すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

何度も立ち止まって考える

2022年03月29日 | 読書
 学校に勤めていた頃、購読していた教育雑誌は多い時で月7~8冊あった。なかでも明治図書の「教育科学」を冠したものが半分だったはずだ。そこに惹かれた心持ちを今振り返ると、なんとも中途半端だったことよ。この著を読むと、私などはまさしく批判のど真ん中あたりに居た経験を持ち、考えさせられた一冊だ。


『学校に入り込むニセ科学』(左巻健男  平凡社新書)

 
 ターゲットとされているのは「水からの伝言」「EM」「TOSS」「ゲーム脳」「食育」「エネルギー・環境教育」「オオカミに育てられた少女」「江戸しぐさ」等々、多岐にわたっている。初期の「教育技術の法則化運動」において、「清涼飲料水」に関する論文を出し出版化されている当事者である自分は、間違いなく対象者となる。



 TOSSから距離を置いたのも早い段階だったし、その意味で著者の考えに近い箇所もある。ただ批判の全てに納得しているわけではない。これは思想・価値観と強く結びつくし、平行線をたどらざるを得ない面がある。例えば、生きていくうえで「科学的根拠」がどれほど重いのか、と問われればその違いは大きい。


 もちろん科学的リテラシーの重要性は揺らがない。学校という公的な場では決定的である。従ってそこに携わる者は慎重であるべきだ。だから最終章で記されるように「『私たちはだまされるのが普通である』ことを知る」…この点を踏まえた向き合い方が肝心になる。かなり広範囲で、時間を要する作業を伴う覚悟が必要だ。


 振り返れば、そうした場を持てたか保障できたか。甚だ自信がない。「面倒な手続き」を省くことが合理的とされ、思考自体も慣らされてしまった気がする。エビデンスとよく言うが、それも「自分に都合のよい事実だけしか見ない、集めないバイアスがかかってないか、見極めなければ…。何度も立ち止まることだ。