すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

東北人の限界と想像力

2012年11月14日 | 読書
 『箕作り弥平商伝記』(熊谷達也 講談社文庫)

 光文社文庫に収められている2冊,『七夕しぐれ』『モラトリアムの季節』は今一つの読後感だった。作者の個人的な思い出を絡ませて書かれたような作品であるが,どうも時代が近い設定では,この作家は魅力を発揮できないのかもしれない。

 さて,この『箕作り~』は読んでいなかったし,時代が大正末期,主人公は秋田に住む箕作り職人という設定だ。少し期待がもてるかな,と読み進めた。
 やはり先の2冊と比べて風情が感じられるし,何より秋田方言(私の住む県南部とは多少違いがあるにせよ)も味があってよい。得意とするマタギ物にやや近いなあという印象をもった。

 そして話の展開は,「箕作り」という言葉に象徴される,社会・文化の断層が大きな背景として登場してくる流れだった。
 「箕作り」は,関東以西においては差別された人々の「職掌」だったことは初めて知った。きっと東北人の多くは,私と変わらずそんな感覚も知識も持っていないのではないか。もっとも「箕」自体知らない世代が多くなっていることは確かだが…。
 ちなみに「箕」とは…。
 https://www.google.co.jp/search?q=%E7%AE%95&hl=en&prmd=imvns&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=gFyjUMHWF-yhmQX-lYGwCQ&ved=0CDoQsAQ&biw=1070&bih=535


 いずれ,箕の商売を通して初めて知った差別との邂逅が,後半の主人公を突き動かしていくわけだが,終末は意外にあっけなく閉じられていて,少し欲求不満な面も残る。

 しかし冒頭に書いた,仙台を舞台にした二つの小説,特に『七夕しぐれ』において,被差別出身者の取り上げられ方を思い出しても,結局突っ込みきれない点が残っていた。
 つまり,それがこの作家いや典型的な東北人の感覚として,限界なのかもしれない。

 もちろん,単純には線引きできない点もあるだろう。例えば福島南部はどうなのかとか,地域によって獣の肉や皮を扱っていた人たちが差別的な待遇を受けていたことを聞いたときもある。
 ただ歴史的な問題として位置づけられて多くの東北人の意識にあがってくる事でなかったことは確かだろう。

 ただ,もう一つ大きな目で見れば,差別はどこにでも転がっていることを,この小説は語っている。
 それは主人公弥平の身の上でもあるし,この時代に登場してくる人物たちの言動のそれぞれに感じられる向きもある。

 いや,今の時代にあっても同じような言動はある。
 歴史的な背景のある差別,偏見の怖さを感じとれないように思ったとしても,人がどうしても持ってしまう比較意識をたどったところに流れているどろどろしたものは,案外似通っている暗さを持っているのかもしれない。

願いを伝える手法

2012年11月13日 | 読書
 『だいじょうぶ3組』(乙武洋匡 講談社文庫)

 映画化され、来春に公開だという。
 主人公は手足のない電動車イスに乗っている教師。当然ながら作者の実体験を元に書かれている。
 映画になってその役をする俳優などなかなか考えられないし、乙武さん自身が主役をするというのは、驚くことではない。

 その介助員として重要な役目を果たすのが、TOKIOの国分太一クン。なかなかいい配役だ。めったに出ないが彼の出た『しゃべれどもしゃべれども』はいい映画だった。

 さて、小説のあとに二人の対談が載っていて、これがまた興味深かった。特に、「『小説』という形を選んだ理由」ということで取り上げられた、エピソードのどの部分が実際と違うのかという点は、現場にいる教員としてなるほどと予想のつくものだった。

 乙武さんはこう語っている。

 現実ではそれぞれのエピソードの結末がハッピーエンドだったわけではありません。それをそのまま書いてノンフィクションとして提示するか、もしくは小説として発表して、着地点はハッピーエンドにして温かいメッセージを届けるか----。

 結果、それは小説となって、いわば心温まる学校と教室を描くことになった。
 この決断は作者の考えであるが、同時にあれこれ思考の浮かぶ問題でもある。

 作中でハッピーエンドを演出するのは、当然ながらそこにいる人物(子どもと教職員)になる。 しかし、問題となるエピソード場面が現実に生じた場合、そこには当然ながらその範囲に留まらない広がりがある。
 保護者であったり地域社会であったり、教育委員会であったり…。
 「常識」や「良識」が大きな壁となって立ち塞がる。だから教師個人や子どもの願望、要求は通らないのだ、などと言い訳じみたことを結論にしたいのではない。

 ノンフィクションとして書いた場合には、何を描くかが問われるし、その範囲や的を確実に捉えないと、きっと曖昧とした内容になるのだろうなと予想される。反面、はまった場合のインパクトはかなり大きい。

 逆に、フィクションはある意味で「願い」そのものである。
 現実逃避と切り捨てられても、どこかで息を潜めている心を呼び覚ます可能性もあるのだろう。
 願いの真っ当さや強さが感じられるドラマが、文章を通じて伝わってくることに、人は快感を覚えるものだし、その可能性の範囲は結構広い。

 どちらを選ぶかは、自分自身の性格や筆力をよく把握することで決まってくるのではないか。

 で、どうだったかと言えば、文章や筋として物足りなさを感ずるが、乙武さんの強いキャラクターで読ませてしまう話だった。
 きっと映像だったらもっと面白いだろうな、とその筋の業界人?としては思う。
 よって、この決断は妥当と支持する。


続・ファッションとしての言葉

2012年11月11日 | 雑記帳
 その言葉は,目に飛び込んできた。

 全部
  全力で。


 シンプルで,しかも頭韻をふんでいるこのコピーはなかなか素敵だ。

 エネルギーを出し切らない最近の子どもに対して,もっと出し切って燃費のいい心身を作ってほしいという気持ちは強い。
 そんな意味で,堂々とスローガンに掲げていいような気もする。

 しかし,それは無理だろ。

 「全部」が何を指し示すのかわからないが,書いた以上はやはり全部だ。
 全部に全力を出すなんてことは出来ないのである。

 かつて野口芳宏先生が,雑誌連載だったと思うが,「何事にも全力を」といった表現が掲示されていることに対して,到底できないことを何故掲げるのか,それは言葉への信頼感を削ぐことになるといったニュアンスのことを書かれていたことを思い出す。

 もちろん中学であるから,生徒が担当して掲示したものだろう。
ただ,それを安易に認めていたのでは,単にきらびやかな装飾と同じではないのかなと思う。

 仮に,ひと月掲示し見慣れた頃に,「見慣れた風景への疑問」と称してその言葉について意見を出させるならば,結構いい活動になるかもしれない。

 この言葉をどう思う?
 「全部 全力で。」


 それにしても,掲示されたその言葉のビジュアルだが…
 手書きの細長くやや丸みを帯びた字体,そして右下部には熊?らしき絵があり,なんとなく脱力系なんだよね。
 これも意図的か。

 もしかしたら句点の意味も深かったりして…

 普通は「全力で やろう」なのだが,句点の存在から「全力で できるかな」となり,あげくは「全力で,できるわけないだろ,そんなもん」といったふうに,読み手に任せる手法か,これは!

 ああ見どころいっぱいの環境であった。

ファッションとしての言葉

2012年11月10日 | 雑記帳
 秋田市で行われた国語教育の東北大会に参加した。

 事情があって中学校の分科会へ。各学年7~8学級規模の大きな学校だった。
 
 授業も発表も充実したものだった。そのことについてはいずれ何かで振り返りたいが,学校ウォッチャー,特に言語環境ウォッチャーを自称する(今ですが)私には,教室掲示が気になって…。

 授業者の教室の正面掲示に,ほほおぅと思った。
 図化は難しいので言葉のみにて説明すると…

 ○○組の団結力に注意!
 ~うちらの愛,なめんなよっ~


 ○○は担任の姓。交通標識の「stop」マークを配し,まわりを「keep out」の黄色い線で斜めに囲む,なかなかこじゃれたデザインである。

 昨年訪れた近隣の中学でも一クラス目についたものがあったが,ここまでくだけてはいなかった気がする。
 まあ,さすがに県都の大規模校,授業を見るとなかなかの熱血教師系でもあるしこれもありかな…隣の教室を覗いてみたら,ごく普通のものだったし…と,次の時間に訪れた別棟同学年教室の正面を見上げたら…

 天下統一,よんくみこ
 ~○○将軍,今行くぜよん!~


 と,きた。ここも○○は姓のようだから担任だろう。

 これはこれは。一種のブームだろうか。
 念のためと思い,生徒の来ていない隣の教室を見てみる。

 団結○組
 DANGO
 和菓子でも買えない○組の愛


 ○は組名で,担任の名前も下部に配置されていた。

 
 「ファッションとしての言葉」

 そんなふうな思いが浮かぶ。
 もちろん,担任にはそれなりの考えがあり,指導の末に掲示したわけだろう。
 だからその言葉をファッションではなく,身体化,内実化したいと願いを持っている。
 例えば,単に「団結」とか「集中」とか掲げるよりは,生徒の気持ちをひきつけ,鼓舞できるのではないか,という考えなのかもしれない。
 また生徒中心に製作させることの意欲付けは当然あろう。

 しかし,それにしても劇画っぽくないかい。
 個人的には正面掲示の効用の一つには,随時その言葉を取り上げて行動を促したり律したり役目があると思う。だから担任はその語を取り上げる心構えを持っていなければならない。
 そこに「愛」を持ってくるのは,少々重すぎるし,イメージのみの上滑りが予想される。

 そんなことをつらつら思いながら廊下に出ようとした。
 その時,手をかけた教室後方の扉にぺっりとはられた,一つの掲示が目に飛び込んできた。
 えええっ!

 つづく(笑)

霜月初旬の一週間

2012年11月08日 | 雑記帳
 久々に,日記風に一週間を振り返る。

1日 
全校集会で「声」の話をする。
大書した字の評判がいい。けれど,これは使いまわし。
午後,理科の指導案検討会。面白かった。

2日
朝,天候が荒れたがすぐ回復。
学校報やら,校内報やらいろいろ仕事を進める。
夕刻から,私事でホテル打ち合わせ。2時間以上もかかる。

3日
私事ビデオ作成でむったりとパソコンに付き合う。
7割ほどできたので,多少満足する。
夕方,来客あり。方言ネタで盛り上がり楽しく会食する。

4日
二日酔いにはならず,昨日の続き,午前でほぼ完成。
しかし焼き付けてみると不満。また一週間後に調整を決意。

5日
朝の街頭指導,今年初めて吐く息の白さに気づく。
午後より市社会福祉大会。なんと盛況のことよ。
しかし挨拶の話題は,限界集落。

6日
出張の担任がいて,久しぶりの授業。
辞典ネタで2時間。楽しかった。子どもたちも盛り上がった。
校内でガラス破損あり。その値段の高さにびっくり。

7日
校内研あり。4年生の国語,説明文。
久々に見どころたっぷり(つまり授業づくりの課題)。
参観後に30分ほど校内報を作成に取り掛かり,一気に90パーセント。
午後から県南の臨時校長会議。不祥事防止。

8日
朝方は,暗くなって雨。だがこれも少しのあいだ。
昨日の校内報を仕上げて印刷・配布。
祖父母参観&給食試食会。たくさんの参観者がいて
準備などに大わらわ。
放課後,六年生に今日のことをインタビューし,学校報作成へ。

と,まあこんな調子であった。

ついでにhttp://spring21.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/post-74a0.html
毎朝の写真です。


    

優勝記念(笑)お仕置きできる人

2012年11月07日 | 雑記帳
 どういうわけかまだ巨人ファンであるが、今回のシリーズを全試合中継で見たわけではない。
 見逃して残念だったのが、第2戦で巨人・阿部がマウンドで沢村に渇を入れるため頭を叩いたという場面だ。

 翌日の新聞等でも取り上げられていた。
 ケアレスミスを防ぐための阿部の一喝は、結果が良かったので好意的に受け止められていたし、総じて巨人の優勝は阿部の功績大ということに異論はないだろう。

 さて、あるスポーツライターが、こんなことを書いていた。

 沢村夫人や家族は公衆の面前での「お仕置き」をどう受け止めただろうか。
 冷徹なプロの世界とはいえ、人の扱いは難しい。人を選んでの行為だろうが、同じことを外国人選手にしたら「公衆の面前で恥をかかされた」と大問題になる。


 こんな箇所を読むとすぐ職業意識が出て、我が子を叱りとばす教師を親が目撃したらどんな気持ちになるだろうか、そんなふうに連想する。
 学校を開くということで保護者や地域住民への日常的な学校公開が全国的に進められている。
 本県でも「みんなの登校日」と称して強力に推し進められた時期があった(もちろん今も継続中だが…)。

 その設定について話し合っているとき、具体的な事例として、「ある子を叱るときに、親や他の人が見ていたらどうするか」とひどく切実に訴えてきた教員がいたことを思い出す。

 自信を持って叱ろう…というには容易い。
 しかし現実はそんなに甘くない。
 では「時と場を踏まえて、叱ろう」と言い換えれば、その熱は微妙に褪めて、伝わるものは弱くなる。
 叱るという手段を放棄してはならない私たちに、有利にならない状況がだんだんと進んでいく。

 打開策はないものか、とまた野球にもどれば、いささか礼讃しすぎとも思うが、かの阿部の評価の高い部分を汲み取ってみることも一つの手だなと考える。

 先のライターが阿部について書いたことから拾ってみる。

 ユーモラスな人物
 出場しないときの仲間への気配り
 出場機会が少ない選手への親身のアドバイス


 特別な場での、特別な一喝は、たまたま出てくるものではないだろう。
 それを承知していれば、バックボーンに自信を持ち励めば、少しは踏み出せるだろうと思う。

私も不揃いの総持ちを目指している

2012年11月06日 | 読書
 かつて同職した上司が、こんなニュアンスのことを言った。

 「職人の息子・娘は、いい教師になる」

 教員自身の生まれ育った環境はその資質に大きな影響を及ぼすだろう。その面で、職人の親を見て育つ意味になんとなく納得し、周囲の教員にその論理を当てはめて観察?してみたことを思い出す。

 そんな経験もあって、数はあまり多くないが、職人と称される方々の著書に手を伸ばすことがある。

 『不揃いの木を組む』(小川三夫 文春文庫)

 小川の師匠にあたる著名な宮大工・西岡常一との関わりで以前にも一冊読んだような記憶がある。
 この本は、小川の語りを塩野米松が聞き書きした形がとられている。
 その塩野があとがきに記している。

 不揃いの総持ち、鵤工舎の組織論、教育方法は今も引き継がれている。人の育て方、組織のあり方には普遍の部分があると思う。

 題名からも察せられるように、これは一種の教育論である。そして、自らの信念を語る小川が、比較対象?として出すのが「学校」である。
 ある意味では、学校批判のオンパレードといってもいいかもしれない。そしてまあ、いちいち尤もなことも多い。
 こんな一節がある。

 学校の先生は、二年先か三年先のことを考えればいいけど、俺らは一生食える職人を育てなければならない。一生のことを考えたら、かばい合いだとか助け合いだとかの前に、自分がちゃんと生きていく技を身につけなくてはいかんということがあるんだ。

 職人(その中でも宮大工は特殊だろう)の世界と学校教育の場を、直接比べるのは無理があるだろう。
 しかし現実社会での通用という観点で、かなりシビアだと予想される職人世界からの提言とみれば、無視することはできまい。

 小川は「ちゃんと生きていく技を身につけなくては」と語るが、それに異を唱える教育関係者は一人もいまい。
 そうなると、要はその身につけさせ方の問題である。決定的なのは「時間」と「効率」ということになろうか。
 限られている期間が絶対条件の学校教育としては、効率をめぐった考え方になるのだろう。

 効率優先…この言葉には逆らえない。
 しかし,どういう範囲で語るか、それから、非効率の持つ教育性をどれだけ意識できるか、などその取り込み方が教師の姿勢として決定的だと思うことがある。

 つまり、目の前のことに追われず、一年なら一年のスタンスで効率的に組み立て、信念を持って実践すること。
 もう一つ、効率の壁に閉ざされる子の可能性と限界を見極めながら働きかけができること。

 「だから学校は駄目なんだ」という強い括り方で迫ってくる人たちとも、きちんと対話ができるように心構えを持ちたい。そんなことを考えながら読んだ一冊だった。
 

報道とは,報導のこと

2012年11月05日 | 雑記帳
 「報道」ということばが気になった。
 「道」のことである。

 まさか「柔道」や「華道」というような「○○道」と同じではないことはわかる。
 「報」は「報せる」であることは間違いない。
 では「道」は,「道筋」とか「道理」といった方向なのだろうか。

 辞典で「道」を調べてみた。

 広辞苑では⑤として,次の意味があった。

 ⑤言うこと・語ること。「報道・言語道断」

 なるほど,しかし今までそういう意味を持っていたとは知らなかった。
 どうして口からの音声が「道」なのか。

 はあん,これはまた祈祷,呪術系?ではないかな。
 と当りをつけて,字源にあたってみる。

 案の定である。

 祓い清めて進むことを導(みちび)くといい,祓い清められたところを道といい,「みち」の意味に用いる

 「道」がこうした背景をもって「言う・語る」という意味につながったと思われる。
 結局それは「導」の精神である。

 「報道」とは「報導」つまり「報せ導くこと」…か。

 政治の様々な騒動や芝居めいたことを煽っているのが,報道機関であることは今誰しも感じることだろう。
 どこへ導こうとしているのか。
 中には自覚している人もいるだろうが,ほとんど見えないまま,誰かに導かれているのか。

行事予定表を入れ替えながら

2012年11月02日 | 教育ノート
 バインダーノートに綴じこんである10月の行事予定表を外そうとして,結構長く感じたひと月だという思いが浮かぶ。

 まあ校内研修に始まり,学習発表会があり,人間ドックに終わったという流れであり,けして辛かったので長く感じているわけではなく,いろいろなことがびっちりと詰まっていたイメージだ。
 休日も結構しっかりとれていて,茸狩りなどでリフレッシュできた。

 振り返ると,発表会での挨拶を来賓の方に誉めていただいたことが,少し嬉しい。練習を見ていて気づいた言葉「心をこめる」ということについて語ったものだ。別の来賓の方の感想カードにもメモされた跡があった。

 かつて「挨拶が仕事だ」と,当時の教育長に諭されたことがあった。在職が長くなってきてマンネリに陥る気持ちを戒めたい。

 さて,10月も3号校内報を発刊できた。研修の振り返りや校内で起こっている活動・諸問題への対応のヒントになればと続けている。
 よろしかったら,こちらのページへ。
 http://homepage3.nifty.com/spring21/CCP149.html

 まずは,こんなペースで今月も乗り切っていこうと思う。

ドックで読書,最後

2012年11月01日 | 読書
 『名短編ほりだしもの』(北村薫・宮部みゆき編 ちくま文庫)

 宮沢章夫のエッセイ風の文章から始まり、芥川龍之介、志賀直哉の小説まで収められている。
 第一部の宮沢章夫、片岡義男までは読みやすかったが、それ以降は様々な文体があり、没頭して読める作品ばかりではなかった。
 時代的な感覚の差もあり、小説好きとはいえない自分にはあまり適さなかったかなあと感じながら後半部に差し掛かったあたりで、今まで見聞きしなかった作家の作品と巡りあった。

 伊藤人譽

 ちょっと調べたら、「幻の芥川賞作家」(候補作となったが、手続き上のミスで審査されなかった)というような形容もあり、その筋に詳しい人には有名なのかもしれない。

 収められている作品は二編。
 「穴の底」
 「落ちてくる!」


 登山中に深い穴に落ちた男がなんとか這い上がろうとする話

 病院のベッドで天井の電燈が落ちてくると訴える老婆の話

 と無理やり筋を書いてみれば、どうということはないが、実は引き込まれるように怖ろしい。

 解説の宮部みゆきが、後付にも書いてある「過呼吸になりそうなほど怖かった!」と口にしたのは「穴の底」だったのだ。

 読んでいるうちに、自分の想像力を膨らませようとすれば、怖ろしさが拡がるようで、あえて淡々と読んでみた。

 「落ちてくる!」は、読み終わってからまたその光景を思い出そうとすると、天井にある様々なものに何かがついているような雰囲気になり、心が暗くなるようだった。

 自分が青年期にこのような作品と巡りあわなくてよかったな、とそんな気持ちが湧いた。
 と、思い出したのは安部公房…学生の頃、続けて読んでいた記憶がある。設定などは違うと思うが、雰囲気が近いのではないか。

 いやあ、そこに足を捕まれなくてよかった。
 何はともあれ,無事にドック読書から帰還できたことをほっとしている。