃走か闘争か」という『スマホ脳』のキーワードを思い出す。私たちがさらされている現実とは、何十万年前とそう変わらないかもしれない。人生の大事な場面はもちろん毎日の茶飯事まで、選択の連続である。同じ雑誌で斎藤孝氏が、哲学者ジョン・スチュアート・ミルの『自由論』を紹介し、次の一節を挙げる。


 「洞察力、判断力、識別力、学習力、さらには道徳感情をも含む人間の諸能力は、選択を行うことによってのみ鍛えられる」…選択という語は生活語彙だが、教育の場でも十数年前から用語として強調されてきた。しかしその場面を増やすことによってどんな能力が鍛えられたか、という根本は押さえられていたのか。


 同調圧力、予定調和でじんわり包まれているなかでは、いくら選択場面が増えたように見えても能力は高まるのか、と危惧する。個性を売り物にしながら、実は巧みに経済活動に誘導する手法はアナログ時代からあったが、今はカオス状態だろう。ツールとしてのPC、スマホの使い方を、だからこそ考えねばならない。


 哲学者山本芳久氏が雑誌の対談で語っている。「人間とは『習慣の塊』であって、その人が積み重ねてきた習慣がその人らしさを形成している」。例えば今、自分が機器にどの程度どんなふうに接しているかを、見直してみたい。何かを目指すなら、阻害する要素を「習慣の塊」の中から見つけ出し、捨て去るしか手はない。