百醜千拙草

何とかやっています

成功よりも大切な...

2014-01-14 | Weblog
先日、思いがけず、十数年前の同僚が別の用でやってきて、顔を見せてくれました。「超秀才」で、勉強では絶対勝てないという人です。私は小学校、中学校のころから、超秀才の人々にコンプレックスを抱いていて、そういう人は別次元にいて、「同じ人間」ではないのだと考えてきました。しかし、もうこの年になると、勝つも負けるもないので、超秀才に対する苦手意識は随分なくなりました。この同僚も十数年前は、その秀才ぶりが尊敬されると同時に、一方では秀才臭さを嫌う人もいました。月日が経って、お互い、随分丸くなりました。
 再会を喜び、雑談をした後、新刊の著書をくれました。これまでの一般向けの著書は、自分の研究分野の話を一般人向けにしたものが主でしたが、今回の本は、研究とは無関係の哲学的な話のようです。随分、昔、研究以外の目標や夢みたいなものについて雑談をした時に、本を書きたい、と言っていました。それから十年で数冊、書いていますから、書くこと、または、人に話をすることが好きだったのでしょう。
 自分の目標を定めて、その実現に邁進し、実際に実現してしまうタイプの「成功者」の人生を送っておられます。あまり良い喩えが思い浮かびませんが、季節がら、スキーで言えば、多少のコブは無視できる筋力を持っていて、ハイスピードのスラロームで滑るタイプですね。長らくスキーはしていませんが、斜面のコブの一つ一つにゴンゴンと当たっては、飛ばされてしまう私とはタイプが違います。

話が飛びますが、昔、時代小説の編集者をしていたころの村松友視さんが、子母沢 寛さん(だったと思います)に、時代小説では司馬遼太郎さんの小説がもっとも面白いと言ったら、子母沢さんが、「司馬くんの小説には、表街道を突っ走るような爽快感がある。自分は、つい脇道に入り込んでしまうのでね」と言ったという話を覚えております。表街道を突っ走る人と脇道に入り込んでしまう人、ジャイアントスラロームが得意な人とコブに飛ばされる人、いろいろな人が、それぞれに役割をもって世の中を生きているのですね(ということにしておきましょう)。

私も、こんなブログを綴る理由の1/3は、人に話を聞いてもらいたい、という欲求からだろうと思います。程度の差はあれ、人は誰かにその存在を認めてもらいたいと思っています。書くということの一部はそういうことではないかな、と思います。論文にしてもそうでしょう。最初は、研究費のため、学位のため、ポジションのため、と思っていても、そのうち、同じ書くのなら、恥ずかしくないもの、誇れるものを書きたい、良い仕事をしたい、と思う訳で、そのモチベーションの半分は、他の人に認めてもらいたい、という欲でしょう。そんな欲がなければ、おそらく、面白い論文、感動するような論文というのは余り出ないのではないかなと思います。研究論文で苦労が報われて、面白い話にまとまって出版できると、とても嬉しいです。ある発見を手がかりにして、「お話し」を見つけていくというのは科学研究では、なかなか簡単なことではありません。話の筋を一歩進めるために、論文には一行も書かれていない何十倍もの努力がしばしば払われています。そんな努力の積み重ねでようやく一歩前進して「どうだ!」と思ったら、エディターやレビューアに「話がショボい」と一蹴されてガッカリしたりします。一つ新しいことを発見するだけでも大変ですし、それをもとに話を発展させていくというのはしばしば最初の発見以上の困難があります。しかし「お話し」がないとなかなか出版することも難しいですから、最後に花開くまで、苦しきを耐えてコツコツと努力を積み重ねることになります。(論文不正の多くは、この部分が苦しすぎるので、つい魔が差してインチキしてしまうのが原因だろうと私は思います)

それはともかく、今、客観的に振り返って、彼が「成功者」としての人生を送って来たことは、彼の強い意志と努力の当然の結果であると思います。(勿論、そういう努力をする機会や能力が与えられたという条件があっての上での話ではありますが)生まれつき何でもできるというワケではなさそうで、日々の努力の積み重ねの結果、普通の人の倍のレベルのパフォーマンスを達成しているように見えました。

成功の法則というのは単純な物理に準じていると私は思います。目標を実現するには、「(具体的な)ゴールに向かって、近づく」以外に道はありません。ニューヨークからサンフランシスコに行こうとするのならば、「サンフランシスコを目指して移動する」以外にサンフランシスコに着く方法はありません。いくら頭の中で「サンフランシスコに着いた私」をイメージしても、それ自体が私をサンフランシスコに連れて行くとか、あるいは逆にサンフランシスコを私に引き寄せることなないでしょう。ただし「サンフランシスコに着いた私」をイメージすることで目標を見失わずに「実際にサンフランシスコに向けて移動する努力を払う」確率を高めるという作用はあると思います。目標を見失わないことは大変重要です。しかし、それに加えて、実際に目標に向かって移動するという努力を払う必要があります。

いにく、昔の私は、目標そのものがよくわからず、つい、身の回りのことにいろいろと気をとられてキョロキョロして、脇道に迷い込んでしまったりした挙げ句に、道草そのものが目標だ、と自己正当化さえしようとしていまうような人間でした。親に散々しかられても試験前についSF小説を読みふけって現実逃避してしまう、のびた君のような子供でした。「成功者」になるにも向き不向きがあると、今では、暖かい目で自分を見てやることにしています。

負け惜しみを言うわけではないですが、人生においては、いわゆる「成功者」になることは、余り重要な事ではないと私は思います。結局、人はそれぞれにユニークな人生を送ります。人は人、自分は自分です。「成功者」になることよりも、人生でもっと大切なことは、色々な経験をして学ぶこと、だろうと私は思います。生命がひたすらDNAを複製するように、学ぶことそのものが学びの目的であるかのうように学ぶ、本来、人はそのように作られていると思います。その本来の働きに忠実であることが大切だろうと私は思います。

特定秘密保護法に反対する学者の会が、廃案を目指して賛同者を募っております。賛同戴ける方は、http://www.anti-secrecy-law.blogspot.jp/ (世話人、千葉大、小沢弘明先生)で賛同署名をお願いします。
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