すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

邪魔な自我を忘れれば

2022年03月18日 | 雑記帳
 久しぶりに孫Tと散歩をした。もうすぐ花粉も酷くなろうし、4月にはこども園に入園予定なので、こうした機会は頻繁になくなるのかなあと、思わずしみじみする爺である。ところで上の孫ともずいぶんとそんな時間を過ごしたが、幼児の行動とはなんとも気まぐれで、なんと不可解なものか…改めて目に浮かぶ。



 ある天気のいい夕暮れ。孫Kは、西を向き目を閉じたまま、笑みを浮かべながら歩き始めた。「おいおいっ」と数メートルで止めたが、どうやら瞼の裏が明るく少し暖かになって気持ちがゆるみ、そちらへ進んだらしい。幼い頃、自分にもそんな感覚があったような…。暖かさはお日様にあり、人は皆、その方を目指す


 ある時、Kは稲刈りの終わった田んぼへ入り込み、歌にならない節をつけながら、言語と呼べない音を発して、あちらこちらと足を進めている。爺馬鹿なのだろうか、何か美しいというより神々しい姿を目にしたようで、思わず立ちすくんでしまった。そこにあるのは、まさしく自然、草や虫も傍にいて見つめている


 雪は孫Tにとっては格好の遊び相手となった。昭和期と比べることはできないが、そこらじゅうにある白く冷たい物体は、特に男児の破壊衝動を満足させるに絶好の素材。手で叩く、掴み、落とす、足で蹴り上げる、踏みつける…三月のジャリジャリした雪質は、真冬のそれと違って温かささえ覚える。嬌声が響く。




 「気がすむまで」と心がけて接したい。もちろん、現実はそんなに甘くない。稀代のデザイナーが「子どもが興味を持って『何これ』って入っていくとき、夢中になっているときは、自我がないんです。」と語るように、面白いことを見つける体験こそが人間にとって一番大事だ。せめて孫たちに場を保障してやりたい。