すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

叱られ講座から、その2

2009年02月10日 | 雑記帳
 参加申し込みをしてから思い出したことが一つあった。
 私が野口先生の講座を初めて受けたのも山形(確か瀬見温泉で、組合青年部による学習会だった)であり、その時の題材が今回と同じく「大造じいさんとガン」。もう20年以上も前のことになる。
 それから、自分はどれだけ成長できたのか…惨憺たる現状は自覚しているが。

 国語は、ここ数年野口先生が強調しておられる学習用語や語彙についての指導を中心とした講座だった。以前も教えていただいた用語なのかもしれないが、新鮮に感じた一つの言葉があった。

 部品学力

 国語学力の要素を「読字力」「語彙力」「文脈力」の三つとし、初めの二つは「部品学力」という言い方をなされた。
 この部品という言い換えはなかなかだなと感じる。部品はたくさんあった方がいいのだが、部品だけでは学力は成立しない。部品には役割がそれぞれあり、共通性・関連性を持っている。

 例えば漢字の偏やつくり、熟語の構成、慣用句の意味などもそうだろう。筆順指導も話題になったが、筆順の原則をいわば部品のでき方というように置き換えれば、基本的な手順を徹底させれば一つ一つの部品の作り方を教えることはいかにも非効率だし、漢字指導にも応用できるだろう。文法的事項や対義語等を取り入れることも、部品の製造過程を学ぶ意味にも似ている。
 そう考えると、本質を見抜いての命名のように感じる。

 Q&Aで「グループ学習のねらい」の第一に「気晴らし」とお答えになったのはびっくり。
 さすがに野口先生。模擬授業でも確かに気晴らしになった。そうでありながら、第二、第三のねらいも自覚させながら活動させてしまうのは、まさに妙技というべきか。

叱られ講座から、その1

2009年02月09日 | 雑記帳
 先週土曜日、山形市で行われた「鍛える国語&道徳in山形」に参加した。内容は参加者による模擬授業が国語、道徳それぞれ一本ずつ、それに野口芳宏先生の解説があり、そして国、道それぞれの模擬授業的な講座があるという構成である。昼食時を利用したQ&Aやキーワードを上げての感想交流などもたっぷり時間がとられた充実したものだった。

 「根本」「本質」「原点」は何だ?と常に問う
 講座の冒頭で、野口先生は明快に切り出された。何度となく読み、耳にしたことであろうこのことを、いつもだらしなく忘れてしまう自分を叱られているようだった。観念論ではなく具体的にそれをどう示しているのか、ということである。先生は、道徳の模擬授業者に対する評価として、指導案に書きこまれたこの言葉を挙げられた。
 私はこのドラマに感動し、大事なことを教えてもらった
 こういう授業者の感動が大切であり、それは「実感に基づく教育」につながるとおっしゃられた。そして特設道徳の不振をその言葉で括られたことは、かなり重要な視点ではないかと考えた。

 「叱る意味 叱られる理由」という道徳の模擬授業は、以前から行われているらしく練られた素晴らしい講座だった。
 子供たちの現状がどうあれ、私たちがそういう具体的なテーマを提示し授業することがない事実はやはり弱腰の何物でもないし、そこに「叱る主体」が持つべき意識の貧弱さを感じる。
 かつて「叱りの成立」と題した小文を雑誌等に載せたことがあるが、成立を先に考えてしまう思考そのものが、叱りの根本にあるだろう怒りを去勢させてしまったのではないか…帰りの電車では、そんなことばかり考えていた。

「立て直し記」にみる教師力…2

2009年02月07日 | 雑記帳
(前日からの続き)

 この後の3校時、4校時の見事さは、野中先生の分析のとおりと思う。ズバリと核心に迫っていく手法をとられている。これはもうすでに、対象となる子供たちの多くが向き合ってくれたという判断をもとに行われただろう。一気呵成に全体を巻き込んでいく印象を持った。

 そして、「話す」→「書く」という順番も見逃せない。それはまた「全体」→「個別」という形態でもある。一人一人の心の内を受けとめていくためのステップの一つと言えるだろう。もちろん、そこでは聞き手、読み手としてどれだけ認めてもらえるか、その姿勢はたえず子供に見られている。

 「とにかく聞きました。とことん聞きました」

 聞いた内容は、すでにA先生が予想し把握できていたものがほとんどだったろう。とするとA先生のその行為の意味が明らかになる。

 「あなたたちのよごれた心を食べる」

 表面的なテクニックでは到底心に響かない、それだけの力強い言葉だ。
 文脈からは、思い切り目を見開かれた笑顔でおっしゃったことが想像される。
 子供たちはどっぷりとした安心感を持ちながら、自分の心を掘り起こし文に表わしていったのではないか。

 翌日からのことで印象的なのは、「ある子」への対応である。
 急激な変化をみせたことについていけないと感じる子もいただろう。開いたはさみを持ったその子に対して、A先生はさっと横に立ち、当たり前のように手のひらを出した。「本能的に動いた」と書かれてあるが、まさしくそうだろう。危険な行動をしそうな、反抗的な子を受けとめる身体がA先生は出来ているのである。それは例えば、子供の身体を見てどこに力を入っているか見抜いたり、目を合わせるときの表情や仕草に気を配ったりできるということではないか。
 何度かそうした場面をくぐりぬけてきたであろう経験の重みも感ずるし、何より子供に寄り添うという「腹の括り方」が最大限に表れている。

 保護者への配布物を、子供に向けている表現記述にした意味。これは大きい。もしかしたらA先生は従前よりそういうスタイルを持っているのかもしれないが、こうした手法には制限もありながらそれを上回る力があるような気がする。
 つまり、子供たち自身に見えるようにすること。いいことの可視化を家庭にまで広げるということだ。授業においてもA先生はよい言動をしっかり誉め(叱る場合も)、それを全体に見せるようにしてきたと考えられる。その延長線上にあるのではないか。

 「10才を祝う会」に向けての合唱に関わることは、クラスが立ち直りまとまってきたことを強化する取り組みだ。いわば「挑戦」を仕掛ける。子供たちの心をつかむだろうその歌を選ぶまで、A先生はいくつの曲を聴きこんだのだろう。だからこそ自信を持ってCDを持ってきて聴かせているし、返答に確信を持ちながら尋ねているのだ。
 「指導厳しいけど、どうする?」
 
 流行りの言葉のように使われているが、まさしく「教師力」をひしひしと感じた。
 この実践の芯を貫いている覚悟の強さについては冒頭から感じたが、子供たちの作文まで読みとおしたときに「指導がぶれない」からこそ、子どもが変わるのだと認識できる。全体に対することはもちろん個別対応の場でも貫かれただろう。
 指導の幅は十分に持ちながら、そして心に揺れを抱えながらも、ぶれているところは絶対に見せなかった。そのエネルギーは確実に子どもへ伝わったのではないか。
 子供の作文の最後の文章は感動的ですらある。
 「もうA先生がいるだけで私はとてもじゅうぶんだと思います」

 口で言うには容易いが、その境地までの道のりは険しくつらい。本当に力のある教師は、その指導を支える強い信念を持っているとこの頃つくづく思う。
 かつて本校においでになった野口芳宏先生に「先生ご自身の、子どもを見る目の原則のようなものはありますか?」と尋ねたことがある。野口先生はこう答えられた。
 「子どもはみんな『よくなろう』と思っている」

 A先生も、野中先生も、深く頷いてくださるに違いない。

「立て直し記」にみる教師力…1

2009年02月06日 | 雑記帳
 野中信行先生より、『崩壊クラス立て直し記』という資料を送っていただいた。
 その経緯については、野中先生の「風にふかれて」というブログに詳しい。
 http://nonobu.way-nifty.com/blog/2009/01/post-d722.html 
 http://nonobu.way-nifty.com/blog/2009/01/post-134d.html

 A4版20ページに及ぶその資料は、立て直しの当事者であるA先生の記録と野中先生による分析、そして子どもたちの作文によって構成されている。
 A先生はおそらく覚え書きとして残すというような感じで書きつけられたのではないかと思う。従って、まったく面識のない私のような者が読めば、正直その部分だけでは「実践記録」として物足りなさを感ずる。
 しかし、野中先生はその文章を「貴重な資料」と判断し、自らワープロ打ちし分析・考察を加えて仕上げた。そのことによって、この記録はぐっと厚みをもって迫ってくる。
 まずはこのような形を作り出し、さらに広めようとなさっている野中先生に深く敬意を表する。

 そのうえで自分自身として、A先生の記録そのものと子どもたちの作文から何が読みとれるのか。思いつくままであるが、記してみたい。

 まずはなんといっても、そのクラスに入るまでA先生ご自身が「腹を括る」までの経緯に感動させられる。私ごときが語るのはおこがましいが、まさに子どもの目線を的確に把握していると感じた。

「子供たちがあそこまで荒れたのは、子供たちの悲鳴だと、信号だと思いました。」

 それを聴き取れる耳、目を持っている先生にしかできない表現だと思う。そして、ひと晩考えることで自らの気持ちを子供たちにぐうっと近づけ、腹を括った。
 それは「あきらめない」という決意である。

 こういう強い意志を持っているA先生は、おそらく教育技術的にも多くの戦略があるに違いないと思う。しかし、こんな非常事態的なことは「初めての経験」と書き、書店で本を探し「一晩で読みました」と書いてある。
 購入した本のどこが参考になったのか、といったことは全く書かれていないが、決意のある読み方をする人には様々な方法が浮かび上がって見えてくるのではないか。そして自らの経験と照らし合わせて、多くの方法が選択された。もっともそのほとんどはA先生自身の中にあったに違いないと予想する。

 崩壊クラスに入ってまずしたのは「見張る」大人を撤去したこと。A先生は「小さな声で申し上げました」と書く。しかし、それは紛れもなく「絶対に譲れない」強さを持った響きだったろう。この行動は子供たちに強い印象を与えたのではないか。今、教室に入ってきた教師はたった一人で自分たちと向き合おうとしている。 これはまさに、その次に始まる授業への助走だった。
 そして最初の45分の授業が始まる。

 文章全体を読みとおしたとき、その授業が終わった時点で立て直しの7割ほどが済んでいるような印象を受けた。もちろん、その後の継続なしにあり得ないことなのだが、それほどこの1時間は重いといってもよくないだろうか。子供たちはかくして立て直しのスタートについた、という意味で。
 授業の詳しい様子が残されていないのはかえすがえす残念であるが、初めからこうしたことを想定したわけでなく、まさに目の前の子に全身でぶつかっていったことが想像できる。その授業をイメージできる言葉は短いけれど強烈だ。

 「どんな小さなことも、いいところを認めて、授業にまきこんでいきました」

 教員であるならば、今自分が目にしている子供たちに対して認めてあげられる「どんな小さなこと」を数え上げてみようとすれば、その大変さが想像できるのではないか。
 どれだけ細分化しながら言動を把握できるのか、これは教師の力量の大きな部分だ。

 授業後の子供の反応が面白い。「子分」そして「おんぶ」。A先生はかなり力強い口調でリーダー性を発揮しながら授業を展開していったことの表れであるし、所々で心の中にある弱さも隠さずに開示していったことも想像できる。
(続く)

「盗む」は一つの極意

2009年02月04日 | 読書
 なんといっても、題名が秀逸だ。

 『経験を盗め』(中公文庫) 
 まさに糸井重里という稀代の聞き手だからこそ考え付くネーミングだ。

 鼎談という形をとって、様々なジャンルの話題を取り上げているが、どれも面白く読める。ほとんど知識がないことでも興味深く思えてくるのは、やはり糸井の腕(口?頭?)だろう。

 内容はともかく、「経験は盗めるものか」とふと思う。もちろん比喩にしか過ぎないこの表現には、かなり強い意志が含まれている。

 「学ぶ」よりも強い「盗む」。

 かつて職人の世界における修業の常套語のように言われたこの言葉を、用いるということはどういうことだろうか。
 必要だから「盗む」。役立つと思うから「盗む」。大切なことを発見したらほしくなるでしょう…
 そう考えていくと「盗め」と命令形にしたのは、語り合いへの強く参加を薦める意図のように思えてくる。
 
 そして、ぼんやり探しても大切なものは見つからない。

 「盗む」は一つの極意だなあと感じる。

文字そのもので伝える

2009年02月02日 | 読書
 きちんと練習しないから上達しないことはわかっているのだけれど、時折、妙に墨を磨りたくなってくる。

 『書本』(武田双雲著 池田書店)は楷書の手本でもあり、自由書の作品集でもあり、小さな詩集でもある。佐藤可士和のアートディレクトもなかなかだ。

 武田双雲は、自分の本名にある「大」という漢字を、書家である母親から習い繰り返し書いたという。そして、それが人の姿から出来たと聞き、人だったら十人十色と大きな人、首の長い人、はげしい人…そんなふうに「大」を書いて遊んだという。

 文字は、何かを伝えるためにぎりぎりまでシンボル化されてきた。その過程において統合があり省略があり、多くは合理的な形を整えてきたのだろう。そして文字にする手段も用具の拡大、進歩によってきわめて平均化されてきた。

 この大きな流れの中でどうしても薄められていく、伝えたい気持ちの生々しさや肌触りといったもの。

 どんな入り方をしてもいいが、ほら面白いじゃない、こんなことがあったよ、できるよ、という心の動きを力強く他者に伝えるためには、既成のことにとらわれず、規制されていることを打ち破ってみることから始まる…伝えるための記号である文字そのもので表現できることは素晴らしいと思った。