人は、生まれたと思ったら、生老病死と八苦の中で、あっという間に年老いて死んで行きます。少年は老いやすく学はなり難しです。人間は、精巧にできた肉体と精妙なる精神を与えられて、地上に生まれ、思い通りにならない地上での不自由な生活を経験して、終わりを迎えます。
道に落ちた枯れ葉が、初冬の風に吹かれて、かさかさといういう音を立てるとき、すっかり寒くなった夕暮れ時の濃紺の空を見上げるとき、あと何回、この季節を過ごすことが私に許されているのだろうか、と思ったりします。それでも、その少し物悲しい気分は、決して悪いものではありません。命のはかなさ、を感じれるからこそ、その尊さもわかるのではないだろうかと思います。
「life is fragile」と、死に近づいた時のスティーブ ジョブスがテレビのインタビューで呟いたときの顔が強く印象に残っています。それは、人生の大半をパソコン技術に捧げて、栄光と挫折の中を夢中で走りつづけた男のreflectionの言葉です。多少の違いはあるにせよ、われわれの多くがジョブスと同じように人生を生きて、気がつけば、もうその終わりだった、そんな感慨を持つものではないでしょうか。Fragileだからこそ尊く、繊細で精密だからこそfragileなのだと思います。
映画、「生きる」の中で、死期の迫った志村喬が、ほとばしる命の輝きを見せる若い女性を見て「命短し、恋せよ、乙女」と歌います。「恋」という感情は広く解釈されていますが、もとを正せば、生物としての生殖本能、ドーキンス的には「利己的な」生命の本質から生まれて来ていると私は解釈しています。「Love」と「Lust」の関係は、「青は藍から出でて藍よりも青し」ということわざの「青」と「藍」の関係に近いのではないでしょうか。ならば、生殖本能から由来した「恋」は基本的には若者のものです。そして「恋」と対句になっている若者の専売特許と言えば「革命」です。
「恋と革命」は、若きマルクスと親交もあった詩人、ハイネの枕詞で、私の子供の時は、ハイネの詩集を持ち歩くのが「ませた」高校生のステロタイプでした。ハイネの詩集は、恋愛、または(もっと低い確率で)革命活動への参加を暗示する漫画の小道具としても使われていました。その対句となっている「恋」と「革命」、いずれも激しい「情熱」が必要です。私の年では、情熱はあっても、いこし終わった後の炭火のようなもので、激しく燃え上がりません。「恋と革命」の精神はそれでも残ってはいると思いますが。
上のような連想をしたのは、今年、91歳になられた瀬戸内寂聴さんの最近の言葉を、又聞きしたからです。「続 壺 齋 閑 話」の「瀬戸内寂聴さんの死に支度」から。
年をとれば、「恋と革命」の解釈も変わってきます。もっと広く静かなものなるようです。「生きるということは恋と革命だ」という言葉は、本当に「生きて」きた人の実感でしょう。恋(拡大解釈して「愛」)は、生命の、そして宇宙の根源のエネルギーです。そして革命は人間や世界に対する愛に基づいて起こされる行動であると解釈できるでしょう。生命のエネルギーに満ちている若者はそれが自然にできる、しかし、年をとっても、「恋と革命」を実践する方法はあります。「思いやりとその実践」、「良心に従って声を上げること」です。ダライラマも「思いやりが大切なのだ」と言っていました。大きなことはできなくても小さなことからコツコツとやりたいと思います。
さしあたっては、(エルサレム賞の村上春樹さんの言葉を借りれば)卵の側に立ち、アベ政権というバカの壁を崩すことが、われわれの「恋と革命」ではないか、そのために、静かな情熱を持って、考え、発言していくことではないかな、と思います。
道に落ちた枯れ葉が、初冬の風に吹かれて、かさかさといういう音を立てるとき、すっかり寒くなった夕暮れ時の濃紺の空を見上げるとき、あと何回、この季節を過ごすことが私に許されているのだろうか、と思ったりします。それでも、その少し物悲しい気分は、決して悪いものではありません。命のはかなさ、を感じれるからこそ、その尊さもわかるのではないだろうかと思います。
「life is fragile」と、死に近づいた時のスティーブ ジョブスがテレビのインタビューで呟いたときの顔が強く印象に残っています。それは、人生の大半をパソコン技術に捧げて、栄光と挫折の中を夢中で走りつづけた男のreflectionの言葉です。多少の違いはあるにせよ、われわれの多くがジョブスと同じように人生を生きて、気がつけば、もうその終わりだった、そんな感慨を持つものではないでしょうか。Fragileだからこそ尊く、繊細で精密だからこそfragileなのだと思います。
映画、「生きる」の中で、死期の迫った志村喬が、ほとばしる命の輝きを見せる若い女性を見て「命短し、恋せよ、乙女」と歌います。「恋」という感情は広く解釈されていますが、もとを正せば、生物としての生殖本能、ドーキンス的には「利己的な」生命の本質から生まれて来ていると私は解釈しています。「Love」と「Lust」の関係は、「青は藍から出でて藍よりも青し」ということわざの「青」と「藍」の関係に近いのではないでしょうか。ならば、生殖本能から由来した「恋」は基本的には若者のものです。そして「恋」と対句になっている若者の専売特許と言えば「革命」です。
「恋と革命」は、若きマルクスと親交もあった詩人、ハイネの枕詞で、私の子供の時は、ハイネの詩集を持ち歩くのが「ませた」高校生のステロタイプでした。ハイネの詩集は、恋愛、または(もっと低い確率で)革命活動への参加を暗示する漫画の小道具としても使われていました。その対句となっている「恋」と「革命」、いずれも激しい「情熱」が必要です。私の年では、情熱はあっても、いこし終わった後の炭火のようなもので、激しく燃え上がりません。「恋と革命」の精神はそれでも残ってはいると思いますが。
上のような連想をしたのは、今年、91歳になられた瀬戸内寂聴さんの最近の言葉を、又聞きしたからです。「続 壺 齋 閑 話」の「瀬戸内寂聴さんの死に支度」から。
読書誌「図書」の最新号(2014年1月号)に、瀬戸内寂聴さんの「これまでの100年、これからの100年」と題する講演記録が載っていて、興味深く読んだ。というのも冒頭で寂聴さんは、「毎日毎日が私にとっては、まさに死に支度ということです」と宣言されているからだ。
、、、、
寂聴さんは聴衆の皆さんにむかって、「皆さんにお会いするのはこれが最後と思います。そう思ってまいりました」という。最後にあたって寂聴さんが聴衆の皆さんに向かって勧めたことといえば、想像力の芽を育てて欲しいということだった。想像するというのは、相手が何を思っているか想像力をはたらかせることで、これは思いやりであるともいう。思いやりと言うのは愛である。つまり想像力=思いやり=愛、そういうものだと思う、と寂聴さんは言う。
、、、、
91年にわたるご自身の人生を振り返って寂聴さんは、「生きるということは愛することですね」と総括しておられる。愛することは若い時のほうがよいが、年をとってもできる、という。また、生きることは恋と革命だともいう。何故ここで革命が出て来るのか、よくわからないが、どうも常に自分を乗り越えていくということらしい。
、、、、
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寂聴さんは聴衆の皆さんにむかって、「皆さんにお会いするのはこれが最後と思います。そう思ってまいりました」という。最後にあたって寂聴さんが聴衆の皆さんに向かって勧めたことといえば、想像力の芽を育てて欲しいということだった。想像するというのは、相手が何を思っているか想像力をはたらかせることで、これは思いやりであるともいう。思いやりと言うのは愛である。つまり想像力=思いやり=愛、そういうものだと思う、と寂聴さんは言う。
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91年にわたるご自身の人生を振り返って寂聴さんは、「生きるということは愛することですね」と総括しておられる。愛することは若い時のほうがよいが、年をとってもできる、という。また、生きることは恋と革命だともいう。何故ここで革命が出て来るのか、よくわからないが、どうも常に自分を乗り越えていくということらしい。
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年をとれば、「恋と革命」の解釈も変わってきます。もっと広く静かなものなるようです。「生きるということは恋と革命だ」という言葉は、本当に「生きて」きた人の実感でしょう。恋(拡大解釈して「愛」)は、生命の、そして宇宙の根源のエネルギーです。そして革命は人間や世界に対する愛に基づいて起こされる行動であると解釈できるでしょう。生命のエネルギーに満ちている若者はそれが自然にできる、しかし、年をとっても、「恋と革命」を実践する方法はあります。「思いやりとその実践」、「良心に従って声を上げること」です。ダライラマも「思いやりが大切なのだ」と言っていました。大きなことはできなくても小さなことからコツコツとやりたいと思います。
さしあたっては、(エルサレム賞の村上春樹さんの言葉を借りれば)卵の側に立ち、アベ政権というバカの壁を崩すことが、われわれの「恋と革命」ではないか、そのために、静かな情熱を持って、考え、発言していくことではないかな、と思います。