今日が申請提出の締め切りで、この一月のほとんどをこの申請書を書くのに費やしてきました。大変非生産的なことです。
前回の申請やそのアイデアのもとになるデータを集めるために費やした時間を考えると二年以上はかかっています。その間にコロナがあり、色々な事情で人が去っていったこともあり、この申請書のために他のプロジェクトはほとんど進まずという辛い状況でした。そんな状況で、当たるか当たらないかわからない申請書を書くためにそれだけの時間をかけるというのは、われながらバカだなあと思います。
しかし、どうせ人生は死ぬ時までの暇つぶしなのなら、何かしながら暇をつぶす方がつぶしやすいのかも知れないと感じています。
限りある人生の時間をどう考えるかは個人の価値観です。短い限られた時間は貴重であり、寸暇を惜しんで志すものに向かって邁進すべきだ、と思う人もあれば、その限りある時間を楽しんで過ごすことを優先すべきだ、と思う人もあるでしょうし、ま、どっちにしろ暇つぶしに過ぎぬ、と思う人もあるでしょう。私自身もこれらの間を行ったり来たりしていましたけど、今は最後の感覚がもっともしっくりしますね。
振り返れば、高度成長期になり、モーレツ社員や企業戦士という言葉が生まれ、「24時間戦えますか?」という栄養ドリンクのコマーシャルが流れ、Karoshiが英語となった前世紀後半の日本は異常な時代でした。ほとんどキチガイ沙汰です。しかし、思うに日本人は過剰に働くことによってある種の「快感」を得るような生理メカニズムがあるのだろうと思います。働くことは割と生産的な暇つぶしとも言えますし。
私の子供のころにはすでに受験戦争があり、夜遅くまで塾通いをする小学生がいました。一生懸命仕事をすれば儲かる時代で、「頑張ることは良いことだ」という価値観が比較的無批判に社会に広がっていました。私も頑張らないと罪悪感を感じたりする世代です。その後、バブルの崩壊とともに頑張っても報われないケースが増え、今度は「結果責任」になりました。頑張っても頑張らなくても結果が全てで、結果は自己の責任で受け入れよ、みたいな冷ややな資本主義社会の現実を反映したような言葉を聞くようになりました。呆れるほどの価値観の転換です。
思うに正しい態度というか(正しいも間違っているもないのですけど)は、その間でしょう。中庸、バランスの大切さは年を取って理解できるようになりました。適当に頑張って、適当に休み、成果がでればよかった、でなければ残念だ、それでおしまい。そういうのがいいです。「この世資本主義社会は弱肉強食の競争社会で、必死で頑張らないと生き残れないのだから、甘えたことを言うな」と真顔で説教する人が前世紀末にはいて、そういうことを聞くたびにいや〜な気分になっていましたけど、いまは、あなたはあなた、わたしはわたし、触らぬ神に祟りなし、という感じです。
とりあえず申請書は終わったので、次の暇つぶしにうつることにします。二、三の頼まれごともありますし。何か別のことをするのは楽しそうです。