すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

夏の聞き耳メモ…5

2008年08月13日 | 雑記帳
 授業づくりネットワーク2008in仙台へ参加した。

 最初の全体講座は岩倉政城先生(尚絅学院大学教授)。
 まったく存じ上げなかった方であるが、実に心に残る内容だった。
 今まで数多くの講座・講演を聴いてきて、素晴らしい内容の「わかる」講座はたくさんあったが、それらとは少し違う、いわば「感じる」講座であった気がする。

 冒頭で、岩倉先生は次のようなことを仰った。

 言語で人と交流できると思うのは危険なことではないか

 「教師の『説明力』を鍛える」と題した講座において、この一言はとても重い。
 確かに、人間は言語で示される内容よりも視覚的な印象に左右されることは承知している。
 しかしそのことを表面的にとらえて言っているのではない。
 
 表情の変化、声調の選択、視聴覚資料の活用そして何より身体的な接近、接触が縦横無尽に取り入れられた80分。言語による伝えはもちろんだが、参加者との交流に全力を尽している岩倉先生の姿が見て取れた。

 ぼくらはもともと口である

 口は、生きるための栄養分摂取を通じて交流を始め、その延長として言語を使う交流のための大きな手段の一つとなっている。しかし口の本質とは何か、もう少し思いをめぐらせば様々な考えも浮かぶ。
 書籍コーナーで見つけた岩倉先生の著書『口から見た子育て』(大月書店)を購入し、泊まったホテルの一室で読みきった。本の最終項が「愛情を豊かに表現する」で終わっていることも象徴的だった。

 講座の中で流された中島みゆきの『命の別名』は、一時期よく車の中で繰り返し聴いた曲だ。
 引用された部分についても、ずっと考えたことがあった。
  
 ♪知らない言葉を覚えるたびに 僕らは大人に近くなる
  けれど最後まで覚えられない言葉もきっとある♪

 改めて思う。
 人は何のために言葉を覚えるのか。
 何のために、どんな言葉を教えようとしているのか。

大人の出番という難問

2008年08月10日 | 読書
 「子供の挑戦 大人の出番」(野口芳宏著 モラロジー研究所)を読んだ。

 23の小話は、どれも学校や子どもに関わる日常の風景を描いている。いくつか野口先生の著書で読んだ内容も含まれているが基本的には書き下ろしの形で機関誌に掲載されたものだ。

 結論が明示されているものが多いとはいえないが、将来を暗示しているようなエピソードで締めくくられているのがほとんどだ。その中で「12 指導力を超える子の出現」は、まったく先行きが見えないままに収められていた。
 ベテラン教諭の声に耳もかさずに乱暴な言動を続ける子。「来年も受け持ちを」と校長に言われ苦悩が深まったままに話は終わる。

 「本書は子育てを深く考え合うヒント集」とのことだし、自分で方向を考えよというのが著者(野口先生)の意味づけだろうが、それにしても困難さばかりが圧し掛かってくる。
 第二章「心を動かす言葉の力」に収められたことを考えても、担任教師は言葉を尽くしただろうし、誠意ある行動もしているように読み取れる。それでもなおかつ子供に改善は見られない。「熱い情熱」だけで解決できる様相でないことは明らかだ。

 とすればそれ以上のことが要求されている。それは何か。

 学校と教師の力だけで解決ができるというものでもありません。私は「解決」の鍵の一つが「平等」という言葉の功罪の吟味にあるのではないか、と考えています。

 それは指導という枠を超えた制度的な何か、ということになるのだろうか。
 具体的には、学級担任の責任を全うしただけではどうにもならぬほど、症状が進行しているのかどうかの見極めが大切だ。その後どんな態勢をとり、体制を作っていくか。かなり難問だ。

夏の聞き耳メモ…4

2008年08月09日 | 雑記帳
 佐藤康子先生(青森明の星短期大学教授)のお話を聴いた。
 以前、茨城大の大内善一先生より「機会があったらぜひ聴いてみて」と勧められたこともあるので、非常に楽しみに出かけた。

 行政職の経験もおありのようだったが、まさに小学校現場の叩き上げの印象がする実にエネルギッシュな方であった。

 「私はこうして子どもを鍛えた」というテーマのもとに、子どもに力をつけていくための様々な具体的な方法を数多く示された内容だった。
 私なりに受け止めた佐藤実践のキーワードを、次の三点に集約したい。
 
 即時性 

 何回かおっしゃった言葉「すかさずほめる」。
 子どもの発言を「教材」としてその場で繰り返す。または時をおかずに学習のてびきという形で提示し指導していく。こうした手法が徹底されている。

 活用性 

 小学校の教室によく見られる前面掲示(話し方の例など)の否定が、一つの例である。
 「使わないものはいらない」と佐藤先生は言い切った。それはつまり、指導したこと、学んだことを絶えず子どもが使うように仕向けている、という自信である。学年の初めに学習過程や話し合いの仕方を学ばせるという全体計画の仕組みも、学んだことを使う、使うことで学びを深めるという考えが明確に出ている。

 複合性
 
 これは総合的と言い換えてもいいかもしれないが、学習指導の細かい点から学級経営上のことまで、広く意識されている。例えば、物語の読み取りにおける「重ねて考える手法」や「視写と音読を合わせ、暗写とする方法」などがある。また、学習のてびきを家庭との連携として意識していることなどもそうだと言える。
 自分のすることを多面的に見つめて、その効果について考えている、つなげようとする意識が強いと言えるだろう。

 自宅でちゃわんを洗いながら、道を歩きながら、ふと授業のアイデアが浮かんだときの嬉しさを語られた。また忘れないように絶えずメモを準備しておくともおっしゃった。
 それは授業という仕事、教育という仕事に一途に打ち込んできた、まさに「教師」としての真正な姿を見る思いがした。
 さらりと言い切ったこんな言葉がある。

 授業の中で子どもの顔が変わったときほどうれしいことはない


夏の聞き耳メモ…3

2008年08月08日 | 雑記帳
 所属している研究会の夏恒例の講座で、阿部昇先生をお招きした。
 今回は「活用型学力」をテーマにした内容である。講座およびそれ以外の時間でのお話(時間にすればかなり多い)を含めて、自分自身の学びをメモしておきたい。

1 「活用型学力」のとらえ方
 阿部先生の示した「活用型学力」は非常に広範囲のもの、「学力」そのものと置き換えてもいいほどに大きい。例えば次のような言葉がそれを示している。

 活用を含まない学力は、学力ではない

 具体的には文学作品を読み取る用語やものさしなども含まれている。
 確かに学力が「基礎」と「活用」にはっきり区分できるわけではないし、そう名づけて具体的な指導を進めていくことがねらいならば、「使える力」はみんな活用型学力と言える。そしてそんな力を養いたい、養うべきであると私もまた強く思う。名づけることで範囲を狭め、全体像をつかみ損なうことがないようにしたい。

2 「取捨選択」していくための課題
 本研究会会員による模擬授業も、阿部先生が講座の材料として扱った内容の、新聞記事の比べ読みという形となった。
 ご自身の著書に書かれてあるような「吟味」を実に具体的な方法で、聴衆に示したと言っていいだろう。
 同じ出来事を扱った「語彙・表現」と「『事実』の取捨選択」によって、これほど読者が抱く思い、考えには違いがでることを目の当たりにしたのではないか。
 懇談しているなかで作文の話題がでてきて、以前から考えていた用語の不備、不徹底などを尋ねてみた。賛同をいただき、「集材」「選材」といった言葉の扱いがもっとポピュラーになることを推進していきたい思いがさらに強くなった。

 国語教育界の現状についても興味深いお話を伺った。指導要領改訂に伴って言語技術教育の面では明らかに改善されてきているが、推進していく側の熱はどうだろうか。活発な議論がかわされるために求心力のあるリーダーや人材の出現が今待望されている。

未知を読む、未知に気づく

2008年08月07日 | 読書
 学校がすることのうちでもっとも重要な一つは、この未知を読む能力を育てることだ
 『読みの整理学』(外山滋比古著 ちくま文庫)

 この本によると未知を読む「ベーター読み」の力。それを育てることが学校の使命の一つとなる。
 では、その実現のために何が必要と言えるだろう。

 一つは、語いを増やしていくこと。ある程度のことばの知識がなければ、「未知」そのものも理解できないのは当然のことだ。
 次は、読みの技能を育てること。例えば文学作品であれ説明的文章であれ、読みとるために着目すべきポイントが必ずある。そのいくつかをしっかり身につけさせなければならない。
 そして、読むという意欲を持ち続けられる習慣も大切なことだ。これは単に読書習慣だけでなく、向上心といったとらえ方なのかもしれない。
 これらを発達段階や個別の実態にそってレベル調整していくことが、読みの指導だと思う。

…こう書いてみるときわめて平凡なことであり、そんな「読み」しかできなかったのかなと自分で思ってしまう。

 現実的には既知と未知というように明確な区分はできず、既知にも未知の部分があると筆者は書いている。
 そうすれば、未知を読むことは既知を目指すことでなく、既知と未知を区分し身を処するということなのかもしれない、などという考えが浮かぶ。

 未知の部分をどこまでも深く掘り下げる人もいれば、ほっといて次なる未知の地平に向かおうとする人もいるだろう。また戻ってくることも考えられる。
 そんなふうに未知に向う気持ちこそ大切なのではないか…、既知を読む楽しさに浸かって甘い読みを続けている大人たちよ、自分よ。
 もう既知に潜む未知にも気づかなくなっているのではないか。

赤めだかの存在感

2008年08月04日 | 読書
 『赤めだか』(立川談春著 扶桑社)を読んだ。

 恰好よさが際立つ随筆だ。
 談春の青春記ともいうべき内容は、もちろん貧乏あり煩悩あり挫折ありなのだが、それでもなお自分の心に強く問いかける姿が実に眩しい。
 噺家の自伝的な書きものはあまり読んだことはないが、文句なく面白い。

 特に、師匠立川談志の言葉は立ちあがってくるような言葉だ。あの独特の口調が頭の中で再現される。

 お前に嫉妬とは何かを教えてやる

 現状を認識して把握したら処理すりゃいいんだ。その行動の起こせない奴を俺の基準で馬鹿という

 そしてその師匠と向き合う談春の言葉は、理不尽さを乗り越えた愛情がほとばしっているようにも見える。

 重ねて云うが、談志は揺らぐ人なのである。ならばその揺らぎを自分にプラスに利することはできないか。

 「赤めだか」というタイトルは、師匠立川談志が庭の水がめに飼っている金魚?を指している言葉である。「いくらエサをやってもちっとも育た」ずに「大きくならない」と書いてあるように、そんな意味合いを持たせているのだろう。
 
 けれど、談春というその赤めだかは確実に成長し、存在感を放ち続けている。