百醜千拙草

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新年あけましておめでとうございます (2014)

2014-01-03 | Weblog
新年あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

「新年がめでたい、今年もよろしく」という定型句ですが、これらの言葉には特別な意味はないように思えます。おはようございます(早いですね)こんばんは(もう晩ですね)などの言葉にとりたてて意味がないようなものでしょう。「よろしくお願いします」例えば、これを英語に翻訳しようとすると不可能です。目的語も主語もありませんから。何をどうすれば、よろしいのか、外国人には多分、理解できません。このあたりが、良くも悪くも、日本語の「味」というか、空気を読んで意向を忖度し、予定調和を念頭に、場を荒立てずに、阿吽の呼吸でいきましょう、という奥ゆかしさというかが表れていると思います。一方、この行間を読み、和を尊び、直接的表現を嫌う文化がもっとも馴染まないのが、議会制民主主義ではないかな、と思います。国会の質疑応答で、政治家が官僚の書いてもらった意味不明の官僚語の作文を読んで、民主主義政治ごっこしていますが、その言語明瞭、意味不明瞭、の官僚作文を読んで議論しているつもり、というのが典型的な例ではないかと思います。学会発表でもありますね。発表に対する質問者の質問に答えるのが目的ではなく、その場を丸く収めるのを目指して回答する人。学会において情報の交換を目的としないような、何の新たな情報も得られない時間つぶしのような質疑応答は本当に時間のムダだとしばしば思います。

しかし、そういう特殊な場合を除けば、話は別です。その言葉に大した意味がこもっていなくても、言葉を誰かに向かって投げかける、という行為にはもっと重要な意味があります。ウチの母は今年は私からの新年の挨拶が遅れて、がっかりしていました。挨拶することは、相手(の存在)を認めることであり、それこそがコミュニケーションの最大の目的であると言ってよいと私は思います。言葉が理解できる必要さえありません。私はあなたがそこにいることを知っていますよ、あなたの存在を認めていますよ、そういうメッセージが送れれば、それで十分ですから。(人間、無視されることほど辛いものはありません)

それはさておき、「新年がめでたい」という表現に関しては、私はそのままの意味を噛み締めるべきであろうと思います。新年の何が一体、めでたいのか、という話は前にもしたような気がするので、また繰り返しになるかも知れませんが、新年は絶対的にめでたい、と私は思っております。
「門松は冥土の旅への一里塚」という句を、昔はアレコレと皮肉に解釈していましたが、今では、この句を聞いても新年が来る度に、一歩一歩、お浄土へ近づいているのだ、ああ、めでたい、と素直に思えるようになりました。一休さんがどういう気持ちでこの句を読んだのかは知りません。「めでたくもありめでたくもなし」と続きますが、きっと本音は「めでたい、めでたい」であったのであろうと想像しています。

「人生に死という終わりがあって良かった」と私が言うと、それは大変ネガティブな考えではないか、と反応する友人が約5割の確率でいます。でも、そんな人でも、「では、もし絶対死ない方が良いのか?」と聞きかえしたら、答えに逡巡するものです。多分、キリスト教のように、人生は一回きりで、終わったらもう二度と人間界に生まれ変わることがないというような教えを信じている人ならば、死というものに対する忌憚の念は、われわれ東洋人よりも強いかも知れません。私は、生まれ変わりはあると信じている方が、今回はダメでも、次の半荘で挽回できる(かもしれない)、と希望をもてるので精神衛生上、よいのではないかと思います。

昔の中国では、死ぬことを「借りを返す」と表現していました。この世での体と命は借り物で、一生が終わったら、「ありがとう」と言って、借りたものを返す。(それで、また順番が回ってきたら、次の体を借りて、この世に帰ってきて、楽しむ)そういう意味ではないかな、と思います。苦しい事や面白くないことが多くても、「誰か」が、われわれに命と肉体を貸してくれて、様々な経験をする機会をあたえてくれるのです。たいへん有り難いことです。こうして、また一年が無事に過ぎて新年となり、まだ引き続いて何らかを経験をするチャンスがあるのです。生きてるだけで有り難い、新年になってお節が食べれて有り難い、唯々、めでたいです。そう思います。

そして、いよいよ終わりになれば、「いろいろ経験できて、楽しかったです、ありがとうございました」と言って、命と体を返す、そうありたい、と私は思っております。
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